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2010.06.28 (Mon)

映画『ブレードランナー』を観る

 『ブレードランナー』1982年製作、アメリカ、香港映画

 監督 リドリー・スコット

 出演 ハリソン・フォード
    ルトガー・ハウアー
    ショーン・ヤング
    エドワード・ジェームズ・オルモス
    ブライオン・ジェームズ
    ジョアンナ・キャシディ

 【あらすじ】時は2019年、地球の環境が悪化した結果、人類の多くは宇宙へと移住して行き、地球に残った人は、過密な都市空間に住んでいた。一方、移民惑星の宇宙開拓前線ではレプリカンとと呼ばれる人造人間が奴隷として働いていた。外見上は人間と変らないが、彼らには感情が欠如していた。それが製造から月日が経ち、彼らの中にも感情が芽生えだした。やがて彼らも人間に反乱するようになりるが、そのレプリカント達を処刑するのがブレードランナーである。こうして植民地惑星から4体のレプリカンとが脱走し、地球に潜入し人間社会に紛れ込もうそしていた。そこで、ブレードランナーのデッカードは、レプリカントを追う任務を任される。こうしてレプリカントとブレードランナーの対決が始まるが・・・・・・。

 この映画を観たのは30年近く前になる。1982年製作だから、おそらくその年か翌年に封切られたと思う。でも、その頃の批評は散々で、同じ頃に製作された『E.T』や少し前の『スター・ウォーズ』と比較しても人気がなく、SF映画でも異質な雰囲気を持つこの作品は判りにくいという意味で受けなかったように思う。確かに上映当時、当時のSF映画の概念からは浮いていた。1982年からだと2019年というのは近未来ではあるが、所謂、大宇宙を舞台にしているのでもなく、また、異性人が登場するというのでもない。舞台はあくまで2019年の地球であり西洋の都市ロサンジェルスである。それも何処か雑然とした都市空間が現れる。どこかゴミゴミしていて、西洋の近代都市の整然さは垣間見れないし、どちらかというとアジアの都市の猥雑さを含んだ、陰鬱で退廃的な画面が映画全体を支えている。

 ところで原作はフィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であって、このような題名だと、いくらか意味が判るかと思うが、内容は結構、哲学的なものであって、単純で判りやすいストーリーでないことは確かである。それをリドリー・スコット特有の無国籍風の映像、世界観というものがあり、こういった暗い内容で終始していて、当時の人には一般受けしなかったといえるだろう。それが、現在では『ブレードランナー』は一部の人に熱狂的に支持される映画となってしまった。また、リドリー・スコット自身も考えるところがあって、何度も編集を重ね、色々なバージョンの『ブレードランナー』が存在する。

 当初、上映された『ブレードランナー』もあれば、国際バージョンもあり、ディレクターズ・カット版もある。さらに、ファイナル・カット版もあるし、結局は、それぞれのバージョンで観た印象は徐々に違ってくるし、それぞれの人が好きなように解釈すればいいっことであって、映像は多くは語らない。詳細を知りたければ原作を読めばいいのだし、映画と小説を同一線上で語れない。それだけに『ブレードランナー』はカルト的な人気のある映画として、今では語られるのかもしれない。


 『ブレードランナー』トレイラー。

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2010.06.01 (Tue)

デニス・ホッパー死去

 デニス・ホッパーが29日、ロサンジェルスの自宅で亡くなったと報道されていた。昨年の10月に末期の前立腺癌であると公表し、これまで闘病生活を強いられていたが、とうとう前立腺癌による合併症で亡くなった。

 デニス・ホッパーといっても最近の人はあまり認識がないだろう。74歳だからしかたがない。俳優で監督でプロデュサーであるといっても印象はうすいかもしれない。所謂、脇役俳優であるから、あまり主演をしなかった。でも過去の出演映画を見てみると驚かれると思う。デニス・ホッパーが19歳の時に出たのが『理由なき反抗』である。この時の主演がかのジェームス・ディーンであり、次に出たのが『ジャイアンツ』である。この時も主演はジェームス・ディーンであり、若き日のエリザベス・テイラーであった。若いときに一緒に映画に出た仲間がジェームス・ディーンであったというのは貴重な体験であろう。とにかくジェームス・ディーンはたったの三本の映画に出ただけで交通事故で死んでいった。その中の二本をジェームス・ディーンと共に出演したから、当然のようにジェームス・ディーンの影響を受けたという。

