2010.08.16 (Mon)
高校野球の思い出④
1964年から暫くの間、高校野球の試合を真剣に観ていなかったような気がする。所々は観ていたのだろうが、もう小学生の高学年になっていただろうから、夏休みといえば、ほとんど家にいなかったからかもしれない。だから、この当時の決勝戦も覚えがない。ただし1964年の春だけは観ていた。確か徳島海南と尾道商業の決勝戦で徳島海南が勝ったのだが、最後はピッチャーゴロで終わり、徳島海南の大きな投手がボールを捌いて一塁へ送球してゲームセットだったと記憶している。その時の徳島海南の投手が、池永と共に西鉄入りしたが、伸び悩み、結局はプロゴルファーに転向した尾崎将司だったことは後に知ったのである。ちなみに尾道商業のピッチャーが小川邦和(巨人―米マイナー・リーグー広島)だった。
1964年の夏は京都の平安を応援していたので平安以外の試合は観ていなかったように思う。この時の平安のキャッチャーが後に広島入りして鉄人の異名をとった衣笠祥雄である。平安は残念ながら準々決勝で敗退した。決勝は意外な高校が進出したと当時は思った。準々決勝で平安を破った高知高校と早鞆高校である。高知高校は少し位は馴染みがあったが早鞆高校って何処だと思った。調べると山口県で、地元では強豪で通り当時は下関商業が強かったからなかなか甲子園出場まで辿り着かなかったらしい。なるほど、それで2対0で高知が勝ったのだが、この時の4番打者だった有藤通世(ロッテ)は1回戦で頭に死球を受け病院送りになっているのに優勝したと話題になった。
1965年の春もあまり記憶がない。決勝は岡山東商業対市立和歌山商業の対戦になり、岡山東商業が延長13回にサヨナラ勝ちしたのであるが、この時のエースが後に大洋に入り剃刀シュートでならした平松政次である。また市立和歌山商業の主砲が阪神入りして大活躍した名遊撃手の藤田平である。その年の夏はほとんど観ていない。でも三池工業が初優勝したということは記憶にある。決勝で木樽投手(ロッテ)銚子商業を2対0で破って久々、福岡に優勝旗が渡るが、3年前の三池炭鉱大爆発事故で痛手を被った大牟田の人が歓喜したということをニュースが伝えていたものである。尚、三池工業のエースは南海に行った左腕・上田卓三である。また、この時の監督が後に東海大相模で指揮を取る原貢であった。
そして1966年であるが、この年は中京商業が作新学院以来の春夏連覇を達成する。春の大会ではさほど強いとは思わなかった。準決勝の宇部商業戦で延長15回お死闘を演じ5対4で中京商業は決勝に進出。相手は土佐高校。中京の加藤と土佐の上岡の投手戦となり1対0で中京商業が勝った。夏は勝ち上がっていく間に憎たらしいほど強いと思うようになった。投手の加藤英夫、捕手の矢沢正、遊撃手の平林二郎、右翼手の伊熊博一あたりは名前を覚えている。独自の襟付きユニフォームにCHUSHO(今のユニフォームとはかなり違っている)と書かれた文字がテレビの前で躍動していた。決勝はその中京商業と松山商業という名門同士の対決となった。あいにく小生は決勝戦の日にキャンプへ行っていたから、この試合を観ていないが高校生の姉が観ていた。姉は松山を応援していたみたいだが、3対1で中京商業が春夏連覇を達成した。最後は三振で終わるのだが、最後の1球を投げる時、ファンの女の子が「加藤くーん」と声をかけたらしい。そこで加藤投手は振り返って軽く手を振ってニコッと笑い最後の打者を三振にとったのだが、姉がにやけていると憤慨していた記憶がある。結局、加藤英夫は1人で春も夏も投げきって連覇を果した。ここらが作新学院との違いであろうか。ところで、この時の中京商業もいい選手が揃っていて、加藤(近鉄)、矢沢(巨人)、伊熊(中日)、平林(阪急)と4人もプロ入りした。しかし、矢沢以外はほとんど活躍できずに終わった。
