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2009.08.08 (Sat)

くいだおれ太郎がいた・・・・・

 昨年の7月8日、大阪・道頓堀の食堂ビル『大阪名物くいだおれ』が閉店し、同時に人気のあった人形『くいだおれ太郎』が姿を消してはや1年。あれから元の店舗は閉鎖されたが、まだ建物は残っていて、未だに記念撮影を行なう観光客がいるが、先月の7月19日、旧店舗の僅か東、旧・中座址に建っている商業ビルがリニューアル・オープンし、その店頭に何と『くいだおれ太郎』が復活した。

 この新しくオープンした店舗は、『中座くいだおれビル』といい、何だか昔にあった『大阪名物くいだおれ』ビルとどう違うのかと問いたくなるが、新しい経営者も名前を似せて、客寄せのために『くいだおれ太郎』を店頭に立たせると言う用意周到さ。ここのビルの経営者は東京の会社だが、道頓堀らしさを演出するには、消えた道頓堀の人気者にあやかろうとしたのかもしれない。そういうことで人形の持ち主からレンタルで借りているそうな・・・・・・。

 それで久しぶりに暑い中を道頓堀まで行ってみたが、懐かしい人形が確かにいた。場所は元の『くいだおれ』ビルから、僅か20、30m東にある商業ビル。ここは昔、大阪五座(芝居小屋)の一つである中座が建っていたところで、その場所に『くいだおれ太郎』が立っているなんて時代も変わったものである。

 さて、新しい『中座くいだおれビル』もコンセプトとしては、以前の『大阪名物くいだおれ』とあまり違っていないようだが、今回は商魂逞しく、店員が店頭で『くいだおれ太郎』の前で一緒に写真を撮りませんかと呼び込んでいる。もしかして写真を撮って記念に売りつけるのだろうか・・・・・・・。これだと各自、自由に写真を撮っていた以前の姿とは少し違っているのでは・・・・・・。前の店は、人形ばかりが有名になったが、肝心の店舗の中までは客は来なかった。それが、今回はくいだおれ人形まで商売の対象にしているのではないのか・・・・・。ああ、世知辛い世の中になった。まあ。まだ確認してないからはっきりしたことは判らないが、人形の周囲には、法被を着た店員が大勢いて、『くいだおれ太郎』の近くにはあまり近寄れない模様である。

 何か以前のような、人形の前に人がたかって写真を撮りまくっていた光景とは若干違っていて、時代も変化したものだと感じた次第である。ただ、この商業ビルが、はたして生き残れるかは大いに問題があって、何時までも『くいだおれ太郎』が、この場所に立っていられるかどうかは店次第ということになる。・・・・でも、道頓堀以外に行かなくてよかったと多くの人は考えているだろう。


 前の『大阪名物くいだおれ』のあったビル。店が閉められて寂しいものであるが、未だに写真を撮っていく人が多い。
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 久々に『くいだおれ太郎』が姿を現した『中座くいだおれビル』
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 『くいだおれ太郎』は店の前ではなく、入り口を少し入ったところに立っていて、遠巻きに写真を撮る人はいるが、前に立って写真を勝手に撮れないようだ。
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 法被を着た店の人が『くいだおれ太郎』の前で、客の呼び込みをしている。・・・・以前とは何処か違うなあ・・・・・・。
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2009.07.18 (Sat)

野球場址を訪ねて パート4

 野球場址を訪ねてという記事をこれまで3回にわたって書いてきたが、今回は番外編とでも言うべき野球場址を訪ねてである。訪ねた球場は豊中球場。豊中球場・・・・???・・・・こんな野球場あったかなと思われるかもしれない。遥か大昔に無くなった、かつて存在した野球場・・・というよりもグラウンドである。

