2009.11.28 (Sat)
紅葉の光明寺に行く
京都は西山の光明寺(京都府長岡京市)に行ってきた。光明寺とは京都市の郊外・西山にある名刹で、西山浄土宗の総本山である。でも辺鄙な場所(西山山地の麓)にあって、京都の中心からだと阪急河原町駅から大阪・梅田行きの電車に乗って西向日駅か、長岡天神駅で降りてバスか徒歩でいくしかない。長岡天神からだと路線バスに乗って15分ぐらいで到着するだろうか。徒歩だと2㎞以上は歩かなくてはならないから、日頃、歩きなれてない人にはきついだろう。最も私は西向日の駅から、西の方角へ真っ直ぐ歩いて25分ほどで、光明時までやってきたのだが・・・・・。何と観光バスが数台、駐車場に停まっていて、遠方からの観光客が大勢来ていた。
この光明寺というのは、京都の乙訓地域では昔から紅葉の名所として知られていたが、地元の人しかあまり来なかったのに、最近は京都案内のガイドブックにまで紅葉の名所として紹介されているということを最近知ったばかりである。またテレビでもよく採り上げられるようになっていて、京都以外の人にも知れ渡っているということを知り驚いているのでもある。そのせいか、この光明寺も嵐山、東山、高雄といった紅葉の名所ほどではないが随分と人が多い。あーあ、とうとう京都の郊外の、我々の住んでいる近くの紅葉の名所まで、最近は観光客が群れをなしてやって来るのだなあ・・・・。まいった、まいった。これだと人がいない時間を見計らって写真を撮ろうと思うならば、寺が開いた時間の直後に行かないといい写真は撮れないなあ。まあ、何れにしてもコンパクト・デジタル・カメラでは限界があって、一眼レフほど見事な写真が撮れる訳でもないが、とにかく、ここの紅葉は一見の価値がある。とにかく京都でも屈指の紅葉の艶やかさを誇るが、私のデジカメでは、とても紅葉の全貌を写しきれるのでもないが、取り敢えず写真を何枚か撮ってみたのでご覧あれ。
※写真はクリックすると拡大します







赤い楓が落ち葉として石畳の上に舞い落ちて、やがて赤い絨毯のようになるのだが・・・・











紅葉と法然上人の像






京都の紅葉も今週がピークで来週は落ち葉が目立つだろうなあ。
この光明寺というのは、京都の乙訓地域では昔から紅葉の名所として知られていたが、地元の人しかあまり来なかったのに、最近は京都案内のガイドブックにまで紅葉の名所として紹介されているということを最近知ったばかりである。またテレビでもよく採り上げられるようになっていて、京都以外の人にも知れ渡っているということを知り驚いているのでもある。そのせいか、この光明寺も嵐山、東山、高雄といった紅葉の名所ほどではないが随分と人が多い。あーあ、とうとう京都の郊外の、我々の住んでいる近くの紅葉の名所まで、最近は観光客が群れをなしてやって来るのだなあ・・・・。まいった、まいった。これだと人がいない時間を見計らって写真を撮ろうと思うならば、寺が開いた時間の直後に行かないといい写真は撮れないなあ。まあ、何れにしてもコンパクト・デジタル・カメラでは限界があって、一眼レフほど見事な写真が撮れる訳でもないが、とにかく、ここの紅葉は一見の価値がある。とにかく京都でも屈指の紅葉の艶やかさを誇るが、私のデジカメでは、とても紅葉の全貌を写しきれるのでもないが、取り敢えず写真を何枚か撮ってみたのでご覧あれ。
※写真はクリックすると拡大します







