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2009.07.29 (Wed)

エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』を読む

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 エドガー・アラン・ポーこそが推理小説、探偵小説の元祖と言われる。そもそも探偵小説というと諸説あるが、1841年にポーがこの『モルグ街の殺人事件』を書いてから、このような形式の文学が確立されたという。その本質は江戸川乱歩によると「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく経路の面白さを主眼とする文学」というものであるらしい。即ち不可解な謎が提出され、それを解くべき材料があって、論理的に推理し、意外な解決に到達するというもので、始祖絵エドガー・アラン・ポーは短編でその手の小説分野を確立したことになる。

 この『モルグ街の殺人事件』はパリが舞台である。でもパリにモルグ街というところは存在せず、架空の街ということになる。つまりアメリカ人であり、パリに行ったこともないポーが想像力を膨らまして書いた小説である。

 モルグ街の一室で殺人事件が起こる。部屋の中は滅茶苦茶に荒らされているものの死体が見えない。どうにか見つけた娘の死体は暖炉の中に突っ込まれ、母は首を切られて庭の中に放り出されている。殺害者の声を聞いたという証人が数人いるが、彼らは男の声なのか女の声なのか、スペイン語なのか、イタリア語なのか、フランス語なのか、ロシア語なのか、それとも人の知らない言葉なのか判らないと言う。扉は締まっていて、鍵は中にあったし、窓も全部閉じていた。いったいどうして部屋に出入りできたのか・・・・・・。ここで探偵オーギュスト・デュパン登場・・・・・・。推理小説でネタをばらすようなことは最低限守るべきるルールなので、これ以上は書きません。

 エドガー・アラン・ポーは1809年、アメリカのボストンで生まれた。両親共にアイルランド系であった。しかし、2歳のときに両親共に死に孤児となる。エドガー・アラン・ポーは煙草輸出商ジョン・アランの世話になるも、イギリスに渡りロンドンで学ぶ。帰米後、バージニア大学に入るも退学、アメリカ陸軍の兵員となる。将校を志すも軍律厳しい士官学校を出てしまう。時に22歳。この頃に詩集を出し、やがて生活費を稼ぐ意味もあって懸賞小説に応募し、当選しようやく彼の名が世に出始める。その時の審査員の1人の推薦で、雑誌編集者として働き出す。ただし酒乱のため本務を怠り退社。この後、結婚するも新妻は13歳であった。彼が何故、このような行動をやってにけたかというのは色々と解説されていて、異常な性格からきた狂気的行動と解し、あるいは異常性欲の好奇心から企てられた結婚とも言われる。でもポー自身はこの頃、全ヨーロッパを風靡していたロマンチシズムの思潮を現実の生活の上に実践しようとしたたともいわれ、終生、夫人を妹のように愛し続けたらしい。


 でも生活は逼迫していて、そんな頃に書かれた小説の一つが『モルグ街の殺人事件』である。結局、ポーは数年後に当代一流の詩人として認められるようになり、上流社会のサロンに出入りするようになる。しかし、間もなく夫人は亡くなり、ポーは多くの作家達と交友関係を結び、女友達とも深い仲となるが、彼女等に持っていた感情は高度なプラトニックだったという。彼は女性崇拝の域に達していて、天上の生活の面影を彼女達の眼差しの中に垣間見た跡がはっきりとわかるのである。ポーは婦人の1人に結婚を申し込んでいるが、酒乱がたたり破談となっている。その後、少年時代の恋人と出会い、求婚したが、間もなくポー自身が亡くなった。40歳だった。

 エドガー・アラン・ポーは詩人として高く評価されているが、その繊細な知的な感性と実生活とはかけ離れていたようであり、このような風変わりな生き方から、『モルグ街の殺人事件』というある意味で、過去に例を見ない風変わりな小説を書かせたのかも知らない。でも、彼がいなければ、その後のシャーロック・ホームズも、エルキュール・ポワロも、明智小五郎も金田一康介も出てきたかどうか判らない。とにかくエドガー・アラン・ポーをもじって江戸川乱歩なんていう作家が日本に登場しているぐらいだから、彼の残した功績はとても大きなものであろう。
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