 1913年に完成したグラウンドである。ということは大正2年に出来たということになるから何という古さであろうか。このグラウンドを作ったのは小林一三の箕面有馬電気軌道という会社。つまり現在の阪急電鉄のことである。数年前に大阪・梅田と宝塚間に電車を走らせた箕面有馬電気軌道は沿線の豊中村に陸上競技やサッカー、ラグビー等のスポーツ全般にわたって試合が出来るグラウンドを造成した。それが豊中グラウンドである。またちょうど中等学校で野球が盛んになりつつあった頃であり、朝日新聞が現在の高校野球の前身にあたる全国中等学校優勝野球大会を開催することになる。こうして大正4年(1915年)に第1回全国優勝野球大会が参加10校によって開かれた。つまり、現在の高校野球の記念すべき第1回大会が行なわれたところが今日、訪れた豊中グラウンド(豊中球場)なのである。

 こんなこと書くと高校野球は甲子園で行なわれているではないかと疑問に思われるかもしれないが、甲子園が完成するのは大正13年のことで、中等野球の第1回は紛れもなく、この場所で開催されたのである。

 子供の頃から、高校野球は大正4年に豊中球場で始まったと聞いてはいた。でも今回、私は初めて当所を訪れることになる。ある場所は大体、判っている。阪急宝塚線の豊中駅から徒歩10分ぐらいと聞いていたので、阪急の十三駅で乗り換えて宝塚行きの急行に乗った。十三から豊中まで停まらないので時間的には10分ほどで到着。そこから西の方角へ歩いて10分。豊中市玉井町三丁目。すぐにそれらしき記念碑が目に入る。この付近は住宅地。その中に数々のレリーフが飾ってある一画があるだけで、かつて広いグラウンドがあったという面影は何処にも残されてない。中等野球を2回開催して、3回目からは兵庫県鳴尾村(現・西宮市)にある鳴尾競馬場の中のグラウンドに会場を移されたらしく、たった2回だけの開催で、この豊中グラウンドは1922年に取り壊されたというから勿体ない話だ。

 何故、第1回を開催したのに場所を移したかというのは、大会の参加校が増えると大会期間が延びることから、複数の会場が必要になるとされたからである。鳴尾会場はグラウンドが2面あったので、同時に2試合が消化できたという。でも大会の開催ごとに人気が沸騰。試合の観戦者が観客席から溢れ出し、それが試合進行の妨げになるとのことで、とうとう中等野球のための野球場を建設することとなり、こうして完成したのが阪神甲子園球場だったということである。それ以来、現在まで高校野球は人気が衰えもせず、毎年、毎年、80年以上も繰り返されてきたのである。


 『球史ここに始まる』の一文と第1回大会の始球式の時の写真をレリーフ化した記念碑。
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 高校野球発祥の地
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 豊中グラウンド跡地
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 第2回大会の出場校名とグラウンドの平面図を載せてあるレリーフ
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 豊中グラウンドの帰り道、豊中ローズ球場で高校野球の大阪予選が行なわれていたので立ち寄って2試合ほど観てきた。
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 強豪校も部員の数が足りないところも対戦するだけに、予選らしく点数も賑やかだ。
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 ちょっと点数の入りすぎでは・・・・・。3回裏の16点は、26点の間違いである。実は得点掲示板は1イニング最大で19点までしか表示できず、実際には26点入ったのだが・・・・・・・。1イニング20点以上は想定外だったということである。本当に高校野球は何が起こるか判らない。
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 暑いのに選手の皆さんご苦労さん・・・・・ではまた・・・・・・。
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2009.07.11 (Sat)

続々・野球場址を訪ねて

 このシリーズも3回目となる。最初は近鉄バファローズのフランチャイズだった日生球場、藤井寺球場を訪れ、2回目は阪急ブレーブスのフランチャイズだった西宮球場を訪れた。すると3回目は当然のように南海ホークスのフランチャイズだった大阪球場址を訪れることになる。

 大阪駅周辺を梅田というが、この梅田から地下鉄御堂筋線に乗って10分ほどで難波駅に到着する。地下鉄難波駅を降りて地上に上がると高島屋百貨店がある。そして、高島屋の裏にかつて威容を誇っていたのが大阪球場である。いわば繁華街のど真ん中にある野球場であった。この難波周辺を大阪の人はミナミと呼ぶが、ミナミは大阪最大の繁華街である。そんなミナミは南海電鉄・難波駅のすぐ側に大阪球場はあった。甲子園や西宮、藤井寺といった郊外にあるのではなく、建物が所狭しと立て込んでいる空間の中にある野球場であった。