赤い楓が落ち葉として石畳の上に舞い落ちて、やがて赤い絨毯のようになるのだが・・・・











紅葉と法然上人の像






京都の紅葉も今週がピークで来週は落ち葉が目立つだろうなあ。
2009.10.24 (Sat)
去り行くタワー
旧・朝日放送社屋の隣にあった電波塔が取り壊されている。すでに天辺までの高さが100mを僅かに超えているぐらいまでに低くなっている。でも朝日放送の電波塔といっても判りにくいかもしれないが通称で大阪タワーというと判るだろうか。大阪タワーといっても知名度なら通天閣よりも遥かにおちる。でも高さでは通天閣の103mに対して大阪タワーは158mと優っていた。
大阪タワーは朝日放送が中之島から大淀区に移転してきた時、社屋と同時に造られた。当初は社屋の上に鉄塔が建てられるはずだったが、少なくとも110m以上の電波塔が必要ということで、社屋の上では無理があることから急遽、社屋の横の空き地に建てられる事となったが、土地が狭いことから東京タワーのような裾が広がった形の鉄塔が造れず、やむなく五重の塔のような形となったようだ。
完成が1966年7月というから、まだ完成して43年にしかならず、それでいて壊されているのである。既に朝日放送が昨年、堂島川沿いに新社屋を建てて移転したことは、このブログ上で記事にしたことがあるが、この大淀の旧・社屋は完全に跡形もなくなり更地となっている。それで大阪タワーがグリップダウン工法(通称ダルマ落とし)で、取り壊されている最中なのだが、ずいぶんと低くなったものである。この調子だと年内にすっかり姿を消してしまいそうであるが、それにしても大阪タワーというのは実に短い命だったなと思う。
そもそも大阪を代表する鉄塔というと通天閣が在り、こちらは明治時代に初代が建てられ、現在のは2代目である。でも高さが103mと低い。まあ、テレビ塔でもなく、もともとは博覧会の目玉として建てられた鉄塔なので、形が面白かったのだが、空襲で焼け落ち、戦後に地元の商店街の人の嘆願で建てられた鉄塔なので、大阪の人には低くても愛着があるのだろう。でも大阪タワーは知名度でも今一つであった。本来、建てられるはずではなった鉄塔だが、急遽建てられ、電波塔としての役割を果すことになるのだが、大阪タワーなんていう名前から想像すると意外にも低い。158mなんて東京タワーの半分もない。
もっとも関西には東京タワーのような電波塔を建てる必要などないから、この程度の高さでおさまっているのだが・・・・・・・・・。つまりだだ広い関東平野全体にテレビの電波を届かすのが必要だったから、東京タワーはあの高さになり、新たに第二東京タワーも超高層ビルが乱立した今日においては、600mの高さが必要だったということになるのだが、関西では標高600m以上ある生駒山の山頂に小さな電波塔さえ建てれば、それで関西全てに電波が行届くので、桁外れの高さの電波塔を建てる必要が全くないのである。それで大阪タワーなんていう名の鉄塔もあまり活躍することもなく、お役ごめんとなってしまった。
2008年9月20日に書いた記事を参照してもらうと判ると思うが、大阪タワーも低くなり、隣の元ホテル・プラザの高さとあまり変わらなくなりつつある。このまま、工事が進み、いよいよ消えてなくなるのだろう。いずれ大阪タワーなんていう大袈裟な名前を持った鉄塔があったと、人から人に語り継がれるようになり、その頃には、この周辺も大阪タワー以上に高いビルディングで埋もれつつある街に変貌しているかもしれない。
左の元ホテル・プラザが搭屋部分も含めて高さが88m(23階)である。それから推測すると、大阪タワーの高さは100mと少し超えているぐらいだろうか。いや、100mもないかもしれない。

