2009.07.18 (Sat)
野球場址を訪ねて パート4
野球場址を訪ねてという記事をこれまで3回にわたって書いてきたが、今回は番外編とでも言うべき野球場址を訪ねてである。訪ねた球場は豊中球場。豊中球場・・・・???・・・・こんな野球場あったかなと思われるかもしれない。遥か大昔に無くなった、かつて存在した野球場・・・というよりもグラウンドである。
1913年に完成したグラウンドである。ということは大正2年に出来たということになるから何という古さであろうか。このグラウンドを作ったのは小林一三の箕面有馬電気軌道という会社。つまり現在の阪急電鉄のことである。数年前に大阪・梅田と宝塚間に電車を走らせた箕面有馬電気軌道は沿線の豊中村に陸上競技やサッカー、ラグビー等のスポーツ全般にわたって試合が出来るグラウンドを造成した。それが豊中グラウンドである。またちょうど中等学校で野球が盛んになりつつあった頃であり、朝日新聞が現在の高校野球の前身にあたる全国中等学校優勝野球大会を開催することになる。こうして大正4年(1915年)に第1回全国優勝野球大会が参加10校によって開かれた。つまり、現在の高校野球の記念すべき第1回大会が行なわれたところが今日、訪れた豊中グラウンド(豊中球場)なのである。
こんなこと書くと高校野球は甲子園で行なわれているではないかと疑問に思われるかもしれないが、甲子園が完成するのは大正13年のことで、中等野球の第1回は紛れもなく、この場所で開催されたのである。
子供の頃から、高校野球は大正4年に豊中球場で始まったと聞いてはいた。でも今回、私は初めて当所を訪れることになる。ある場所は大体、判っている。阪急宝塚線の豊中駅から徒歩10分ぐらいと聞いていたので、阪急の十三駅で乗り換えて宝塚行きの急行に乗った。十三から豊中まで停まらないので時間的には10分ほどで到着。そこから西の方角へ歩いて10分。豊中市玉井町三丁目。すぐにそれらしき記念碑が目に入る。この付近は住宅地。その中に数々のレリーフが飾ってある一画があるだけで、かつて広いグラウンドがあったという面影は何処にも残されてない。中等野球を2回開催して、3回目からは兵庫県鳴尾村(現・西宮市)にある鳴尾競馬場の中のグラウンドに会場を移されたらしく、たった2回だけの開催で、この豊中グラウンドは1922年に取り壊されたというから勿体ない話だ。
何故、第1回を開催したのに場所を移したかというのは、大会の参加校が増えると大会期間が延びることから、複数の会場が必要になるとされたからである。鳴尾会場はグラウンドが2面あったので、同時に2試合が消化できたという。でも大会の開催ごとに人気が沸騰。試合の観戦者が観客席から溢れ出し、それが試合進行の妨げになるとのことで、とうとう中等野球のための野球場を建設することとなり、こうして完成したのが阪神甲子園球場だったということである。それ以来、現在まで高校野球は人気が衰えもせず、毎年、毎年、80年以上も繰り返されてきたのである。
『球史ここに始まる』の一文と第1回大会の始球式の時の写真をレリーフ化した記念碑。

高校野球発祥の地

豊中グラウンド跡地

第2回大会の出場校名とグラウンドの平面図を載せてあるレリーフ

豊中グラウンドの帰り道、豊中ローズ球場で高校野球の大阪予選が行なわれていたので立ち寄って2試合ほど観てきた。

強豪校も部員の数が足りないところも対戦するだけに、予選らしく点数も賑やかだ。

ちょっと点数の入りすぎでは・・・・・。3回裏の16点は、26点の間違いである。実は得点掲示板は1イニング最大で19点までしか表示できず、実際には26点入ったのだが・・・・・・・。1イニング20点以上は想定外だったということである。本当に高校野球は何が起こるか判らない。

暑いのに選手の皆さんご苦労さん・・・・・ではまた・・・・・・。
1913年に完成したグラウンドである。ということは大正2年に出来たということになるから何という古さであろうか。このグラウンドを作ったのは小林一三の箕面有馬電気軌道という会社。つまり現在の阪急電鉄のことである。数年前に大阪・梅田と宝塚間に電車を走らせた箕面有馬電気軌道は沿線の豊中村に陸上競技やサッカー、ラグビー等のスポーツ全般にわたって試合が出来るグラウンドを造成した。それが豊中グラウンドである。またちょうど中等学校で野球が盛んになりつつあった頃であり、朝日新聞が現在の高校野球の前身にあたる全国中等学校優勝野球大会を開催することになる。こうして大正4年(1915年)に第1回全国優勝野球大会が参加10校によって開かれた。つまり、現在の高校野球の記念すべき第1回大会が行なわれたところが今日、訪れた豊中グラウンド(豊中球場)なのである。
こんなこと書くと高校野球は甲子園で行なわれているではないかと疑問に思われるかもしれないが、甲子園が完成するのは大正13年のことで、中等野球の第1回は紛れもなく、この場所で開催されたのである。
子供の頃から、高校野球は大正4年に豊中球場で始まったと聞いてはいた。でも今回、私は初めて当所を訪れることになる。ある場所は大体、判っている。阪急宝塚線の豊中駅から徒歩10分ぐらいと聞いていたので、阪急の十三駅で乗り換えて宝塚行きの急行に乗った。十三から豊中まで停まらないので時間的には10分ほどで到着。そこから西の方角へ歩いて10分。豊中市玉井町三丁目。すぐにそれらしき記念碑が目に入る。この付近は住宅地。その中に数々のレリーフが飾ってある一画があるだけで、かつて広いグラウンドがあったという面影は何処にも残されてない。中等野球を2回開催して、3回目からは兵庫県鳴尾村(現・西宮市)にある鳴尾競馬場の中のグラウンドに会場を移されたらしく、たった2回だけの開催で、この豊中グラウンドは1922年に取り壊されたというから勿体ない話だ。
何故、第1回を開催したのに場所を移したかというのは、大会の参加校が増えると大会期間が延びることから、複数の会場が必要になるとされたからである。鳴尾会場はグラウンドが2面あったので、同時に2試合が消化できたという。でも大会の開催ごとに人気が沸騰。試合の観戦者が観客席から溢れ出し、それが試合進行の妨げになるとのことで、とうとう中等野球のための野球場を建設することとなり、こうして完成したのが阪神甲子園球場だったということである。それ以来、現在まで高校野球は人気が衰えもせず、毎年、毎年、80年以上も繰り返されてきたのである。
『球史ここに始まる』の一文と第1回大会の始球式の時の写真をレリーフ化した記念碑。

高校野球発祥の地

豊中グラウンド跡地

第2回大会の出場校名とグラウンドの平面図を載せてあるレリーフ

豊中グラウンドの帰り道、豊中ローズ球場で高校野球の大阪予選が行なわれていたので立ち寄って2試合ほど観てきた。

強豪校も部員の数が足りないところも対戦するだけに、予選らしく点数も賑やかだ。

ちょっと点数の入りすぎでは・・・・・。3回裏の16点は、26点の間違いである。実は得点掲示板は1イニング最大で19点までしか表示できず、実際には26点入ったのだが・・・・・・・。1イニング20点以上は想定外だったということである。本当に高校野球は何が起こるか判らない。

暑いのに選手の皆さんご苦労さん・・・・・ではまた・・・・・・。
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