 そもそもこの大阪球場を本拠地としていた南海ホークスは、親会社の南海鉄道が昭和13年に結成したプロ野球球団で、戦後の昭和25年からはパシフィック・リーグに所属した球団である。それでこの年の秋に大阪球場が完成し、この時から南海ホークスと大阪球場の歴史が始まるのである。

 2リーグ分裂後、南海ホークスは強かった。昭和26年から3年間リーグ優勝を果し、昭和30年にもリーグ優勝。だが、日本シリーズでは何時も巨人の後塵を拝していた。それが昭和33年、立教三羽烏の1人(あとの2人は長嶋茂雄、元屋敷錦吾)といわれた杉浦忠が入団する。この杉浦はサイドスローから勢いのある球で打者を翻弄し、新人ながら27勝12敗の成績を挙げる。でも優勝は稲尾和久を擁する西鉄ライオンズであった。翌、昭和34年、杉浦は驚異的な38勝4敗という成績を残し、久々のパシフィック・リーグ優勝を南海に齎す。その勢いで、日本シリーズに突入、相手は宿敵の巨人。4番には立教時代のチームメイトで、人気絶頂の長嶋茂雄がいる。でも杉浦は4連投、4連勝し、見事、日本シリーズ優勝。南海は初の日本一に輝いた。つまり南海ホークスの絶頂期が、この頃なのである。

 でも残念ながら、まだ小学校にも入学していない私としては、この頃の記憶は無い。私が野球に興味を持つのは、この2、3年後のことである。だから南海の黄金時代を知らない。あの当時は大阪で阪神と人気を二分していたという。とにかく強かったしスター選手も多く、鶴岡一人監督率いる南海ホークスのフランチャイズ大阪球場は、好カードともなると何時も32000人の観衆で埋っていたという。それが世はテレビの時代に入り、当たり前のように全国中継は巨人を中心とした試合ばかりが流れるようになる。だからテレビ放送のあまりないパ・リーグのチームは何時しか蔑ろにされることとなる。

 いくら南海が強くても、所詮はパ・リーグのチーム。関西ではだんだんとセ・リーグの阪神の人気が増していき、昭和41年に南海が優勝したのを最後に、その後のチーム低迷と共に、南海ホークスの人気も急降下。大阪球場は空席が目立つようになる。そんな頃であろうか、大阪球場のスタンドへ私はよく通っていた。小学生の時に杉浦忠のファになり、南海ホークスを応援するようになっていた。杉浦忠という投手は痩身で眼鏡をかけていて、風貌からいっても野球選手には見えなくて、生真面目な公務員を彷彿とさせる。でもサイドスローから放たれるボールは威力があった。杉浦は新人で27勝、翌年が38勝、さらに翌年が31勝と八面六臂の大活躍。でも私が杉浦忠を知ったのは、さらにその翌年であった。つまり昭和36年のことである。私が野球を意識して観る様になったのは、この頃からであろう。昭和36年、杉浦は投げすぎから血行障害を患う。でも20勝9敗と立派な成績を残す。だが、この年のエースは事実上ジョー・スタンカといってもいいだろう。その後、杉浦は一度、優勝した昭和39年に復活するが、この年以降は2度と輝きを放つことはなかった。そして、杉浦の成績不振と並行するかのように、常勝・南海ホークスも下位低迷が当たり前になる。

 先ほど私は杉浦の全盛期以降にファンになったと書いたが、実際に大阪球場へ来るようになった時の南海ホークスはすっかり弱小球団に陥っていた。でも本当のところは野球を観戦しに訪れたのではなく競馬中継を聞きながら野球を観戦していたというのが実情なのである。知っている人は判ると思うが、大阪球場の外野スタンドの下は日本中央競馬会の場外馬券売り場になっていて、土曜日、日曜日の競馬開催日になると、私は100円馬券が買える難波場外へ若い頃は毎週のように来ていたのだ。午前中に前売りで馬券を買い、昼飯を食ってから午後のレースまで間があるから暇を持て余していた。それで考えたのが、野球でも観ておこうということになり、日曜日などにデーゲームが多かったせいか外野スタンドに陣取り、南海ホークスの試合を適当に観ながら、レースの発走時間となるとラジオの競馬中継に耳を傾けるというのが、あの頃の休日の過ごし方だったのである。だが南海の試合よりも競馬の方に注意が行き、試合内容をほとんど記憶していないというお粗末さであった。よく覚えていることは、南海は阪急相手だと、何時も負けていたという現実。