違う角度から撮ってみた。右の板塀は旧・朝日放送社屋があったところ。

大阪タワーは朝日放送が中之島から大淀区に移転してきた時、社屋と同時に造られた。当初は社屋の上に鉄塔が建てられるはずだったが、少なくとも110m以上の電波塔が必要ということで、社屋の上では無理があることから急遽、社屋の横の空き地に建てられる事となったが、土地が狭いことから東京タワーのような裾が広がった形の鉄塔が造れず、やむなく五重の塔のような形となったようだ。
完成が1966年7月というから、まだ完成して43年にしかならず、それでいて壊されているのである。既に朝日放送が昨年、堂島川沿いに新社屋を建てて移転したことは、このブログ上で記事にしたことがあるが、この大淀の旧・社屋は完全に跡形もなくなり更地となっている。それで大阪タワーがグリップダウン工法(通称ダルマ落とし)で、取り壊されている最中なのだが、ずいぶんと低くなったものである。この調子だと年内にすっかり姿を消してしまいそうであるが、それにしても大阪タワーというのは実に短い命だったなと思う。
そもそも大阪を代表する鉄塔というと通天閣が在り、こちらは明治時代に初代が建てられ、現在のは2代目である。でも高さが103mと低い。まあ、テレビ塔でもなく、もともとは博覧会の目玉として建てられた鉄塔なので、形が面白かったのだが、空襲で焼け落ち、戦後に地元の商店街の人の嘆願で建てられた鉄塔なので、大阪の人には低くても愛着があるのだろう。でも大阪タワーは知名度でも今一つであった。本来、建てられるはずではなった鉄塔だが、急遽建てられ、電波塔としての役割を果すことになるのだが、大阪タワーなんていう名前から想像すると意外にも低い。158mなんて東京タワーの半分もない。
もっとも関西には東京タワーのような電波塔を建てる必要などないから、この程度の高さでおさまっているのだが・・・・・・・・・。つまりだだ広い関東平野全体にテレビの電波を届かすのが必要だったから、東京タワーはあの高さになり、新たに第二東京タワーも超高層ビルが乱立した今日においては、600mの高さが必要だったということになるのだが、関西では標高600m以上ある生駒山の山頂に小さな電波塔さえ建てれば、それで関西全てに電波が行届くので、桁外れの高さの電波塔を建てる必要が全くないのである。それで大阪タワーなんていう名の鉄塔もあまり活躍することもなく、お役ごめんとなってしまった。
2008年9月20日に書いた記事を参照してもらうと判ると思うが、大阪タワーも低くなり、隣の元ホテル・プラザの高さとあまり変わらなくなりつつある。このまま、工事が進み、いよいよ消えてなくなるのだろう。いずれ大阪タワーなんていう大袈裟な名前を持った鉄塔があったと、人から人に語り継がれるようになり、その頃には、この周辺も大阪タワー以上に高いビルディングで埋もれつつある街に変貌しているかもしれない。
左の元ホテル・プラザが搭屋部分も含めて高さが88m(23階)である。それから推測すると、大阪タワーの高さは100mと少し超えているぐらいだろうか。いや、100mもないかもしれない。

違う角度から撮ってみた。右の板塀は旧・朝日放送社屋があったところ。

2009.10.03 (Sat)
ビルの街にガオー

先日、神戸の新長田駅前で高さが18mの鉄人28号を製作していると当ブログ上で紹介したと思うが、とうとう完成したので、またまた現地まで足を運んできた。
鉄人28号とは、昭和31年(1956年)~昭和41年(1966年)まで月刊誌『少年』に掲載されていた横山光輝の漫画である。それで、この漫画を読んで育ったのが我々の世代ということになるが、一般的には昭和38年(1963年)にアニメ化され、暫くテレビで放送され『鉄腕アトム』と共に、日本の連続アニメ・ドラマの草分けとなった(その前には実写版もあったが)。その後、何度かリメイクもされ、若い人はリメイク版で『鉄人28号』を知ったようである。
そもそも第二次世界大戦の日本の秘密兵器として製造されていたロボット鉄人28号であるが、完成したのが戦後のことである。リモートコントローラーで動き、ジェット噴射で空を飛ぶ。まさに鉄人ロボットである。開発に当ったのが金田博士や敷島博士であり、その後、完成した暁には金田博士の息子である金田正太郎少年が操縦していた。しかし、悪者にリモコンを奪われ、時には鉄人が敵となるなど、今となっては勧善懲悪のストーリーで古臭くもある。でも当時の子供にとっては、『鉄腕アトム』と並んでロボット物に夢を託すきっかけとなった漫画であった。
その鉄人28号の等身大といわれるモニュメントが、このほどJR新長田駅前の若松公園に完成して、明日、完成セレモニーが行なわれる。1995年の阪神淡路大震災で焼け野原となった長田の街の復興のシンボルとして、計画され製作されたという。原作者の横山光輝は既に故人であり、この鉄人28号の勇姿を見ることもないが、もし生きていたとしたら故郷・神戸の街に立つ鉄人28号の原寸大モニュメントに感激したのではないだろうか。
それでは鉄人28号をとくとご覧。
(この写真のみ、クリックすると拡大します)

