2010.01.27 (Wed)
チャイコフスキー・・・・・序曲『1812年』を聴く
アンタル・ドラティ指揮
デトロイト交響楽団

大序曲とも祝典序曲言われる『1812年』はチャイコフスキーが1880年に作曲した作品だが、とにかく大袈裟な曲である。そもそも1812年、フランスのナポレオンの軍によって焼かれたモスクワのキリスト教大寺院の再建を祝うお祭りのために作曲された曲である。チャイコフスキーは祭事的な音楽を書くことに不快感を持っていたが、ニコライ・ルビンシテインからの依頼で納得し1ヶ月で完成させたという。初演は1882年8月8日、モスクワの産業博覧会の催しの一貫として行なわれ、寺院前の広場に陣取った砲兵隊が、演奏時に太鼓のかわりに空砲を打ち鳴らしたそうである。
こういった大袈裟な描写の基はギリシャ正教徒の聖歌、ノヴゴロド地方の民謡、ロシア国歌、フランス国歌があり、曲の中のフランス国歌がナポレオン軍を表し、残りの主題のメロディがロシアを表し、それぞれの主題が入れ替り立ちかわり現れて、最後にフランス国歌である『ラ・マルセイエーズ』を沈黙させてしまうい、最後はロシア軍の勝利を描くという手法で、まあ、何とも単純明快で軽快な曲である。
ナポレオンが率いるフランス軍を『ラ・マルセイエーズ』で表現しようとしたのは判り易い発想であるが、まだ1812年の段階では『ラ・マルセイエーズ』はフランス国歌に定められてなかったのである。その後の1863年になって『ラ・マルセイエーズ』がフランス国歌として定められ、チャイコフスキーが『1812年』を作曲する頃には、すっかりフランス国歌は『ラ・マルセイエーズ』をして認知されていたということなのだろう。また、もう一つ付け加えるならば、『1812年』の中に出てくるロシア国家も1812年の頃には、まだ曲そのものがなかったのである。ロシア国歌が作曲されるのは1830年のことである。つまりこの曲は1880年の時点で表した1812年という矛盾だらけの大序曲といえるだろう。でも、何故か馬鹿らしくて大袈裟だけども、派手で演奏会では頻繁に演奏されてきたという歴史があり、日本でもよく演奏される曲ではある。また、初演してからの評判もよく、ロシアのみならずナポレオンに攻め込まれた国では好意的に受け入れられ、それらの国ではよく演奏会のプログラムに加えられたというが、ナポレオンのお膝元であるフランスではどうだったのか気になるところではある。
この作品自体は15、6分程度の曲であるが、とにかく大袈裟で賑やかな曲である。3管編成のオーケストラに加えて、鐘、吹奏楽団まで必要とし、場合によっては本物の大砲まで用いるというから作曲したチャイコフスキー自身も内心は照れくさかったのではないだろうか。後年、チャイコフスキーが演奏旅行でベルリンに行った際、現地のフィルハーーモニー協会が、この曲を歓迎演奏会のプログラムに載せたことにチャイコフスキー自身が反対したという話が伝わっている。チャイコフスキーは、この曲は愛国的な意義しか持っていないので、プログラムから外してくれと提案したという。でも結局、『1812年』は演奏され、大喝采を受けたことからロシア外でも度々演奏されるようになったのである。まあ、よく考えてみたら、日本で言う『軍艦マーチ』や『愛国行進曲』『海ゆかば』『君が代』のメロディを一つの曲に入れて大袈裟にアレンジしたオーケストラ曲のようなものかもしれない。もし、こんな曲があったら我々は親しんで聴くだろうか・・・・・・答えは当然ノー! だろうけど・・・・・。
序曲『1812年』の演奏パートⅠ
指揮 小澤征爾
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
パートⅡ
デトロイト交響楽団

大序曲とも祝典序曲言われる『1812年』はチャイコフスキーが1880年に作曲した作品だが、とにかく大袈裟な曲である。そもそも1812年、フランスのナポレオンの軍によって焼かれたモスクワのキリスト教大寺院の再建を祝うお祭りのために作曲された曲である。チャイコフスキーは祭事的な音楽を書くことに不快感を持っていたが、ニコライ・ルビンシテインからの依頼で納得し1ヶ月で完成させたという。初演は1882年8月8日、モスクワの産業博覧会の催しの一貫として行なわれ、寺院前の広場に陣取った砲兵隊が、演奏時に太鼓のかわりに空砲を打ち鳴らしたそうである。
こういった大袈裟な描写の基はギリシャ正教徒の聖歌、ノヴゴロド地方の民謡、ロシア国歌、フランス国歌があり、曲の中のフランス国歌がナポレオン軍を表し、残りの主題のメロディがロシアを表し、それぞれの主題が入れ替り立ちかわり現れて、最後にフランス国歌である『ラ・マルセイエーズ』を沈黙させてしまうい、最後はロシア軍の勝利を描くという手法で、まあ、何とも単純明快で軽快な曲である。
ナポレオンが率いるフランス軍を『ラ・マルセイエーズ』で表現しようとしたのは判り易い発想であるが、まだ1812年の段階では『ラ・マルセイエーズ』はフランス国歌に定められてなかったのである。その後の1863年になって『ラ・マルセイエーズ』がフランス国歌として定められ、チャイコフスキーが『1812年』を作曲する頃には、すっかりフランス国歌は『ラ・マルセイエーズ』をして認知されていたということなのだろう。また、もう一つ付け加えるならば、『1812年』の中に出てくるロシア国家も1812年の頃には、まだ曲そのものがなかったのである。ロシア国歌が作曲されるのは1830年のことである。つまりこの曲は1880年の時点で表した1812年という矛盾だらけの大序曲といえるだろう。でも、何故か馬鹿らしくて大袈裟だけども、派手で演奏会では頻繁に演奏されてきたという歴史があり、日本でもよく演奏される曲ではある。また、初演してからの評判もよく、ロシアのみならずナポレオンに攻め込まれた国では好意的に受け入れられ、それらの国ではよく演奏会のプログラムに加えられたというが、ナポレオンのお膝元であるフランスではどうだったのか気になるところではある。
この作品自体は15、6分程度の曲であるが、とにかく大袈裟で賑やかな曲である。3管編成のオーケストラに加えて、鐘、吹奏楽団まで必要とし、場合によっては本物の大砲まで用いるというから作曲したチャイコフスキー自身も内心は照れくさかったのではないだろうか。後年、チャイコフスキーが演奏旅行でベルリンに行った際、現地のフィルハーーモニー協会が、この曲を歓迎演奏会のプログラムに載せたことにチャイコフスキー自身が反対したという話が伝わっている。チャイコフスキーは、この曲は愛国的な意義しか持っていないので、プログラムから外してくれと提案したという。でも結局、『1812年』は演奏され、大喝采を受けたことからロシア外でも度々演奏されるようになったのである。まあ、よく考えてみたら、日本で言う『軍艦マーチ』や『愛国行進曲』『海ゆかば』『君が代』のメロディを一つの曲に入れて大袈裟にアレンジしたオーケストラ曲のようなものかもしれない。もし、こんな曲があったら我々は親しんで聴くだろうか・・・・・・答えは当然ノー! だろうけど・・・・・。
序曲『1812年』の演奏パートⅠ
指揮 小澤征爾
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
パートⅡ
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