 ジェームス・ディーンという役者も何かに訴えている目を絶えずしていたが、彼に影響を受けたデニス・ホッパーも、その後は監督やスタッフと何度も衝突し不遇の時代を送るしかなかった。彼は映画の都ハリウッドに居場所はなく、ニューヨークに行き、彼の地で独立プロの作品に幾つか出演しキャリアを積んでいった。でも知名度は上がらずにいた。そんな時代に彼は監督として俳優として脚本家として映画『イージー・ライダー』を生む。

 1969年製作された『イージー・ライダー』は、今では反体制的なアメリカン・ニューシネマの代表的作品としてカルト的な人気を誇る作品となり、上映された映画は大ヒットして彼は一躍、有名になった。しかし、撮影開始当初、『イージー・ライダー』がこれほど評判になり、これはど人気が出るとは考えてなかっただろう。『イージー・ライダー』は単に麻薬とバイクとを結びつけたロードムービーを低予算で撮りたかっただけだと確か彼が言っていたように思う。それが思わず反響を呼び、当時のアメリカのバイクに跨ったヒッピー青年を通して権力を痛烈に批判したのだと、批評家やファンが一方的に解釈し、熱狂的に若者に支持される映画となってしまった。それ以来、デニス・ホッパーは反社会的なイメージが先行してしまい、再び映画出演に恵まれなくなる。私生活でも麻薬や酒に溺れる始末で、反社会的なシンボルも地に落ちたといわれたものである。

 1980年代も後半になり、ようやく彼は映画出演に積極的になるが、若い頃の映画とも『イージー・ライダー』で監督・脚本・主演を演じた頃と違い、性格俳優としてスクリーンに帰って来た。もう反逆的な目はしてなくて、ハリウッドの役者の顔をしていた。『地獄の黙示録』『ブルー・ベルベット』『勝利への旅立ち』『ハートに火をつけて』『トゥルー・ロマンス』『逃げる天使』『スピード』『ウォーター・ワールド』『バスキア』『スペース・トラッカー』・・・・・今世紀に入っても精力的に映画出演していた。もっとも最近は私も映画を観なくなったから、デニス・ホッパーがどういった役で出ていたか知らない。彼は好んで出ていたのだとしたらいいが、若い時のような反抗的な目ではなくなり大衆に迎合してしまったかのように私は思えた。しかし、どんな役をしていようが、どんな心境の変化が起ころうが、何れもデニス・ホッパーであることに変りはない。

 そこで最近、何気なく思っていることだが、デニス・ホッパーには他人が考えているほど反社会的人間ではなかったのでは?・・・・・・・。彼が真に反体制派の役者なら商業的に成功するような娯楽映画に出ただろうか。彼は若いときのような反体制の精神を貫いたら、とてもハリウッド大作に出ることは出来なかっただろうし、この20年の間の映画出演ラッシュという訳にはいかなかっただろう。

 つまり『イージー・ライダー』で焼きついた彼に対するイメージが、なかなか壊れずにいて、そのことが彼には重荷になっていたのではないだろうか。つまり彼は映画人として悟ったのでは・・・・。反抗的でいるよりも体制派に迎合する。これで吹っ切れたとしたら彼の映画人としてのその後が決定づけられた『イージー・ライダー』は、彼としたら予想外の映画だったのかもしれない。大した意味もなく製作したのに、結果オーライで、映画は大反響。批評家が挙って持ち上げてしまったとしたら、これほど痛快なことはないが、そのことが彼には重荷になっていたのではないかと私は考えているのであるが・・・・。


 映画『ジャイアンツ』の1シーン。デニス・ホッパーは若い頃、こんな役も演じていた。ロック・ハドソンとエリザベス・テイラーの息子役で出ていたが、ここではジェームス・ディーンに殴り倒される。


デニス・ホッパーといえば、やはりこの映画『イージー・ライダー』監督、主演、脚本と才能振りを発揮。映画ではピーター・フォンダの相棒的役柄だった。映画の冒頭。スッテペンウルフ『ワイルドで行こう(Born to be Wild)』の音楽にのって。


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2010.03.31 (Wed)

映画『真夜中のカーボーイ』を観る

 『真夜中のカーボーイ』1969年製作、アメリカ映画

 監督 ジョン・シュレシンジャー

 出演 ジョン・ヴォイト
    ダスティン・ホフマン
    ジョン・マッギーヴァー
    ブレンダ・ヴァッカロ
    ギル・ランキン
    バーナード・ヒューズ