横から見たところ、足元はまだ整地中である。ショベルと大きさを比較すると面白い。重さは50t。

やや後ろから撮ってみた。

ジェット噴射だ。

頭が意外と小さく、子供の頃に見たアニメよりも現代的な顔と体型をしている。

昭和38年から放送されたアニメ版『鉄人28号』のオープニングと主題歌。グリコ、グリコ、グリコなんて懐かしい。
2009.09.12 (Sat)
巨大アヒルにジャイアントとらやんに・・・
今回のタイトル、何のことなのかと思われたかもしれない。巨大アヒルにジャイアントとらやんというのは、今、現在、大阪で催されている『水都大阪2009』というイベントで出現したキャラクターのことである。何やら、このところ大阪の中之島を中心として、色んな催しが行なわれ、その中心に上記のキャラクターがいる。そこで雨降る中、今日、早速、見に行ってきた次第である。
まずは地下鉄天満橋の駅を降りて、地上に出て大川(旧・淀川)の川岸に出るや、いたいた巨大アヒルが・・・・・・。天満橋からほど近い八軒家浜に現れた巨大アヒル『ラバーダック』である。プカプカと浮いている。

高さが9m50㎝。ユーモラスなアヒルである。

後ろから撮ってみた。オランダの芸術家F・ホフマンの制作による。

後方の天満橋とビルをバックにすると、その大きさが判るだろう。

次に現れたのが、ヤノベケンジ制作のアート船『ラッキー・ドラゴン』である。『ラッキー・ドラゴン』は、大阪の運河を行きかいするアート船で、船の中央にいるドラゴンが立ち上がって火を噴いたりする。

ヤノベケンジとは、大阪出身で現在も大阪府高槻市に住んでいる現代美術作家で大型機械彫刻家ともいうべき人である。彼は子供の頃、1970年の大阪万国博覧会の会場近くで育ち、その未来都市を身近に見てから、色々な空想をアートととして再現することに力を注ぐようになった芸術家である。今回はこの『ラッキー・ドラゴン』と数々の『とらやん』を出展しているのである。

『ラッキー・ドラゴン』を操縦する『とらやん』である。とらやんとは、ヤノベケンジ創作のキャラクターである。

時には銀色のドラゴンの口から火を噴いたりする。

これは中之島公園内に展示されてある、淀川水系の廃棄物で作った巨大魚である。

さてさて、今回のイベントの目玉の一つが、この『ジャイアントとらやん』である。これまで金沢や東京の六本木で展示されていたりして、すでに一般の人の間で知れ渡っているが、やはり大阪での展示だとホームタウンに帰ってきたという感じが強い。