1967年も高校野球はほとんど観ていない。春は津久見が優勝した。吉良という後に阪神入りしたカーブの鋭いピッチャーが投げていたなあ。夏は習志野が優勝した。これは意外だった。この大会では津久見を破って出場した大分商業に河原明(西鉄)という大会ナンバー1の投手がいて、当然、本命と言われていたが、その河原がやはり優勝候補だった春の準優勝校・市立和歌山商業に準々決勝で滅多打ちを喰らい19対5で敗れてしまったのである。結局、その間隙をついて習志野は勝ち進んだ。石井という牽制の巧い投手がいて、準決勝では連覇を狙う中京高(この年から中京商業から中京高校に名称が変更になった)から、見事な牽制球でアウトの山を築き、3対2で習志野が勝った。なにしろ走る中京が走れなかったのだ。決勝は習志野と市立和歌山商業を接戦で倒した広陵との対戦であった。この試合は習志野打線が広陵の2年生投手・宇根を攻略。池田の本塁打などを含め7対1で勝利した。
翌1968年の春もほとんど小生は高校野球を観ていなかった。優勝も初出場の大宮工業であった。布施章という歌手と同じ響きの強打者がいて本塁打を2本打っていた。でもこの大会で小生が注目した選手が1人いた。東尾修である。初出場の箕島高校で4番兼エースであった。1人で打ち、1人で投げて活躍した。だが準決勝で大宮工業に3対5で敗れる。決勝は大宮工業と尾道商業の対戦であった。初回に尾道が2点を先制するが、大宮工業が逆転し3対2で初優勝した。その年の夏も当初、あまり観ていなかった。だが、小生の姉が高校3年生ということもあり、姉がよく観ていたので覚えている。この年の夏は興南旋風が吹き荒れた。例年、弱い沖縄の高校があれよあれよと準決勝にまで進出したのである。一方、優勝候補だった大宮工業は津久見に敗れ、津久見も盛岡一高(校歌が軍艦マーチのメロディの高校と話題になった)に敗れ、何が何やら判らなくなってきたが、その盛岡一高を興南が倒したということだった。そんな中、初出場ながらサイドハンドの好投手・丸山を擁し確実に勝ちあがっていったのが大阪の興国だった。また1年生エースの左腕・新浦で勝ち進む静岡商業。前年の準優勝校の広陵も宇根投手が健在だった。
しかし、この大会の1番の注目は沖縄の興南がどこまで勝ち進むかということだった。とうとう準決勝まで進み、優勝するのではと思った人も多かった。そして準決勝は興南対興国になった。結果はあっけなかった。1回から興国の猛打が爆発、14対0で興国が圧勝。沖縄の夢は破れたのである。一方、静岡商業は倉敷工業に勝ち決勝進出。決勝は投手戦になり1対0で興国が初出場初優勝を達成した。
1964年の夏は京都の平安を応援していたので平安以外の試合は観ていなかったように思う。この時の平安のキャッチャーが後に広島入りして鉄人の異名をとった衣笠祥雄である。平安は残念ながら準々決勝で敗退した。決勝は意外な高校が進出したと当時は思った。準々決勝で平安を破った高知高校と早鞆高校である。高知高校は少し位は馴染みがあったが早鞆高校って何処だと思った。調べると山口県で、地元では強豪で通り当時は下関商業が強かったからなかなか甲子園出場まで辿り着かなかったらしい。なるほど、それで2対0で高知が勝ったのだが、この時の4番打者だった有藤通世(ロッテ)は1回戦で頭に死球を受け病院送りになっているのに優勝したと話題になった。
1965年の春もあまり記憶がない。決勝は岡山東商業対市立和歌山商業の対戦になり、岡山東商業が延長13回にサヨナラ勝ちしたのであるが、この時のエースが後に大洋に入り剃刀シュートでならした平松政次である。また市立和歌山商業の主砲が阪神入りして大活躍した名遊撃手の藤田平である。その年の夏はほとんど観ていない。でも三池工業が初優勝したということは記憶にある。決勝で木樽投手(ロッテ)銚子商業を2対0で破って久々、福岡に優勝旗が渡るが、3年前の三池炭鉱大爆発事故で痛手を被った大牟田の人が歓喜したということをニュースが伝えていたものである。尚、三池工業のエースは南海に行った左腕・上田卓三である。また、この時の監督が後に東海大相模で指揮を取る原貢であった。