 【あらすじ】テキサスから大都会ニューヨークへやってきたジョー。彼は何故かカウボーイスタイルである。目的は都会の女を相手にして金を稼ごうというものであったが、都会は甘くなく女に反対に金をふんだくられる。カウボーイを気取る彼の夢はだんだんと遠のいていく。そんな時、ラッツオというビッコの小男と知り合う。ジョーはラッツオが売春の斡旋人を世話してくれるというので10ドルを手渡すが、斡旋人はゲイ専門であった。騙されたことに気がついたジョーはラッツオを探し捉まえるがラッツオは既に一文無しであった。怒ったジョーはラッツオを問い詰めるがどうしようもない。せめて罪滅ぼしにとラッツオはカモ探しに協力する。こうしてテキサスからきたジョーと、ビッコをひいた小男ラッツオとの妙な共同生活が始まるが・・・・・。

 この映画を観たのは今から40年前のことである。ちょうど60年代後半から始まったアメリカン・ニューシネマの中の傑作の一つとされる映画である。テキサスの田舎から大都会ニューヨークへ出てきた男と、都会の片隅で生きるドブネズミのような男との間に芽生えた友情を描いた映画といえば聞こえはいいが、現実はそんなに甘いものではないことを痛感させる、まさにアメリカン・ドリームの逆をいく話である。

 テキサスの田舎から、大都会ニューヨークを目指してバスに乗るジョー。それがテンガロンハット(本当はカトルマンという種の帽子)を被りウエスタンブーツを履いたカウボーイスタイルというので笑えるが、ニューヨークで女を相手にして金を稼ごうなんていう不順な動機からして滑稽である。まさに田舎者が都会に出れば何でも適えられるといった安直な考えで出てくる人が後を立たないのは、このような思いつきを抱いているという人がいることも確かなようで、これは万国共通のことかもしれない。ところが大都会というのはそれこそ生き馬の目を抜くというが、田舎者は簡単に騙されやすく、安易に人を信じてしまう。それでジョーはあっという間に金が底をついてしまったのである。そこへ現れたビッコをひいた小男ラッツオ。汚らしくて冴えなくて都会の片隅のスラム街で生き抜いている男こそラッツオである。妙な出会いから廃墟のビルの一室で共同生活を始めるが、暖房もない凍えそうな室内。金はないし食料もない。ジョーはニューヨークにきて当初の希望から180度、逸脱した生活を送っていたが、ジゴロという稼業がうまくいきだして稼げるようになる。ところが直後にラッツオが病魔に冒され病状が悪化していき、ここで2人の間には妙な友情が育まれる。ラッツオは暖かいフロリダでの生活を望んでいた。ジョーはジゴロ稼業の最中にゲイの紳士から金を奪い、ラッツオを連れてフロリダ行きのバスに乗る。だがフロリダ目前のバスの中でラッツオはとうとう・・・・・・・・・とこれ以上は書きたくない。

 
 日頃、ありそうな現実を描いた映画だが、1960年代後半という時代だからこういった映画を撮らせたのだと思う。けして観ていて爽快感はないし楽しい事もない。それでいてアメリカの恥部を曝け出した大いなる現実の世界。けしてアメリカン・ドリームばかりが渦巻いているのではなく、ドロップアウトしていく例も多々あるといったアメリカの暗黒面を風俗描写している。夢はあれどもどのように現実化させていくか判らない。そんな中で月日ばかりが過ぎていく。こうして都会の人たちは大きな渦の中で翻弄されてしまうのである。まさにこのような孤独な男達は巷に溢れている。このような世のはみ出し者となって極貧の生活を強いられている男達は日本の都会にも大勢いるだろう。
 
 今から40年以上前に撮られた映画であるが、その主題とするところは今、観ても古臭くなく内容も訴えるものがあって現在でも立派に通用する。また歯の浮くような美辞麗句ばかりを並べていた当時の多くの映画にあって、アメリカン・ニューシネマの登場は新鮮だった。その中でも『真夜中のカーボーイ』は傑作の部類だろう。ことに『卒業』でエリート大学卒業生の役を演じたダスティン・ホフマンが今度は一転して、ネズ公ラッツオという汚れ役を演じ拍手喝采を浴びた。とにかく今の日本でも通用するテーマを持った内容であり、時代が撮らせた映画でもあり、普遍的な人間愛が垣間見られる映画で1969年のアカデミー賞、作品賞に輝いた。

