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2010.10.05 (Tue)

シカゴの初期アルバムを聴く

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 39年前のことだが、1971年6月13日の日曜日、シカゴのコンサートに行った。当時、高校生だった私は、ロックのコンサートだというとほとんど行っていた。この頃はロックバンドの初来日が相次いでいて、片っ端からチケットを購入してコンサート(今はライヴとしか言わないか)に駆けつけていた。そのためにアルバイトをやっていたのでもあるが・・・・。それでこの前年と翌年も含めて行ったコンサートは、サム&デイヴ、B・B・キング、ブラッド・スウェット&ティアーズ、バート・バカラック、グランド・ファンク・レイルロード、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、サンタナ、エマーソン・レイク&パーマー(チケットは持っていたが行けなかった)・・・他にも行った覚えがあるがすぐにはちょっと思い出せない。そんな中で最も印象的で盛り上がったのが、このシカゴのコンサートだった。

 この頃、ブラス・ロックというものが流行った。ブラッド・スウェット&ティアーズ、チェイス、タワー・オブ・パワー等、その最も先駆けとなったのはバッキンガムズなのだが、このバンドはまだブラスが全面に出ていない。この1960年代の後半にポップスはより激しくなり多様化し、そういった中でブラス・ロックというものが出没してきたのである。これまでの電気ギター中心のロック・ミュージックにブラスセクションが加わったというものである。音楽が多様化した結果、ポップスもジャズも接点がだんだんと無くなってきて、フュージョンなんていう音楽も出てきたが、従来のエレキサウンドにブラスが加わったものがブラス・ロックだろう。そんな中で最も活躍していたのがブラッド・スウェット&ティアーズであり、このシカゴであった。

 どちらのバンドも同じような頃に出てきたと思うが、当初、あまり気にもかけなかったし、ジャズのようなロックのような訳の判らないバンドが出てきたなあという印象でしかなかった。それがブラッド・スウェット&ティアーズの『スピニング・ホイール』が大ヒットし私の中で認識が変ったのである。これまでブラスはジャズ。ロックはエレキ・ギターと思い込んでいた。それがジャズとロックの見事な融合といえばいいのか。これまでのロックとは違い音色に幅が出てきた。最もあの頃、私のロック好き仲間はあんなラッパ吹き音楽はロックではないと言い張り毛嫌いしているものが多かった。

 でも当時からジャズも何となく聴いていた私は俄然と興味を持ち、ブラッド・スウェット&ティアーズ初来日の時に早速、コンサートに出かけていった。でもあまり盛り上がりがなく淡々として終わってしまった。やはり日本ではブラス・ロックは駄目なのかなあという思いがある中で出かけていったのが、シカゴの初来日コンサートであった。当時の大阪は、まだ本格的にロックのライヴが出来る会場がなく(大阪城ホールが出来るのは10年後であるし、その他の会場はもっと後年に完成した)、クラシックの殿堂であるフェスティバル・ホールが会場に使われることが多かった。

 そしてホールの指定された席に座って前を見渡すや、何と同級生のY君が彼女を連れて観に来てた。また、それ以外のロック好きの仲間も大勢来ていて、ブラス・ロックは嫌いといいながら、みんな生のシカゴを聴きたかったというのが本音だろう。

 こうして『イントロダクション』から演奏が始まった。ステージに現れた彼ら7人。テリー・キャス(リード・ギター、ヴォーカル)、ピーター・セテラ(ベース、ヴォーカル)、ロバート・ラム(キーボード、ヴォーカル)、ダニエル・セラフィン(ドラムス)、ジェイムズ・パンコウ(トロンボーン)、ウォルター・パラゼイダー(木管楽器全般)、リー・ロックネイン(トランペット)。巨漢テリー・キャスがメインヴォーカルを勤めるが、何とバンドの中央の最前列にドラムスのダニエル・セラフィンが居座っている。面白い配置だったと記憶する。演奏は徐々に盛り上がり、シカゴの連中も自身で盛り上がってきたのだろう。休憩にはいる前半の最後には観衆の歓声が大きくなっていた。

 休憩が終わり、彼らがステージに入ってきた時から観衆は既に酔っていて、2階から飛ばされた紙ヒコーキがステージの方まで飛んで行き、それを拾ったダニエル・セラフィンが客席に投げたら場内はどっとどよめき大歓声。後半のステージは狂気、乱舞した。シカゴの連中が盛り上がり過ぎて、サービス精神旺盛な彼等が、どの曲でもアドリブを余分に行うので観衆は徐々に立ちはじめ、手拍子が自然発生的に始まり、所々で踊り出す者も現れる。今では当たり前だが、あの頃のライブでは考えられない出来事であった。それまでの日本の聴衆というのは大人しく、じっと座って聴いている。時には手拍子もするが、それも演奏者に促がされて渋々やっていた場合が多い。それがこの時は観に来ていた人から燃え滾るものがあって、一気に盛り上がったのである。

 こうして後半はヒット曲、『クエスチョンズ67/68』、『メイクー・ミー・スマイル』『ぼくらの世界をバラ色に』を中心に演奏し、盛り上がりがだんだんとピークに達する。そして最大のヒット曲『長い夜(25 or 6 to 4)』の頃は観衆が自分の席を離れ出し、ステージの前に集まりノリノリであった。その後、アンコールの声がやまず、彼等はアンコールを計3回行なったのではなかったかと思う。シカゴは引っ込んだが、まだ帰ろうしない客が30分もステージの前でアンコールをするように叫んでいたという。こうして盛り上がりすぎたシカゴの初来日コンサートの初日は終わった。彼等は翌日も大阪で1回行い、その後、東京の日本武道館で1回コンサートを行なった。何れも盛り上がったという。

 ところでシカゴは結成された頃(1967年)、ビッグ・シングをいう名前だった。シカゴのデ・ポール大学の学生中心のバンドだった。如何にもジャズのビッグ・バンドを連想させるバンド名で、ロックにジャズ的要素を加えようとしていたことが窺える。1969年にはプロデビューし、シカゴ・トランジット・オーソリティーという名前だった。ファースト・アルバムのジャケットに書かれてある通りなんだが、2枚目のアルバム時にはシカゴという変哲もない名前に変えている。それはシカゴ交通局からの苦情があったためであるが、初期の彼らはベトナム戦争を皮肉ったっり政治的な歌詞が多く、時代を反映していたと思う。

 その後、私はロックを聴かなくなり、以降の彼らは知らない。ただテリー・キャスが拳銃を暴発させて死んだという新聞記事を見て驚いたことはある。それも私が生コンサートに行ってから7年後のことだった。既に私は社会人であり、生活が忙しくなり音楽をゆっくり聴いている時間もなかった。シカゴはメンバーを入れ替えて、現在でも演奏活動を行なっているとは聞いている。今となっては聴こうとは思わないが、あのブラス・ロックを聴いて大いに盛り上がったことは青春の1ページとして私の記憶の中に確実に残っている。


 シカゴの『長い夜(25 or 6 to 4)』の演奏(1974年)。


 シカゴ『Make Me Smile』の演奏(1970年)

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