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2008.11.16 (Sun)

ゴダールの映画『勝手にしやがれ』を観る

 『勝手にしやがれ』1959年製作 フランス映画

 監督 ジャン=リュック・ゴダール

 出演 ジャン=ポール・ベルモンド
     ジーン・セバーグ
     ダニエル・ブーランジュ
     ジャン・=ピエール・メルヴィル

 【あらすじ】街のチンピラ、ミシェル・ポワキャールは、マルセイユで自動車を盗み、訊問しようとする警官を射殺してパリへ逃亡し、アメリカ人留学生パトリシアと再会、2人の気ままな生活が始まる。
無謀でナンセンスなミシェルの言動、キュートで奔放なパトリシア。彼らは自由で気ままで束縛の無い関係を楽しんでいたが、或る日、彼に警察の手が及ぶ。そこでパトリシアはミシェルの愛を確認するため、警察にミシェルの居場所を密告する。やがて警察の凶弾に倒れたミシェル。・・・・・・でも街角に倒れた彼に、パトリシアは言う「最低って何のこと」・・・・・・・・・

 何とも表現のしにくいクールな映画である。映画の原題は"A Bout de Souffle"で、「息切れて、力尽きて」といったような意味らしい。この『勝手にしやがれ』という邦題は、翻訳者・秦見穂子がつけたもので、日本人に受けが良かったのか、その後、沢田研二や中島みゆきの曲にも同じタイトルが使われたほどインパクトのある映画である。

 ヌーヴェルヴァーグの傑作とされ、それまでの映画の概念や手法を打ち破って、即興演出、ジャンピングカットの多用、ハンディ・カメラでの街頭撮影等、何もかも斬新で画期的で所謂、衝撃作とされ、後年のアメリカン・ニュー・シネマに最も影響を与えた作品と称される。

 この映画の監督であるゴダールは、若い頃シネマテーク・フランセーズに集っていた面々(フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロール、エリック・ロメール、ジャン=マリ・ストローブ等)と親交を深めると共に、彼らの兄貴分的な存在だったアンドレ・バザンの知己を得て彼が主宰する映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に批評文を投稿するようになっていた。つまりゴダールは、他のヌーヴェルヴァーグの面々、いわゆる「カイエ派」がそうであったように批評家として映画と関わることから始めたのだったが、徐々に製作現場に入るようになる。

  彼は数編の短編映画を手掛けた後、先に映画を制作して商業的な成功も収めたクロード・シャブロール(『美しきセルジュ』『いとこ同士』)やフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)のように、受け取る遺産もコネクションもいないゴダールは、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールと出会うことで、長編処女作『勝手にしやがれ』でやっとデビューできたという。ところが公開されるや、一躍スターダムにのし上がる。

 ジャン=ポール・ベルモンドが演ずる無軌道な若者の刹那的な生き様という話題性のあるテーマもさることながら、即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影など、ヌーヴェルヴァーグ作品の特徴を踏襲しつつも、物語のスムーズな語りをも疎外するほどの大胆な編集術(ジャンプカット)とそこから醸し出される独自性と自由さが高い評価をされたのである。でもこんな映画だから評価の方は賛否両論あって、 ある人は『勝手にしやがれ』は空虚で不道徳だという。しかし、その形式と内容において、この作品ほど社会的な価値から解放されている映画が、他にあるだろうかと思ってしまう・・・・・・・。

 映画手法の既成概念から大きく逸脱し、 過去もなく、未来もなく、ただ現在だけにゴダールは興味を示す。『勝手にしやがれ』は、無垢で、道徳的で、真理である。人間に何かを企てたり、人間を歪曲したりしない。知ったかぶりをせず、謙遜に人間を見つめている。科学的僧侶のようなゴダールは、現代生活を抽出し、合成する。そして、彼自身の道徳的判断を表明する。まさにゴダール自身の勝手にしやがれ的な映画である。でもジャン=ポール・ベルモンドもジーン・セバーグも実に適役で、いい味を出しているなあ。ことにジーン・セバーグはボーイッシュで初々しい。

『勝手にしやがれ』予告編


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