 
 『真夜中のカーボーイ』トレイラー。ニルソンが歌う主題歌『噂の男』も出色だった。

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2010.01.25 (Mon)

映画『ロッキー』を観る

『ロッキー』1976年製作、アメリカ映画

 監督 ジョン・G・アヴィルドセン

 出演 シルヴェスター・スタローン
    タリア・シャイア
    バート・ヤング
    カール・ウィザース
    バージェス・メレディス
    ジョー・スピネル

 【あらすじ】アメリカのかつての首都であったフィラデルフィアでしがない場末のボクサーであるイタリアン・スタリオン(イタリアの種馬)の異名を持つロッキー・バルボアは、リングに上がる合間はチンピラやくざの使い走りで日銭を稼ぐという情けなさである。だが、そんなロッキーにチャンスが訪れた。世界ヘビー級チャンピオンであるアポロが強すぎて挑戦者がいないことに窮し、人気取りのために無名のボクサーと闘う事を宣言したのであるが、アポロが選んだのは何とイタリアン・スタリオンことロッキー・バルボアであった。かくして薄汚れた下町のリングに上がっていた三流ボクサー、ロッキー・バルボアはトレーニングを開始。そこで付き合い始めた恋人エイドリアンのためにも頑張ろうとする・・・・・。

 この映画をどう形容すればいいのだろうか。最初、ロードショーで観た時つまらない映画だと思った。よくある月並みなサクセスストーリーで、いわばアメリカンドリームの定番映画にしか過ぎないと感じたのである。私の姉は当時、この映画がアカデミー作品賞を貰ったことに対して、こんな映画が作品賞を獲るなんてアカデミー賞も価値がなくなったと憤慨していたが、いわばこの作品はアメリカン・ドリームを象徴する典型的な作品として、アメリカ人の郷愁を誘う映画として考えれば作品賞は貰ってもいいのかもしれないと思う。

 よく知られているように主演をしたシルヴェスター・スタローンはこの映画で一躍有名になったし、事実としてそれまで彼はポルノ映画の出演や用心棒などで生活費を稼いでいた。でも彼は一応は俳優の端くれであり、それまでも映画のオーディションに参加するものの何十回も落選していたのである。そんな彼が、当時の世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ対チャック・ウェプナーの試合を観戦し、そこからヒントを得て、たった3日で脚本を書き上げたという。あの試合は私もテレビで観戦したが、無名のボクサーであるチャック・ウェプナーが予想外の善戦をし判定で敗れたのであった。その試合にスタローンが自分を照らし合わせていたのかもしれないが、出来上がった脚本を持ってプロダクションを訪れた。プロダクションは気に入って早速、映画化の話が出た。でも主演は有名な俳優で映画を撮るというものだった。だがスタローンは自分が主演することを条件にプロダクションと交渉した。それで結局、彼自身の脚本と主演で映画化されることとなり、映画は大ヒット、興行収益も好調、おまけにアカデミー賞の作品賞まで受賞するという。まさにアメリカン・ドリームそのものの具現化であった。

 今、この映画を観てみると確かにベタで在り来たりのストーリーのような気がしないでもない。でも日本人には理解しがたいサクセス・ストーリーの典型的な映画として、映画を観た当時のアメリカ人は感動を覚えたのかもしれない。夢が実現する国、それがアメリカなんだと、かつてアメリカ人がベトナム戦争で失いかけた自信というものが、この映画によって再び成せばなる。アメリカ復興の狼煙を上げるきっかけになったような機運があったのも確かである。そういった意味では理屈っぽい映画ではなく、この『ロッキー』のような判り易い映画を時代は求めていたのかもしれない。なにしろ、それ以前の10年間は、『ロッキー』と相反するアメリカン・ニューシネマが幅を利かしていたのだから・・・・・。


 映画『ロッキー』トレイラー
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2010.01.16 (Sat)

映画『ポーラー・エクスプレス』を観る

『ポーラー・エクスプレス』2004年製作、アメリカ映画

 監督 ロバート・ゼメキス

 声の出演 トム・ハンクス
      ノーナ・ゲイ
      ピーター・スコラーリ
      エディ・ディーゼン
      マイケル・ジェッター
      チャールズ・フライシャー