 とにかく昭和50年以降の南海ホークスはよく負ける弱小球団に転落していたし大阪球場は常時ガラガラ。外野スタンドは私を含めても観衆200人もいなかったかもしれない。内野を含めても1万人にはほど遠かっただろう。酷い時は野球を観るためではなく、サックスフォンの練習をするために入場料を払って外野スタンドへ来ている者までいた。こんな調子だから南海電鉄は赤字の球団を早くから売却しようと考えていたことは理解できる。でも昭和63年(1988年)秋、南海ホークスがダイエーへ売却され、本拠地を福岡に移すことが決定した時は気が抜けた。同じ年、阪急ブレーブスも売却された。

 もうプロ野球を観るまいと思った。南海ホークスが去ったあと大阪球場はしばらくの間、残された。主を失った巨大な建造物は異様だった。人も立ち寄らないのに存在感だけがあり静まり返っていた。土曜日や日曜日には、場外馬券へ馬券を買いに来る人の群れが、大阪球場の外野へ向って歩いているが、巨大な建造物の内部は広々とした空間を保ちつつ、何の目的意味もなく寂れていく姿をさらけだしていた。一時は住宅展示場として利用されていたが、球場を潰してからの跡地をどうするのかなかなか決まらず、長い間も球場の巨大建造物は難波の土地に居座った。

 1998年11月完全に閉場となり大阪球場は解体された。寂しくもあったが時の流れには逆らえない。やがて球場の跡に巨大建造物が姿を現すようになる。なんばパークスという商業施設である。第一期が2003年10月、第二期が2007年4月に終わり、地上10階、地下3階、238店舗とシネマ・コンプレックスが入る都会型巨大ショッピングセンターとして生まれ変わった。

 なんばパークスが大阪球場址に姿を現し始めてから既に6年近くなる。だんだんと大阪球場のことを知る人も少なくなっていくだろう。ショッピングや映画や食事、デートに訪れる人でごった返すなんばパークスであるが、南海ホークスと共に大阪球場はここに来る人の記憶から風化されつつある。鶴岡一人監督と選手達、杉浦忠、大沢啓二、野村克也、皆川睦雄、広瀬淑功・・・・・・江本に門田にドカベンに・・・・・・もう過去のことである。


 森のように木々で覆われたなんばパークスの正面。かつてはこの位置から大阪球場が聳えたっているのが見られたものだが。
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なんばパークスはグランドキャニオンをイメージしているらしい。何処かの商業施設に似ているなあと思ったら、設計はキャナルシティ博多と同じジョン・ジャーディだった。
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 なんばパークスにも南海ホークスの資料館が設けてあって当時を偲ばせる。これは昭和39年(1964年)の日本シリーズを制覇した時のペナント。
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 南海ホークス最後の監督となった杉浦忠のユニフォーム。
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 なんばパークスに入っていくと間もなく、ホームベースを模ったプレートが埋めてある。これはちょうど大阪球場のホームベースがあった位置に記念碑として設けたものらしい。でもほとんどの人は気がつかずに立ち去っていく。・・・・・過去に、この場所を幾多の名選手が踏んだことだろうか・・・・・・。
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 なお、このシリーズはまだ続く予定です。


大阪球場物語

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2009.07.04 (Sat)

続・野球場址を訪ねて

 先月、野球場址を訪ねると題し近鉄バファローズがフランチャイズにしていた日生、藤井寺の両球状をの址を訪ねて現在の姿を紹介したが、今日は阪急ブレーブスが本拠地としていた阪急西宮球場址を訪ねてみたので、その報告をしようと思う。