大阪市役所の1階ロビーにいる『ジャイアントとらやん』は高さが7.2mで、時々、口や目や身体や手が動いたりして、お腹の扉が開くと、『とらやん』が姿を現す。

ヤノベケンジ創作のキャラクター『とらやん』である。バーコード頭にチョビ髭を生やし、放射線感知服《アトムスーツ》を着る浪速のとらやんである。

おっ、ジャイアントとらやんの目と口が動いた。

お腹の扉も開いた。

中之島にある京阪・なにわ橋駅の地下1階にあるアートエリアには大勢のとらやんがいた。

とらやんが『ラッキードラゴンのおはなし』を読む。

何とも奇妙な彫刻である。ジャイアントとらやんと観覧車に乗るとらやん。

ラッキードラゴン船に乗るジャイアントとらやんととらやんかな・・・・・。

何とも面白い水都大阪2009の催しであるが、来月の頭まで色々な行事があるというので、また覘いてみようと思う。では、また・・・・・。
まずは地下鉄天満橋の駅を降りて、地上に出て大川(旧・淀川)の川岸に出るや、いたいた巨大アヒルが・・・・・・。天満橋からほど近い八軒家浜に現れた巨大アヒル『ラバーダック』である。プカプカと浮いている。

高さが9m50㎝。ユーモラスなアヒルである。

後ろから撮ってみた。オランダの芸術家F・ホフマンの制作による。

後方の天満橋とビルをバックにすると、その大きさが判るだろう。

次に現れたのが、ヤノベケンジ制作のアート船『ラッキー・ドラゴン』である。『ラッキー・ドラゴン』は、大阪の運河を行きかいするアート船で、船の中央にいるドラゴンが立ち上がって火を噴いたりする。

ヤノベケンジとは、大阪出身で現在も大阪府高槻市に住んでいる現代美術作家で大型機械彫刻家ともいうべき人である。彼は子供の頃、1970年の大阪万国博覧会の会場近くで育ち、その未来都市を身近に見てから、色々な空想をアートととして再現することに力を注ぐようになった芸術家である。今回はこの『ラッキー・ドラゴン』と数々の『とらやん』を出展しているのである。

『ラッキー・ドラゴン』を操縦する『とらやん』である。とらやんとは、ヤノベケンジ創作のキャラクターである。

時には銀色のドラゴンの口から火を噴いたりする。

これは中之島公園内に展示されてある、淀川水系の廃棄物で作った巨大魚である。

さてさて、今回のイベントの目玉の一つが、この『ジャイアントとらやん』である。これまで金沢や東京の六本木で展示されていたりして、すでに一般の人の間で知れ渡っているが、やはり大阪での展示だとホームタウンに帰ってきたという感じが強い。

大阪市役所の1階ロビーにいる『ジャイアントとらやん』は高さが7.2mで、時々、口や目や身体や手が動いたりして、お腹の扉が開くと、『とらやん』が姿を現す。

ヤノベケンジ創作のキャラクター『とらやん』である。バーコード頭にチョビ髭を生やし、放射線感知服《アトムスーツ》を着る浪速のとらやんである。

おっ、ジャイアントとらやんの目と口が動いた。

お腹の扉も開いた。

中之島にある京阪・なにわ橋駅の地下1階にあるアートエリアには大勢のとらやんがいた。

とらやんが『ラッキードラゴンのおはなし』を読む。

何とも奇妙な彫刻である。ジャイアントとらやんと観覧車に乗るとらやん。

ラッキードラゴン船に乗るジャイアントとらやんととらやんかな・・・・・。

何とも面白い水都大阪2009の催しであるが、来月の頭まで色々な行事があるというので、また覘いてみようと思う。では、また・・・・・。
2009.09.05 (Sat)
神戸長田の街に鉄人が・・・・・
神戸のJR新長田の駅近くになにやら巨大なモニュメントが現れだした。完成すれば高さが18mだという。鋼鉄の身体に巨大なジェットエンジンを持ち、二足歩行で動くロボット。その名を『鉄人28号』という。
実は昭和30年代を代表する漫画『鉄人28号』の実物大モニュメントが建築中である。場所は神戸市長田区の若松公園内。先の阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けた長田の街。ここはかつてケミカルシューズ等の地場産業で栄えたところであるが、あの震災の爪痕がまだ完全に癒えた訳ではない。それで『KOBE鉄人PROJECT』と題して、阪神淡路大震災復興のシンボルとして長田区の商店主らが中心となって、神戸市出身の漫画家・横山光輝の代表作である『鉄人28号』の実物大モニュメントを作ろうというものであり、現在、頭を残して、ほぼ胴体が完成しつつある。そこで早速、小生が現場まで訪れて、写真を撮ってきたということで・・・・・。取り敢えずご覧頂きましょう。
JR新長田の駅から歩いて5分。駅の南西側にある若松公園まで行くと、幕に囲まれた巨大なモニュメントが目に入る。これが鉄人28号である。ちょうど年代的にいっても我々が、漫画で見てアニメになってからも見ていたという世代なので何か感慨深いものがある。先月まで東京のお台場に暫くの間、展示されていた『ガンダム』と似通ったモニュメントではあるが、私などは『ガンダム』と言われても、何のことかさっぱり判らないが、『鉄人28号』というと、幼少の頃から、少年時代にかけて馴染んだキャラクターである。