 【あらすじ】クリスマス・イヴの夜、クリスマスもサンタの存在も信じないという少年がベッドに入って寝ようとする。時刻は深夜の11時55分。すると地響きをたてて銀世界の中を蒸気機関車が牽く列車が突然、少年の家の前に現れた。列車の名前は『ポーラー・エクスプレス』である。車掌が出てきて「君はサンタクロースもクリスマスも信じてないから乗るように」と促がす。でも少年はなかなか決心がつかない。唖然とする少年であったが、ポーラー・エクスプレスが動き出すと意を決したように飛び乗るのである。列車の中には大勢の子供達が乗っていた。こうして列車『ポーラー・エクスプレス』は北極点を目指す。

 全編CGを駆使したファンタジー・アニメ。『ジュマンジ』などでも知られるクリス・ヴァン・オールズバーグ原作の絵本『急行北極号』の映画化である。アニメを題材に私がブログに書くこと自体、驚かれるかもしれない。確かに私はアニメが大の苦手である。私の子供の頃からディズニーや東映動画等のアニメはあったが何時しかアニメなど観なくなった。所詮、子供向きと考えているからかもしらないが、やはりいい歳した男が必死になって観るものかなあとは思う。でもファンタジー作品なら、実写版で撮りにくいというところはあるだろうから、CGを使わざるを得ないのかもしれない。

 このアニメはトム・ハンクスが1人5役で声の出演をしていて話題になったのであり、また製作総指揮もトム・ハンクスが兼ねている。つまり、それほどまでしてトム・ハンクスが映画化したかった作品なのではないだろうか。主人公の少年はクリスマスもサンタクロースも信じてない。まあ、これは何処の子供でもいえることだが、幼い時はサンタクロースがクリスマスにプレゼントを持って、枕元に置いていくことを信じていても、ある年齢から懐疑的になってしまう。歳をとる、成長する、物事が判ってくる。こうなると現実と非現実が見えてきて、結局、夢から醒めてしまう。これこそ子供から大人へ成長していく過程で誰でも体験する目覚めのようなものかもしれないが、この映画はクリスマスもサンタクロースも信じない子は、もっと心を純にして信じればきっといいことがあると訴えかけている。所謂、子供向きの絵本から出てきた話なので、大人が観ると陳腐なストーリーの展開でしかないが、今時の擦れた子供達には観て欲しいと思えるような語り調で締めくくってある。でも大人が観ている部分には、そういった訴えかけよりも、見事なモーションキャプチャーや3Dアニメーションだけで引き込まれてしまう。このあたりは流石に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作や『フォレスト・ガンプ/一期一会』を撮ったロバート・ゼメキス監督だなあと思うが、実際に映像を観ていると判るが、車掌の顔がトム・ハンクスそっくりだし、登場人物がどれもこれも現実にいるのではないかとと思えるほどリアリズムに迫っている。だから登場人物の描き分けの出来てない日本のアニメのように途中で嫌になることはなかったのである。

 でも実のところ、このアニメ映画を観ようと思ったきっかけは、以前、ジャズの生バンドが『ロッキン・オン・トップ・オフ・ザ・ワールド』という曲を演奏しているのを聴いて、その曲のことが気になりだし、曲の出所を調べている間に、オリジナルは『ポーラー・エクスプレス』の中の挿入曲ということが判ったから観たまでである。


 『ポーラー・エクスプレス』トレイラー


 スティーヴン・タイラー&フレンズが歌う『Rockin' on top of the world』のシーン

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2009.12.10 (Thu)

映画『風と共に去りぬ』を観る

『風と共に去りぬ』1939年製作、アメリカ映画

 監督 ヴィクター・フレミング

 出演 ヴィヴィアン・リー
    クラーク・ゲイブル
    レスリー・ハワード
    オリヴィア・デ・ハビラント
    トーマス・ミッチェル
    バーバラ・オニール
    ハティ・マクダニエル