 阪急ブレーブス・・・・・今となっては懐かしい響きだ。かつてパシフィック・リーグに所属したプロ野球球団。創設は昭和11年というから古い。つまり日本のプロ野球リーグが発足した頃に、巨人、阪神などと共にスタートした老舗球団だった。そもそもは阪急電鉄生みの親である小林一三が、ライバル会社である阪神電鉄が大阪タイガース(現・阪神タイガース)を創設したのに対抗意識を燃やし、阪急軍として創設された。プロ野球発足当時は、阪神が中学出の選手を多く獲得したのに対し、阪急は大学出のスター選手を獲ったといわれた(山下実、宮武三郎など)。ただし阪神に対抗意識を燃やしたものの甲子園球場を持つ阪神に人気では及ばず、阪急は西宮北口駅の南東に立派な野球場を建設した。それが昭和12年5月に開場した阪急西宮球場である。日本で初の2階スタンドと内野を含めた全面天然芝の見事な野球場であった。収容人員こそ甲子園の6万人に及ばないが、5万人を収容し、豪華さでは西宮球場が優っていた。

 だが何故か、人気も実力も同じ関西の阪神の方が優り、阪急軍は巨人、阪神の軍門に降っていた。戦後まもなく、プロ野球が2リーグに分裂した時、阪急ブレーブスはパシフィック・リーグに所属しスタートした。だが弱く、低迷の時代が続いた。一方、2kmしか離れていない阪神甲子園球場は人気があり球場も活気があった。いつしか西宮球場は閑古鳥が鳴く始末。それが西本監督が就任してから、メキメキ頭角を現し昭和42年にパシフィック・リーグで初優勝。この辺りから常勝球団として阪急ブレーブスが君臨するのである。

 そういえば私が、初めて西宮球場に足を踏み入れたのは、ちょうどこの年であった。首位を突っ走っていた阪急ブレーブスと前年まで3年連続パ・リーグを制覇していた南海ホークスとの試合を観にいったのである。球場は満員で45000人入っていた。試合は序盤から捕手・岡村のホームランで先行した阪急が、スペンサー、長池などの活躍もあり、先発・足立の踏ん張りで南海の追撃を振り切って勝った。南海ファンであった私としては、もっと野村や広瀬、ハドリなどに奮起してもらいたかったが、勝負は時の運、敗戦も仕方なしであった。この時、以来、何度か西宮球場は訪れた。常勝・阪急ブレーブスの本拠地であり、立派な球場だと何時も思っていたが、観衆は何故か少なかったし、球団も人気がなかった。それでいて近くの甲子園球場は何時も観衆で埋るという矛盾を感じつつ、何時しか球団身売りの話が出始めていた。

 1988年、とうとう阪急ブレーブスが身売りされた。あれほど強かったのに人気がなく球場に観衆が来なかった。球団の親会社である阪急電鉄側としては、赤字が嵩む宝塚歌劇団と阪急ブレーブスの経営に苦心していた。でも宝塚歌劇団を潰すことは出来ず、仕方無しに球団を身売りしたのである。結局、阪急ブレーブスはオリックス・ブレーブスとなった。

 ところで阪急ブレーブスはどうして人気が出なかったのだろうか。原因は良く判らないが、やはり野球というスポーツそのものの持つイメージが庶民の娯楽というように捉えられていて、それが高級感のある阪急グループのイメージと合わないという声が多かったことを考えると、阪急ブレーブスは阪急グループのドラ息子として扱われていたのかもしれない。そのように考えると、庶民的な電鉄会社である阪神電鉄が持つ阪神タイガースが弱くても弱くても人気が衰えないというのは、日頃の鬱憤を晴らすがため、小市民ともいうべき平凡な大衆が支えているということかもしれない。それに比較すると、阪急電車の沿線は資産家層が多く住むことで知られ、このような人は野球に対する思い入れは薄いのかもしれない。

 まあ理屈を並べても仕方が無い。こうして阪急ブレーブスは西宮球場から何時しか立ち去り、オリックス・ブルーウェーブと名を変え、神戸グリーン・スタジアムを本拠地をするようになった。それで、残された西宮球場は阪急西宮スタジアムと名前を変え、大学のアメリカン・フットボールや競輪場として使用されてきた。だが、それも赤字を埋めることにはならず、とうとう2002年12月31日で閉場となった。