まだ頭がないから、いまいちよく判らないが、もう暫くしたら頭が付けられ色も塗られるのだろう。

斜め後ろから見るとこのような感じである。

大きな拳である。9月の末か、10月の初頭には完成するらしい。完成したら、また記事にしようと思うので、よろしく。

実は昭和30年代を代表する漫画『鉄人28号』の実物大モニュメントが建築中である。場所は神戸市長田区の若松公園内。先の阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けた長田の街。ここはかつてケミカルシューズ等の地場産業で栄えたところであるが、あの震災の爪痕がまだ完全に癒えた訳ではない。それで『KOBE鉄人PROJECT』と題して、阪神淡路大震災復興のシンボルとして長田区の商店主らが中心となって、神戸市出身の漫画家・横山光輝の代表作である『鉄人28号』の実物大モニュメントを作ろうというものであり、現在、頭を残して、ほぼ胴体が完成しつつある。そこで早速、小生が現場まで訪れて、写真を撮ってきたということで・・・・・。取り敢えずご覧頂きましょう。
JR新長田の駅から歩いて5分。駅の南西側にある若松公園まで行くと、幕に囲まれた巨大なモニュメントが目に入る。これが鉄人28号である。ちょうど年代的にいっても我々が、漫画で見てアニメになってからも見ていたという世代なので何か感慨深いものがある。先月まで東京のお台場に暫くの間、展示されていた『ガンダム』と似通ったモニュメントではあるが、私などは『ガンダム』と言われても、何のことかさっぱり判らないが、『鉄人28号』というと、幼少の頃から、少年時代にかけて馴染んだキャラクターである。