そして1966年であるが、この年は中京商業が作新学院以来の春夏連覇を達成する。春の大会ではさほど強いとは思わなかった。準決勝の宇部商業戦で延長15回お死闘を演じ5対4で中京商業は決勝に進出。相手は土佐高校。中京の加藤と土佐の上岡の投手戦となり1対0で中京商業が勝った。夏は勝ち上がっていく間に憎たらしいほど強いと思うようになった。投手の加藤英夫、捕手の矢沢正、遊撃手の平林二郎、右翼手の伊熊博一あたりは名前を覚えている。独自の襟付きユニフォームにCHUSHO(今のユニフォームとはかなり違っている)と書かれた文字がテレビの前で躍動していた。決勝はその中京商業と松山商業という名門同士の対決となった。あいにく小生は決勝戦の日にキャンプへ行っていたから、この試合を観ていないが高校生の姉が観ていた。姉は松山を応援していたみたいだが、3対1で中京商業が春夏連覇を達成した。最後は三振で終わるのだが、最後の1球を投げる時、ファンの女の子が「加藤くーん」と声をかけたらしい。そこで加藤投手は振り返って軽く手を振ってニコッと笑い最後の打者を三振にとったのだが、姉がにやけていると憤慨していた記憶がある。結局、加藤英夫は1人で春も夏も投げきって連覇を果した。ここらが作新学院との違いであろうか。ところで、この時の中京商業もいい選手が揃っていて、加藤(近鉄)、矢沢(巨人)、伊熊(中日)、平林(阪急)と4人もプロ入りした。しかし、矢沢以外はほとんど活躍できずに終わった。
1967年も高校野球はほとんど観ていない。春は津久見が優勝した。吉良という後に阪神入りしたカーブの鋭いピッチャーが投げていたなあ。夏は習志野が優勝した。これは意外だった。この大会では津久見を破って出場した大分商業に河原明(西鉄)という大会ナンバー1の投手がいて、当然、本命と言われていたが、その河原がやはり優勝候補だった春の準優勝校・市立和歌山商業に準々決勝で滅多打ちを喰らい19対5で敗れてしまったのである。結局、その間隙をついて習志野は勝ち進んだ。石井という牽制の巧い投手がいて、準決勝では連覇を狙う中京高(この年から中京商業から中京高校に名称が変更になった)から、見事な牽制球でアウトの山を築き、3対2で習志野が勝った。なにしろ走る中京が走れなかったのだ。決勝は習志野と市立和歌山商業を接戦で倒した広陵との対戦であった。この試合は習志野打線が広陵の2年生投手・宇根を攻略。池田の本塁打などを含め7対1で勝利した。
翌1968年の春もほとんど小生は高校野球を観ていなかった。優勝も初出場の大宮工業であった。布施章という歌手と同じ響きの強打者がいて本塁打を2本打っていた。でもこの大会で小生が注目した選手が1人いた。東尾修である。初出場の箕島高校で4番兼エースであった。1人で打ち、1人で投げて活躍した。だが準決勝で大宮工業に3対5で敗れる。決勝は大宮工業と尾道商業の対戦であった。初回に尾道が2点を先制するが、大宮工業が逆転し3対2で初優勝した。その年の夏も当初、あまり観ていなかった。だが、小生の姉が高校3年生ということもあり、姉がよく観ていたので覚えている。この年の夏は興南旋風が吹き荒れた。例年、弱い沖縄の高校があれよあれよと準決勝にまで進出したのである。一方、優勝候補だった大宮工業は津久見に敗れ、津久見も盛岡一高(校歌が軍艦マーチのメロディの高校と話題になった)に敗れ、何が何やら判らなくなってきたが、その盛岡一高を興南が倒したということだった。そんな中、初出場ながらサイドハンドの好投手・丸山を擁し確実に勝ちあがっていったのが大阪の興国だった。また1年生エースの左腕・新浦で勝ち進む静岡商業。前年の準優勝校の広陵も宇根投手が健在だった。
しかし、この大会の1番の注目は沖縄の興南がどこまで勝ち進むかということだった。とうとう準決勝まで進み、優勝するのではと思った人も多かった。そして準決勝は興南対興国になった。結果はあっけなかった。1回から興国の猛打が爆発、14対0で興国が圧勝。沖縄の夢は破れたのである。一方、静岡商業は倉敷工業に勝ち決勝進出。決勝は投手戦になり1対0で興国が初出場初優勝を達成した。
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