 球場は潰され、その場所に建ったのが阪急西宮ガーデンズである。阪急電鉄は西宮北口駅の側にあった西宮スタジアムの址に商業施設・阪急西宮ガーデンズを建て、2008年11月26日にオープンさせた。この施設は阪急百貨店、スーパーのイズミヤを中心に268のテナントを数える専門店街と12のスクリーンを持つシネマ・コンプレックスが入り、大阪、神戸の中心まで電車で20分以内という立地条件の良さも手伝って繁昌しているようだ。・・・・しかし、昔を知る者にとっては何か寂しい。


 阪急西宮ガーデンズの外観。ちょうどこの辺りがバックネット裏の2階スタンドだったと思う。
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 阪急西宮ガーデンズの屋上は緑豊な広場となっている。
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 建物の内部は、このような感じで、吹き抜けになっている。何階建てなのかな?
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 施設の中には阪急ブレーブス時代を偲ばせる資料館が設けてあって、色々と展示品が飾ってあった。これは1975年の日本シリーズを制したときのペナントである。
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 かつての西宮球場の模型である。米田が、梶本が、足立が、山田が、長池が、スペンサーが、加藤が、福本が、マルカーノが、ブーマーが・・・・・
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 西宮ガーデンズとは関係はないが、すぐ近くに兵庫県立芸術文化センターがある。この芸術文化センターは2005年10月にオープンし、大中小のホールがあり、クラシック音楽、オペラ、バレエ、ミュージカル、ポップス等の公演が頻繁に催されている。また、この芸術文化センターには専属の管弦楽団があり、音楽監督にはテレビ『題名のない音楽会』の司会で有名な佐渡裕が就任している。佐渡裕は、東京芸大、桐朋学園といったプロ音楽家養成機関のようなエリート学校卒ではなく、京都の下町・太秦で育った普通のオッサンであり、在野の指揮者でもあるから、一度、聴きに訪れたいものだが、なかなか暇と金がなく、実現できないでいる。
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 西宮北口駅周辺は大阪にも神戸に近く、有名大学、有名高校も多い文教地区であり、商業施設もあり、このような高層マンションが立ち並ぶ住宅地でもある。従って関西の人が住んでみたい地域として必ず名前の挙がるところでもある。
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 なお、まだこの野球場址を訪ねては続きます。
EDIT  |  17:47  |  近場散策  |  Top↑

2009.06.13 (Sat)

野球場址を訪ねて

 プロ野球も開幕して2ヶ月、野球シーズン真っ盛りである。すでに私は10数年以上も前、プロ野球にすっかり興味がなくなってしまったことは、このブログ上で再三、書いている。だから野球の記事は出来る限り書かないようにしている。でもかつてあった野球場というものが、今、現在どのようになっているのかということに興味が湧き、急遽、訪れてみることにした。

 思えば、今から20年以上前には、在阪球団といわれるプロ野球球団が4球団あった。今では大阪在住者でも、そんな時代を知らないという人が増えてきて寂しい限りだが致し方ないだろう。要約するとセントラル・リーグに所属した阪神タイガース以外の球団は全てなくなってしまった。つまりパシフィック・リーグに所属した南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ・・・・・全て消えてしまった。

 人気がないから消えざる運命にあったといえばそうかもしれないが、人気は人が作るものである。ただ我々は指を銜えて関西の地から球団が一つ、また一つ、消えていく様をを傍観することしか出来たかったのは実に残念である。でも何故、なくなったのかということに対してあまり議論されなかったように思う。理由は簡単である。3球団とも赤字だったからである。球団経営者は懸命に経営努力を試みたと思うが、何をやってもパシフィック・リーグ所属という理由だけで、マスメディアの扱いが少ない、テレビで生中継しない、馴染みが無い、ファンが増えない、人が入らない。こういった悪循環の連鎖で、3球団とも無くなったというしかない。