まだ頭がないから、いまいちよく判らないが、もう暫くしたら頭が付けられ色も塗られるのだろう。

斜め後ろから見るとこのような感じである。

大きな拳である。9月の末か、10月の初頭には完成するらしい。完成したら、また記事にしようと思うので、よろしく。

2009.08.13 (Thu)
神戸のプレスリー像
先日の日曜日、神戸のハーバーランドでエルヴィス・プレスリー像の除幕式があった。何で神戸にプレスリー像がと考える向きもあるだろう。実は今年の1月8日、東京・原宿にあったロック・グッズ専門ショップ『ロックンロール・ミュージアム』にあったエルヴィス・プレスリー像が移転してきたものである。
今年の1月まで原宿の店舗にあったプレスリー像の落ち着く先がなかなか見つからなかったが、何と神戸に来たという。それで神戸ハーバーランド・ガス燈通りにある神戸情報文化ビル前に設置されることが決まり、8月8日に除幕式が行なわれたのである。式典にはプレスリーの熱狂的ファンであった湯川れい子や小泉純一郎元首相が駆けつけて、100人以上が見つめる中、派手に行なわれたのである。
でも何で東京・原宿にあったプレスリー像が神戸に移って来たかと言う理由はよく判らない。でも湯川れい子女史によると「神戸は日本のジャズ発症の地だから」ということらしい。だが、プレスリーはロックンロール・ミュージシャンだしジャズとは異なるのだが・・・・・。ただし20世紀の商業音楽及びポピュラー音楽の流れの中では、ジャズもロックンロールも歴史の中の一つのジャンルにしか過ぎないことを考えると、神戸でよかったのかもしれない。ただプレスリー像のある場所は、道路の脇で港が近い潮風の吹くようなところである。こんな場所だと、あまり人も訪れないかもしれない。
私が訪れた時は、初老の男性2人が記念写真を撮っていたが、後から来た小母さんたちは「この人、外人さんや」と言っておきながら、ちゃっかり写真を撮っていた。でも若者の姿はあまりなく、プレスリーを知る人も少なくなってきた。心臓発作により42歳という若さで急逝したプレスリーなのであるが、そんな人が一世を風靡したと知る若者も少ないのだろう。考えてみればプレスリーが亡くなって早くも32年になろうとしている。その頃、生まれた赤ん坊も30代ということは、20代や10代の若者にとっては、プレスリーというのは過去のミュージシャンということで片付けられてしまうのだろう。でも彼が歌った曲の数々は、今でも生きているし、現役のミュージシャンがプレスリーの曲を歌っているのをよく聴くこともあり、一部の若いロックファンは、プレスリーに対して畏敬の意を持っているのだと思う。ただ彼は、あまりにも早く亡くなりすぎた。それが残念である。
プレスリーの若い頃の像だが、設置された場所はこのようなところである。後方に港のクレーンが見える。

日本で言うなら今年の8月16日は、プレスリーの33回忌ということになるのだが・・・・・。


『ハートブレイク・ホテル』『ハウンド・ドッグ』『監獄ロック』が聴こえてきそうだ。

今年の1月まで原宿の店舗にあったプレスリー像の落ち着く先がなかなか見つからなかったが、何と神戸に来たという。それで神戸ハーバーランド・ガス燈通りにある神戸情報文化ビル前に設置されることが決まり、8月8日に除幕式が行なわれたのである。式典にはプレスリーの熱狂的ファンであった湯川れい子や小泉純一郎元首相が駆けつけて、100人以上が見つめる中、派手に行なわれたのである。
でも何で東京・原宿にあったプレスリー像が神戸に移って来たかと言う理由はよく判らない。でも湯川れい子女史によると「神戸は日本のジャズ発症の地だから」ということらしい。だが、プレスリーはロックンロール・ミュージシャンだしジャズとは異なるのだが・・・・・。ただし20世紀の商業音楽及びポピュラー音楽の流れの中では、ジャズもロックンロールも歴史の中の一つのジャンルにしか過ぎないことを考えると、神戸でよかったのかもしれない。ただプレスリー像のある場所は、道路の脇で港が近い潮風の吹くようなところである。こんな場所だと、あまり人も訪れないかもしれない。
私が訪れた時は、初老の男性2人が記念写真を撮っていたが、後から来た小母さんたちは「この人、外人さんや」と言っておきながら、ちゃっかり写真を撮っていた。でも若者の姿はあまりなく、プレスリーを知る人も少なくなってきた。心臓発作により42歳という若さで急逝したプレスリーなのであるが、そんな人が一世を風靡したと知る若者も少ないのだろう。考えてみればプレスリーが亡くなって早くも32年になろうとしている。その頃、生まれた赤ん坊も30代ということは、20代や10代の若者にとっては、プレスリーというのは過去のミュージシャンということで片付けられてしまうのだろう。でも彼が歌った曲の数々は、今でも生きているし、現役のミュージシャンがプレスリーの曲を歌っているのをよく聴くこともあり、一部の若いロックファンは、プレスリーに対して畏敬の意を持っているのだと思う。ただ彼は、あまりにも早く亡くなりすぎた。それが残念である。
プレスリーの若い頃の像だが、設置された場所はこのようなところである。後方に港のクレーンが見える。

日本で言うなら今年の8月16日は、プレスリーの33回忌ということになるのだが・・・・・。


『ハートブレイク・ホテル』『ハウンド・ドッグ』『監獄ロック』が聴こえてきそうだ。
