2010.09.25 (Sat)
井上靖・・・・・『天平の甍』を読む

中学校3年の時だったか、夏休みの読書感想文の指定図書にされ読んだ覚えがある。だが当時、内容が難しく消化しきれてない自分に腹が立ち社会人になってから再び読み直した小説である。内容は映画にもなったぐらいだから知っている方もおられるだろうが、簡単な粗筋を書いておくとする。
時代は奈良時代。朝廷で第9次遣唐使派遣が議せられたのは聖武天皇の天平4年(732年)のことだった。この時の遣唐使派遣の最も重要な目的は主として宗教的、文化的なものであて、政治的意図というものは問題に足らなかった。この頃、大陸や朝鮮半島諸国の変遷興亡は、この日本という島国を揺すぶっていたが、それよりも日本が自らに課した最も大きな問題は近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子によって律令国家として歩みだして90年。仏教が伝来してから180年。政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、まだまだ混沌として外枠は出来たが中身は空疎、国としては未成熟そのものだった。平城京は唐の都・長安を模した街で、整然たる都の概要を成してはいたが、平城京の周辺には夥しい数の流民が屯し、興福寺、薬師寺、大安寺・・・・40余寺が既に建立されていたが、立派な伽藍と反比例するように空疎なものが漂い、経堂の中の経典も少なかった。また、日本国内には戒律がまだ備わってなくて、僧とは名ばかりで腐敗しきっていた。それというのも課役を逃れるために百姓は争って出家し流亡していた。そこでこの現象を食いとめるために幾十かの法律が次々に出されたが効果は一向に上がっていなかった。僧尼の行儀の堕落も甚だしく為政者の悩みの種となっていた。そこで日本の仏教を支えるには何が必要であるかというと正しい戒律を整えるのが1番必要とされた。
こうして唐より優れた戒師を迎えて正式の授戒制度を布くことが仏徒を取り締まる最善の方法であるとされ、第9次遣唐使派遣の目的は明白になった。そして、大安寺の僧・普照、興福寺の僧・栄叡が遣唐使の一員に選ばれたのである。さらには戒融、玄朗という2名の僧も加わっって、いよいよ唐へ渡る事となった。船は東シナ海を越えなければならなかった。波浪に弄ばれ船酔いで苦しむ者が続出したが難破することなく蘇州に漂着。一向は洛陽へと向かう。こうして長い留学生活が始まったのである。
結局、この小説は鑑真和上という高僧を日本に招聘することに成功したことで、成し遂げられた感があるが、ことは簡単に運ぶわけはなく、此処へ辿り着くまでの紆余曲折が克明に綴られている。日本から渡った留学僧4名、普照、栄叡、戒融、玄朗の中で日本へ生きて帰ったのは普照だけだったという現実。また彼らの先輩の留学僧である業行は、まだ日本にない仏典を写経し始める。この写経に何年も何年も費やし、挙句の果ては日本へ持って帰る筈だった厖大な量の写経も普照に授けるが日本へ向う船の中で藻屑となる。
栄叡は戒師として名高い鑑真の弟子の何人かを日本に連れて帰りたいと嘆願すると、何と鑑真自身が日本に行くといい、栄叡は感激し日本へ連れて帰るための準備にかかり普照も手助けすることになるが、鑑真を日本へ渡航させることに反対する勢力によって何度も失敗することになる。4人の修行僧が唐に渡って何時の間にやら20年。中には没しいたものもいて、普照は放浪の果て高僧・鑑真を伴ってようやく故国日本の土を踏む。鑑真は東大寺大仏殿の西に戒壇院が落成させた。こうして80余人の僧は旧戒を棄てて戒壇院において戒を受けたのである。さらに鑑真は都の西端、西ノ京の新田部親王の旧地を賜り、そこに精舎を営み、最初律寺と号し、後に天皇より唐招提寺の勅額を賜ったのである。天皇は唐招提寺の落成と同時に詔して出家たる者はまず唐招提寺に入って律学を学び、のち自宗を選べしと宣したので、寺には四方から学徒が集まり講律授戒はすこぶる盛んになった。こうして日本における仏教も戒律がやっと備わり、文化国家へと歩みだすのである。渡航、6回目にしてようやく日本へ来ることに成功した鑑真は何時しか失明し、唐招提寺建立から4年後没す。年齢は76歳であった。
つまり『天平の甍』とするところ、最も主人公らしい人物である普照が留学僧仲間で1番平凡であったということである。普照以外の留学僧は唐へ渡るなり「この国には何かがある。この広い国を経廻っているうちに何かを見つけだすだろう」と考えて、出奔して托鉢僧となった戒融。唐に着く前から日本へ帰りたいと言っていた意志薄弱の玄朗は、還俗して唐の女と結婚し、そのまま落ち着くこととなった。また業行は「自分で勉強しようと思って何年か潰してしまったのが失敗でした。・・・・・自分がいくら勉強しても、たいしたことはないと早く判ればよかった」と言い、それからは一室に篭って沢山の経文の書写をやり、それを日本へ運ぶという、より確実な方法を選ぶ。彼は数10年の在唐生活の間、知っているところといえば幾つかの寺があるに過ぎない。ただ筆写本の厖大な山があった。栄叡は行動人で高僧・鑑真を戒師として日本に呼ぶことが自分に課せられた仕事と考え、歴史的使命を果そうとするが、その最中に病死する。結局、鑑真を招くことに栄叡ほどの情熱も行動力も持てず、経典を書写することさえやらず、平凡な日々を過ごし歳月に流されながらも運命に抗うことの少なかった普照の帰国とその後の成功。最も慈悲深く目立たない男が皆の意志を汲んだ形となってこの結末は救われたのである。
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