 また関西に人気の無いパ・リーグの球団が3球団も存在したという矛盾もあったが、長い間のセ・リーグ偏重に抗する術をなくし、ただでさえ少ないパ・リーグ・ファンを奪い合っているしかなかった。その横で、阪神タイガースが本拠地とする甲子園球場がいつも満員になるというアンバランスさがいっそう妙である。とはいうものの、かつて南海ホークス黄金時代の昭和30年代は大阪球場も人で溢れていたものだ。それがだんだんとテレビを含めたマスメディアの巨人を中心とするセ・リーグ偏重主義に駆逐され、パ・リーグそのものの人気が落ちていった。中でも阪神タイガースのみが巨人と試合することにより、覇権を争ったり雌雄を決することが出来るということがファンの目を牽きつけ、関西のマスメディアも阪神一辺倒という扱いに変っていった。当然、人気もないパ・リーグであるにも係わらず3球団もが、狭い地域内においてパイを奪いあっていると行き着くところは本拠地の移転か、球団の売却しかなく、昔からパ・リーグの球団を心から応援していた私にとっては、南海ホークス、阪急ブレーブスの球団身売り、本拠地移転は予測できた出来事であったとはいえ、心にポッカリ穴が空いたような心境に陥ったものである。

 この出来事以来、私はプロ野球に興味が持てなくなった。プロ野球というものは各チームが共存共栄してこそ成り立って面白いものなのである。対戦相手があってこそ試合は成立するものである。ごく一握りの球団しか潤わないような現行のプロ野球界、それに伴うマスメディアの報道姿勢・・・。改革といっておきながら、可笑しなルールばかりをゴリ押し通し、自分のところさえ良ければ良しとする球団代表(何処とは言わないが)。最早、私が何を言いたいのか、判ると思いますが・・・・・・・・。まあ、今後のプロ野球界をどうするかといった将来の大きな展望もビジョンもないでしょうけども・・・・・・。それで、今さら愚痴を言ったところではじまらないから、かつてプロ野球が使用していた野球場を訪れてみた。

 まずは日生球場である。こんな球場があったことなんて若いファンは知らないと思う。所在地は大阪市中央区森之宮である。通称、日生球場。森之宮球場ということもあったが、名前で判るとおり大阪に本社のある日本生命保険相互会社所有の野球場である。だから正式名は日本生命球場である。JR環状線の森之宮駅で降りて西の方角に歩くと左側に見えていた球場である。戦後、日本生命は大阪市民が楽しめる野球場設備が足りないということと、当社の福利厚生充実の意味合いもあって1950年に建てた球場である。収容人員は20000人強。キャパとしては少ないが、交通の便が良いこととナイター設備があったので、1958年から1983年まで近鉄バファローズが本拠地として使用していたのである。また、関西学生リーグの試合や、社会人野球や、高校野球の大阪府予選決勝は、ここで試合を行なっていた。私も20回、いや、それ以上、来ているだろう。近鉄ー南海戦、近鉄ー西鉄戦、近鉄ー阪急戦等、また、高校生の頃の江夏、岡田(前阪神監督)、ドカベン香川に牛島、PLの木戸、吉村、小早川、清原、桑田、立浪、片岡、野村、宮本、上宮の元木、種田を見たのも、この球場である。

 日生球場は大阪ドームが完成した1997年に閉鎖された。現在は写真のとおり、駐車場と空き地と住宅展示場になっている。まだ、この土地が何に使用されるのか判らないが、大阪城の目の前にあるという立地条件だけに、迂闊な開発だけは避けて欲しいものである。

 かつて日生球場の内野スタンドがあった付近。
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 日生球場の三塁側スタンドがあったところ。日生球場跡地マンションズプラザという看板だけがその名を留める。
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 日生球場は近鉄バファローズの本拠地と書いたが、本当の本拠地は藤井寺球場である。日生は借り物で、都心にあって便利が良いこととナイター設備があったから近鉄が本拠地として使っていたのである。一方、藤井寺球場であるが、こちらは近鉄のグループ企業が経営する純然たる本拠地である。であるが、ナイター設備がなく、夜は試合が出来なかったから日生球場を長い間に亘って、使用していたのである。

