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2010.08.14 (Sat)

高校野球の思い出③

 1961年夏、初めて甲子園球場に行き高校野球というものを認識したが、翌、1962年春、夏ともに高校野球を意識したということはない。まだ小学校低学年だったし遊ぶのに忙しかったのだ。でも春の大会で作新学院が優勝し、その勢いで夏も優勝したということは覚えている。当時、史上初の快挙でテレビや新聞が大きく報道していたような記憶がある。なにしろ過去、多くの学校が臨んで達成できなかった大記録である。ただ親父は前年の浪商や2年前の法政二高ほどの強さはないとボヤいていたことを思い出す。でも偉業は偉業であろう。でも順風満帆に事が成し遂げられたのでもない。とにかく八木沢壮六というエースが相手打線を抑え、打線はワンチャンスを生かして最少得点数で逃げ切った試合の連続で春を制した。でも夏の大会直前にエースの八木沢が赤痢にかかり隔離されてしまったのである。そこでやむなく控え投手の加藤斌(たけし)がマウンドに上がった。

 夏の大会、作新学院は春よりも打線が強化されていて中野、高山、大橋等が鋭い打球を飛ばしていた。1回戦は気仙沼を相手に延長11回までいき2対1。2回戦は打線が火を噴き慶應相手に7対0。準々決勝も打線好調で岐阜商業相手に9対2。でも準決勝は中京商業に2対1。どうにか決勝へ駒を進め、久留米商業との決勝戦。久留米の伊藤と作新の加藤との投手戦になった。7回表まで0が並び、7回裏作新の攻撃。伊藤レフト前、敵失のあと、バントヒットで無死満塁となった。でも久留米の伊藤投手が踏ん張り2死にこぎつける。ここで作新は中軸打者の中野。中野は巧くボールを捉えた。球は春夏連覇の夢乗せて三遊間を抜けた。こうして作新は1点を取り、加藤が残りを抑えて1対0で見事に史上初の春夏連覇を達成したのである。

 過去、幾多の強豪が出来なかったことを、それまで無名の北関東の学校が初めて達成した。当時、親父が言っていたように、けしてずば抜けたチームではなかったかもしれない。薄氷を踏むような勝利も多く粘りで勝ち上がった。でもチームの纏まりがよく、殊にエース八木沢が赤痢で倒れてからはチームの結束がさらに上がったという。高校野球というのはスーパースターがいたから強いというのでもない。やはり9人が心を一つにしないと勝てないということの見本のようなチームであった。ただ残念なことに、夏の優勝投手だった加藤斌は中日ドラゴンズに入団した後、1965年の正月に交通事故で亡くなった。まだ20歳の若さだった。

 翌、1963年(昭和38年)の春は下関商業が優勝した。このチームは強かった。この年から私は高校野球のテレビ観戦をよくするようになったのだが、下関商業には尾崎行雄以来という本格派の好投手がいた。2年生の池永正明である。上背はないが伸び上がるフォームから投げ下ろされる速球は威力があり超高校級であった。この春、下関商業は1回戦で強豪・明星を5対0で倒し、次の2回戦は海南だったが延長16回3対2と辛勝。準々決勝、御所工業に3対2、準決勝、市立神港に4対1と全て近畿勢ばかり相手に勝ち抜いて決勝に進出。決勝は何と北海道代表の北海である。しかし、初めて下関商業は打線が活発になり、池永も好調で10対0の圧勝で優勝した。

 この年の夏、下関商業は優勝候補筆頭として甲子園に乗り込んだ。当然、作新学院に続いての春夏連続制覇がかかっていた。この年は45回の記念大会で、参加校48校、あまり多いので西宮球場も併用された。下関商業は1回戦、富山商業を相手に打線は湿ったが池永の好投で1対0で勝つ。でも2回戦の松商学園戦でアクシデントが発生。池永がランナーの時、ヘッドスライディングをして左肩を脱臼してしまう。池永は左肩を固定して、この試合を5対0で完封してしまう。次の3回戦は沖縄の首里ということで池永は温存(この当時の沖縄の学校はレベルが一段下だったので・・・)。それでも8対0で快勝。準々決勝の桐生戦から池永が復帰。2対1で勝ち、準決勝で今治西と対戦。苦戦して3対2と勝ちいよいよ決勝戦。

 だが打倒、池永に燃える高校があった。明星である。春の大会の初戦で池永に手も足も出なかった明星。監督の真田重蔵は夏に向けて猛練習することにした。真田というと戦前、夏の大会を2連覇した和歌山の海草中学のエースである。前年、豪腕・嶋清一投手で優勝した翌年、真田投手で優勝した。その後、真田はプロ野球入りし、戦後は松竹ロビンスで主戦投手を務め、さらには大阪の明星高校の監督になった。だが浪商の全盛期に甲子園出場を果せず、ようやく1963年に甲子園出場となったが春で下関商業にひねられてから猛練習を敢行。当時、明星は学校の方針でクラブ活動の時間制限を行なっていた。進学校に転換するための処置であったという。真田はこれでは甲子園で勝てないと、無理を承知で練習させたという。こうして明星は大阪予選を勝ちあがり甲子園に乗り込んだ。

 1回戦は不戦勝。2回戦は大垣商業を6対0で倒し、3回戦は堀内恒夫(巨人)が控えにいる甲府商業を11対0。準々決勝は九州学院との対戦、逆転サヨナラ、4対3で勝利。準決勝では横浜高校を相手に5対0。こうして決勝に進出。決勝は下関商業対明星の顔合わせになった。

 1回表、真田は先頭打者の片山にバント奇襲を命令。これが成功した。左肩が万全でない池永は焦り下関商業の内野守備が乱れた。あっという間に2点が入り明星がリード。でも
2回以降、池永は立ち直り揺ぎ無いピッチング。明星の先発、堀川も下関商業を0に抑える。だが6回裏、池永が三塁打、綿野が二塁打の連続長打で1点を返し、なおスコアリングポジションにランナーがいる。ここで真田は堀川からリリーフの角田へチェンジ、角田が見事に後続を三振にとり、とうとう2対1で明星が優勝した。残念ながら下関商業は春夏連覇にならず池永投手が号泣した。池永の号泣は女性週刊誌に掲載され彼は人気者となった。でも翌年、3年生になったものの池永は甲子園に出れず、明星も4番の和田(阪神)が抜けてチーム力が低下した。

 池永は卒業後、西鉄ライオンズに入団。いきなりの20勝で尾崎以来の高卒大物ルーキーといわれたが、1969年の西鉄黒い霧事件に巻き込まれ1970年、プロ野球永久追放の処分が下った。この事件はまことに残念なことであり、池永がその後もプロ野球で現役を続けられれば間違いなく200勝投手になっていただけに・・・・・・。何と無念なことであろうか。
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