2008.11.08 (Sat)
山本有三の『路傍の石』を読む

路傍の石とは、道端に転がっているただの石ころである・・・・・・・・・・・。
中学生の頃、夏休みの宿題の一つに読書感想文というものがあって、何か本を読んで感想文を書いてこいという訳で、幾つかの作品を指定されたものだが、その中に確か『路傍の石』も含まれていた。それで私は、この小説の存在を知ったのである。当初は路傍の石なんて意味が判らず、難しい小説なんか読むのも嫌だなあといった思いもあり、『路傍の石』の文庫本を買ったものの2週間ほど机の上に置きっぱなしになっていた。私は生来から本が嫌いで、子供の頃は何一つ本を読まなかった。読むというと漫画ばかりで、漫画狂いと言ってもよかった。それで親に「ちゃんとした本を読みなさい」と何時も言われていたものである。
それで、中学に入った夏休みも盆が過ぎて、いよいよ休みも残り少なくなって来ると宿題のことが気になりだすという悪い習慣が身についている。そして、お尻に火がついてから事を始めるという有様である。だから『路傍の石』なんて本は、仕方なく読んだ小説という印象が私の中には今でもあるが、その内容はというと、次のようなものである。
日本という国が、今よりもずっと貧しい貧しい時代(明治時代の末期か大正時代)、由緒ある士族の家に生れながら町の人々との間に係争を起し、訴訟に明け暮れ一向に定職を持たない父庄吾と、手内職で生計をたてる母おれんに愛川吾一は育てられた。小学校6年の吾一は新しくできる中学に入りたかった。受け持ちの次野先生も成績の良い彼を進学させたがった。一方、金持の呉服商伊勢屋の息子で、成績の悪い秋太郎が進学すると聞いて、吾一は腹立たしかった。食べていくにもせいいっぱいの生活では、彼の進学はとても無理だったのだ。
次野先生は書店いなば屋の黒川安吉に吾一の学資のことを相談した。だが黒川は生一本の吾一の父庄吾のことを考えると、学資を出せなかった。正月になり、子供たちが松小屋に集って遊ぶ季節がやってきた。みんなが自慢話をはじめた時、もののはずみで吾一は、汽車の走ってくる時鉄橋の枕木にぶらさがったことがあると話してしまう。やむなく言ってしまったがため、それを証明するため、彼はみんなの前で鉄橋の枕木に端下がらねばならぬことになった。次に吾一が目をさましたのは病院の寝台の上だった。次野先生は自分をもっと大切にするよう彼を叱るのであった。
その後、伊勢屋の番頭忠助が、借金のかたに吾一を奉公に出すよう言ってきた。卒業するとすぐに吾一は丁稚奉公に出た。伊勢屋で吾一は五助と見下されたような名前で呼ばれ、苦しい毎日をおくるようになった。友達だった秋太郎や、その妹おきぬも彼につらくあたった。間もなく母のおれんが心臓病で倒れた。父の庄吾には電報がうたれたが、彼は帰ってこなかった。葬式もすんだある日、吾一は東京に行くという次野先生に会った。悲しみに沈んだ吾一の気持も知らず、主人や忠助は彼を叱り、虫けらのように扱った。吾一を慕っていたおきぬまでが靴の手入れが悪いと彼にあたった。吾一の怒りは爆発した。彼は、伊勢屋を飛び出し東京行きの汽車に乗った。
小説では、吾一が東京に行ってからのことも遠々と語られるが、何一ついいことがなく、職を変え、虐げられ、詐欺まがいのことまでやらされる・・・・。結局は世間の狭い田舎にいても、東京に来ても何一ついいことは無く、世の中の非情さだけが彼の前に立ちはだかった。そんなとき、印刷所の職工見習いをしていた吾一の前に、とうとう次野先生が現れ、吾一の現状を知った先生は彼を商業学校に入れてやるといい、ここで小説は終わっている。
この小説は結局は未完で、著者・山本有三も続筆を断念している。この『路傍の石』が、朝日新聞に連載されていたのは昭和12年のことである。ちょうど軍国主義が頭を持ち上げてきた頃のことで、当時から左派的な新聞であった朝日新聞が軍部に睨まれていて、時代にそぐわない小説ということで、検閲も煩く『路傍の石』の続編執筆は消滅していったようだ。
この小説は資本主義、社会主義、自由主義、出世主義、色々なイズムが混合しているが、日本の一時代を築き上げた思想が混在する中で、人に対する差別を批判し人間の尊厳を守り、人の個性を尊重して伸ばし、それらをより活かして力強く生きていくことをテーマとしているのである。しかし、個人の尊厳を否定させ、国のため戦争のためという理由で個人の生命が軽く扱われた時代の小説なので、時の軍部からも睨まれた小説であった。
時代の趨勢とはいえ不運な小説であったことは確かであるが、ただ戦後20年以上経過していた私の中学時代に、この本を読めとばかり『路傍の石』を推薦図書に選んだ教師は誰なのか、私は今頃になって気になるのであるが、景気後退から生活が段々と苦しくなっていく人の多い昨今、この『路傍の石』も『蟹工船』同様に、今の時代に合う小説ではないだろうかという意を、私は強く持ったのでもある。
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