 藤井寺球場は近鉄・阿部野橋駅から準急に乗ると15分もかからない藤井寺駅の南側にあった32000人収容の球場である。1925年に近畿日本鉄道の前身である大阪鉄道が、阪神電鉄が甲子園球場を建設して、成功していることに触発されて1928年に建設された野球場で、その当時は甲子園に匹敵する大きな球場であった。だが、戦時中に荒れ放題となり、戦後は改修されたが、球場の規模としては小ぶりとなった。戦後の1950年にプロ野球が2リーグに分裂したのを期に、近鉄がプロ球団を作った。それが近鉄パールズであり、後の近鉄バファローズである。

 近鉄バファローズは当然、藤井寺球場をフランチャイズとしたが、それも暫くの間だけで、時代がナイター中心になっても、藤井寺球場にはナイター設備がなかったから日生球場を長い間、借りる羽目になる。そして、藤井寺球場でナイターが出来るようにと、球団、球場側は照明塔を建設しようとしたが、周辺は住宅ばかり。当たり前のように地元住民から照明塔建設反対の運動が起こる。結局、球団側と地元住民の間で度重なる裁判沙汰に発展、その結果、ナイター設備が完成し、1984年からは藤井寺球場でようやくナイトゲームが出来るようになったが、鳴り物の応援は一切禁止、外野の外側には防音壁を張り巡らすことでどうにか対応した。でも、こんなエピソードも今となっては笑えて来る。球場は今や跡形も無い。

 藤井寺球場も何度か訪れたなあ・・・・。球場のあった所に来ると、【近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005】と刻まれたプレートが嵌め込んである像がたっていた。
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 球場跡の西側は四天王寺学園のキャンパスとなり、大学と小学校が入る校舎が建っていた。
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 球場跡の東側は、まだ更地である。このあとどのように使われるのか、また何年かしたら、訪ねてみたい。
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 今回はかつて近鉄バファローズが本拠地としていた日生球場と藤井寺球場を訪れてみたが、また後日、大阪球場跡と西宮球場跡も訪れてみようと思う。
EDIT  |  18:38  |  近場散策  |  Top↑

2009.05.06 (Wed)

洛北を歩く2

 下鴨神社を出て西へ歩くと賀茂川に出る。出町柳辺りで鴨川より上流は東側の高野川と西側の賀茂川に分かれるが、高野川の上流は八瀬から大原へと遡る。一方、賀茂川を遡ると鞍馬山へと繋がるが、私は出雲路橋から北大路橋に向って歩いてみた。

 賀茂川の河原であるが、向こうの方に北大路橋が見える。その後背には鞍馬の山が・・・・。
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 賀茂川を上がって(北へ行くこと)行くと北大路橋に差し掛かるが、そこを抜けて僅かに行くと、賀茂川沿いに緑地帯が見えてきた。京都府立植物園である。日本最初の公立植物園で、1924年(大正13年)に開園という古い歴史を持ち、広さは24ha、12000種、12万本の植物で埋まっている。そういえば、ここの植物園に最後に入ったのは小学校の遠足だったから、それこそ40年以上前のことである。それで私は何となく懐かしくなり、吸い寄せられるように園内へ足が向ってしまった。

 それでは日頃、花より団子の小生のこと、ゆっくり花なんて観賞することもないので、ゆっくりと花を見ることにした。

 まずはネモフィラ、ハゼリンゾウ科で原産はカリフォルニアである。(小さな写真はクリックすると拡大します) 
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 ダイアンサス (ナデシコ科)
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 ハナビシソウ(ケシ科) 
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 アメリカヤマボウシ(ミズキ科) ハナミズキという方が馴染みがある。 
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 ラナンキュラス(キンポウゲ科)
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 カザグルマ(キンポウゲ科) ラナンキュラスと同じキンポウゲ科だといわれても、ウソー!といいたくなる。
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 パパウェル・ルピフラグム(ケシ科) 名前は長いがケシ科の花である。 ~赤く咲くのはケシの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜開く  藤圭子の歌でした。
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 芍薬(シャクヤク)を3点。芍薬はボタン科である。一見、牡丹と見間違ってしまうが、よく見ると違う。立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花
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 花の続きは、また明日。

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