 【あらすじ】1860年代のアメリカ南部ジョージア州。南北戦争の最中である。アイルランド系移民から一代で成功した農園主の娘スカーレット・オハラは勝気で野生的な気性と個性的な顔の持ち主であるが、同じ上流階級の青年アシュレー・ウィルクスに恋していた。だがアシュレーはスカーレットを嫌ってアシュレーの従姉妹メラニーと婚約していた。あるパーティーで2人が婚約していることを知ったスカーレットは癇癪を起こしてアシュレーの家の壺を投げつけて壊してしまう。それを見ていたレット・バトラーは、そんなスカーレットに好意を抱いてしまう。スカーレットは友人たちの陰口を聞き、メラニーへのあてつけのためにメラニーの兄チャールズが自分に求婚するように仕向け、結局、スカーレットはチャールズと結婚してしまう。だがチャールズは戦場に赴き死亡。スカーレットは戦火にもかかわらず17歳で長男ウェードを出産して未亡人となる。スカーレットは息子を連れてアトランタで新生活を始める。南北戦争は南軍の惨敗に終わり、農場は略奪によって荒らされ、母は死に父はショックのため廃人同然であった。スカーレットは金のため仕方なくケネディと結婚し製材所を営む。だがケネディも死に、やがて闇ブローカーで小金をためたレッド・バトラーがとうとうスカーレットの前に現れる。

 この映画が作られたのは1939年(昭和14年)である。まさに第2次世界大戦が勃発した年であり、太平洋戦争の始まる2年前のことである。それでいて、これだけ大掛かりで、贅沢な映画を作ることが出来たアメリカという国の強大さに畏れ入るが、残念ながら『風と共に去りぬ』が日本で上映されたのは戦争が終わって7年後のことである。ということは戦時中の日本人は、この映画を観ることは出来なかったのである。それは敵国の映画であるという理由で、観ることは勿論のこと、上映することも禁じられていたからである。でも、もし戦時中に、この映画を観た日本人がいたとするならば(淀川長治は観たらしいが)、おそらく日本がアメリカと戦って勝てるなんて思わないだろう。

 そもそも女流作家マーガレット・ミッチェルが書いて1936年に出版され、翌年にピュリッツアー賞を受賞した長編小説の映画化である。小説は作者が急死した1949年までに原作380万部、21ヶ国に翻訳されたもの200万部という大ベストセラーとなり、すぐに映画化の話が進み、映画も世界的ヒットとなるのだが・・・・・・・。とにかく贅沢を極めた映画で、撮影を始める前から、また撮影が始まってからも順調にいったことがなく、スカーレット・オハラ役が決まってないのに撮影が始まっていたり、撮影中に監督が何度も変えられたりして、話題には事欠かない映画である。でも作者自身は、『風と共に去りぬ』書いている間から映画化されることを念頭においていたのかもしれず、レット・バトラーはクラーク・ゲイブルを意識して書いたという。計らずともその通りになってしまったが、主人公のスカーレット役が皆目、決まらなかったのでは撮影が進まなかっただろう。南北戦争前後のアトランタ、またその近郊の町タラを舞台にした、炎のような女スカーレット・オハラの半生を完璧なまでの配役と豪華なセットと衣装でスクリーン狭しとばかりに展開する映画である。それで、今まで語りつくされ続けた映画であるということは判っているが、何度観ても豪華絢爛でスケールの大きさを感じないわけにはいかない映画でもある。出演者選びから困難を極め、脚本家と監督が何度も差し替えられ、主人公が決まらずでいながら結局、艱難辛苦の末、映画が完成したというのは、製作者のデヴィッド・O・セルズニックの執念と熱意であると言われている。セルズニックは10数人にも及ぶ脚本家の陣頭指揮を取り、その頃、まだ実験中だったテクニカラーを導入するなど事実上の監督といわれたが、とにかく彼の執念なくしては、この超大作は完成しなかったであろう。

 とにかく何時完成するのか判らない中、セルズニックにとっては、それこそ映画のラストシーンでスカーレットが言う台詞ではないけども・・・・

After all, tomorrow is another day(明日には明日の風が吹くと訳された) 

 といった気持ちでいただろう。また、ヴィヴィアン・リーがローレンス・オリヴィエの後を追ってアメリカに来なかったら、スカーレットはいったい誰に決まっていたのだろうか、色々と話が尽きない映画である。結局、興行的にも大成功し、アカデミー賞9部門(作品、主演女優、助演女優、監督、脚色、撮影、室内装置、編集、タールバーグ記念賞)を受賞した『風と共に去りぬ』は、好き嫌いは別にしてハリウッド映画史に残る映画であることに間違いはない。


"タラのテーマ"の音楽にのって『風と共に去りぬ』のハイライト・シーンをどうぞ・・・・・

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