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2012.05.09 (Wed)

コニー・フランシスを聴く

IMG_0203.jpg

 私が小学生の頃の話であるが、テレビから色々な歌手が歌う歌が溢れるように流れ出ていた。当時はまだ、演歌、ポップス、ロック、フォーク等のジャンル分けも出来ていなくて単に流行歌で一括されていたように思う。そんな中でも幼い少年の小生にとっても、日本語で歌われる歌の中でも西洋のポップス風な歌は当然のように区別できたものである。あの頃、昭和30年代というのは、まだ日本人がポップスを作曲することは珍しく、そのほとんどが外国の歌を日本語に変えて歌手に歌わせていたというのが現実であった。つまり今でいうところのカバー曲だったのである。でも小学校に入ったばかりの小生は、そんな現実を知る由もない。当時の多くの歌手が歌っていたポップス風な曲は日本の曲であるとばかり思っていた。今思うと滑稽ではある。当時の作曲家の大御所達はポップス風な曲を作らなかったのか、それとも作れなかったのか知らないが、外国風な曲の多くは今から考えると外国のカバー曲だったのである。

 あの頃というより、50年代からロカビリー・ブームというものがあって平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下啓二郎等がすでに洋楽のカバー曲を歌っていたが60年代の前半はそれがより顕著なものになっていたのだろう。それで当時、テレビを賑わせていた若手歌手たち・・・・ダニー飯田とパラダイス・キング、飯田久彦、鈴木やすし、坂本九、スリー・ファンキーズ、尾藤イサオ、ザ・ピーナッツ、森山加代子、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、九重祐三子、田代みどり、弘田三枝子・・・・数え上げればきりがない。大勢いたがみんな洋楽のヒット曲を日本語でカバーしていた。しかし、それらを通して小生は聴いていたので、これらの曲が西洋の曲であることは当時は幼かったので理解できてなった。その後に、小生はテレビを離れて楽曲との触れあいはラジオを通すことになり、それまで日本人が歌っていた曲は全て洋楽のカバーだったいうことを知ることとなったのである。 しかしながら、たとえ日本人歌手による日本語のカバーだとしても、その後に洋楽を聴き続ける中で原体験として心の中に生き続けていることは確かであり、今でも幼い頃に聴いたあの日本語のポップスが何気なく歌えるというのは実に貴重な事である。

 そんな多くの洋楽カバー曲の中でもっとも当時の女性歌手がカバーした曲はコニー・フランシスの曲ではないかと思う。たとえば代表的なところでは『可愛いベイビー』は中尾ミエ、森山加代子がカバーしていたし、『大人になりたい』は伊東ゆかりがカバーしていた。また『ヴァケイション』は弘田三枝子がカバーしてヒットしたが、それ以外にも伊東ゆかり、金井克子、青山ミチ等が歌い競作となった。つまりコニー・フランシスが歌った楽曲と言うのは日本人好みの曲が多かったのかも知れず、その後の和製ポップスを形成するに至るまでの原点になったかもしれない。でも日本人に愛されたコニー・フランシスの楽曲だが、コニー・フランシス自身はさほど順風満帆であった訳ではない。

 コニー・フランシスは1938年にニュージャージーで生まれた。本名をコンチェッタ・ロサ・マリア・フランコネロというイタリア系アメリカ人である。コニー・フランシスの音楽的素養としては3歳の時に父から贈られたアコーディオンが始まりである。ところがこのアコーディオンを弾きこなすようになり、子供向けのショー番組等のテレビに出演することとなり、11歳の時に出演したテレビ番組で芸名がコニー・フランシスになったという。こうしてコニー・フランシスは歌手としてテレビに出演するようになり17歳でレコード・デビュー。が、曲を出せども出せども2年間以上ヒットに恵まれず挫折感を味わうことになる。歌手としての実力もありジュディ・ガーランドの再来と言われたにも関わらずであった。そして、とうとうMGMレコードから最後通牒を突きつけられることとなる。そこで録音されたのが『Who’s Sorry Now?』(1958年)だった。この様な崖っぷちで出した曲がヒットすることとなる。こうしてスターへの階段を駆け上がりだしたコニー・フランシスは出す曲が次から次へとヒットする。『間抜けなキューピッド』(1958年)、『My Happiness』(1958年)、『カラーに口紅』(1959年)、『Amoug My Souvenirs』(1959年)、『ボーイ・ハント』(1961年)、『泣かせないでね』(1962年)、『ヴァケイション』(1962年)、『渚のデート』(1963年)・・・・・・・コニー・フランシスは日本人のイメージからするとアイドル歌手なのかと思いがちだが、実は実力派歌手でレパートリーも広くポップス以外にもカントリー、カンツォーネ、映画音楽、ラテン等のナンバーを得意としていて、アメリカでは幅広い活躍をしていたのである。それが、日本で独自にヒットした『可愛いベイビー』、『大人になりたい』『夢のデイト』『ロリポップ・リップス』や『ヴァケイション』『大人になりたい』等、日本人歌手によてカバーされ、当時、映画にも何本か出演していたのでアメリカのアイドル歌手であるかのようなイメージが強くなったからなのだろう。実際にはコニー・フランシスは多くのアルバムを出していて、日本では未発表の曲も多く、他人のカバーも多数録音しているので是非、聴いてもらいたいと思う。

コニー・フランシスは1960年代半ばまでヒット曲を出し続けるのである。ところが60年代後半になってから取り巻く音楽シーンの変化が大きくなりとうとうヒットチャートからコニー・フランシスは姿を消すこととなる。さらに74年にスキャンダルな事件があり、81年には弟が自宅で殺害されるという出来事もあり、彼女もかれまでかと思われたが、それから間もなく見事にステージに復帰。現在も年老いたとはいえ活動を続けているのである。


 コニー・フランシス・ヒット・メロディ


 コニー・フランシス『可愛いベイビー』(動画はなし)


 コニー・フランシス『ヴァケイション』(動画はなし)


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