2008.07.13 (Sun)
七夕賞、プロキオンSの結果
このところ連日の暑さだ。まだ梅雨明け宣言も無いのに、毎日30度を超える暑さで、早くもバテ気味である。まだ7月の中旬にさしかかったところなのにこの暑さが続いている。どうも今年は近畿地方に関しては空梅雨のようで、こうなると長い長い夏になりそうな気配がする。そして、今日も例によってカンカン照りの猛暑。ああ、早く7月、8月が通り過ぎてくれないかな・・・・・。若い頃は、夏が比較的苦にならなかったが、年齢を重ねるごとに夏が嫌いになっていく。それに地球温暖化の影響で、年々、夏が耐えづらいほど暑くなっている様な気がする。いよいよ日本も亜熱帯地方に属する日も近いかも・・・・・・・・。それにクマゼミが喧しく鳴き出した・・・・・・。ああ、これから二ヶ月も耐え忍ばなければならないのか・・・・・・・・ゾッとする。
さて、猛暑の中、今日は福島で七夕賞、阪神でプロキオンSと重賞2レースが行なわれた。それでその結果を記すとする。
福島競馬場 七夕賞(GⅢ・3歳以上、芝2000m、15頭)
1着ミヤビランベリ 1分59秒8、2着ミストラルクルーズ 3/4、3着マイネルキッツ ハナ、4着キャプテンベガ 1馬身1/2、5着ヴィータローザ アタマ。
阪神競馬場 プロキオンS(GⅢ・3歳以上、ダート1400m、13頭)
1着ヴァンクルタテヤマ 1分22秒0、2着ワイルドワンダー 1馬身、3着サンライズバッカス 3/4、4着バンブーエール 1馬身、5着シルクビッグタイム クビ。
ところでこのほど、春の天皇賞馬アドマイヤジュピタが今秋の凱旋門賞挑戦を表明したと思ったら、今度はメイショウサムソンが凱旋門賞挑戦を正式に決定した。
昨年、メイショウサムソンは凱旋門賞に出走予定であったが、例の馬インフルエンザ騒ぎの渦中で残念せざるを得なかった。だから今年は日本から2頭も同時に出走すると聞いて、久々に面白い凱旋門賞になりそうな按配である。それに今年は、アメリカ最強馬のカーリンまでが凱旋門賞に挑戦するらしいので大いに興味が沸く。アメリカのクラシック・ホースが凱旋門賞に挑戦するとなると、おそらく1965年のトムロルフ(勝ち馬シーバードから17馬身差の6着)以来のことではないだろうか。アメリカの競馬はダートがメインなので、芝レース中心のヨーロッパには遠征しないものだが、カーリンは既に芝レースに臨み(2着)、準備万端である。でも日本の2頭は芝レースに慣れているので、アメリカのカーリンが幾ら強いといっても簡単に負ける訳にもいかないだろう。特にアドマイヤジュピタは9月に行なわれるフォワ賞(ロンシャン、GⅡ・2400m)をたたいて本番に備えるという。まあ、過度の期待は出来ないが、善戦を期待するとしよう。
さて、猛暑の中、今日は福島で七夕賞、阪神でプロキオンSと重賞2レースが行なわれた。それでその結果を記すとする。
福島競馬場 七夕賞(GⅢ・3歳以上、芝2000m、15頭)
1着ミヤビランベリ 1分59秒8、2着ミストラルクルーズ 3/4、3着マイネルキッツ ハナ、4着キャプテンベガ 1馬身1/2、5着ヴィータローザ アタマ。
阪神競馬場 プロキオンS(GⅢ・3歳以上、ダート1400m、13頭)
1着ヴァンクルタテヤマ 1分22秒0、2着ワイルドワンダー 1馬身、3着サンライズバッカス 3/4、4着バンブーエール 1馬身、5着シルクビッグタイム クビ。
ところでこのほど、春の天皇賞馬アドマイヤジュピタが今秋の凱旋門賞挑戦を表明したと思ったら、今度はメイショウサムソンが凱旋門賞挑戦を正式に決定した。
昨年、メイショウサムソンは凱旋門賞に出走予定であったが、例の馬インフルエンザ騒ぎの渦中で残念せざるを得なかった。だから今年は日本から2頭も同時に出走すると聞いて、久々に面白い凱旋門賞になりそうな按配である。それに今年は、アメリカ最強馬のカーリンまでが凱旋門賞に挑戦するらしいので大いに興味が沸く。アメリカのクラシック・ホースが凱旋門賞に挑戦するとなると、おそらく1965年のトムロルフ(勝ち馬シーバードから17馬身差の6着)以来のことではないだろうか。アメリカの競馬はダートがメインなので、芝レース中心のヨーロッパには遠征しないものだが、カーリンは既に芝レースに臨み(2着)、準備万端である。でも日本の2頭は芝レースに慣れているので、アメリカのカーリンが幾ら強いといっても簡単に負ける訳にもいかないだろう。特にアドマイヤジュピタは9月に行なわれるフォワ賞(ロンシャン、GⅡ・2400m)をたたいて本番に備えるという。まあ、過度の期待は出来ないが、善戦を期待するとしよう。
2008.07.13 (Sun)
エルトン・ジョンのアルバムを聴く『エルトン・ジョン』
エルトン・ジョン初来日コンサート・ツアーの時のチケット(1971年10月7日)
1997年9月、イギリスのダイアナ元皇太妃が自動車事故で急死し、追悼式があったが、その時テレビを観ていて驚いた。何故なら中年のあまり風采の冴えない小太りの男が追悼歌を歌っていたからである。誰だとよく見たらそれはエルトン・ジョンであったから二度びっくりである。かつてアルコール依存症、薬物依存症で低迷していたエルトン・ジョンだと知ると万感の思いがあった。
思えば私がエルトン・ジョンをよく聴いていたのは高校生の頃だった。当初はあまり好きではなかったが、その頃、社会人になったばかりの姉が何処で仕入れた情報か知らないけれど、エルトン・ジョンが良いから聴けといいと言い出した。確か1970年にエルトン・ジョンの『僕の歌は君の歌(Your Song)』という歌が流行っていた。ピアノのイントロで始まりたおやかな優しい声で
~It's a little bit funny, this felling inside I'm not one of those, who can casily hide~ と歌われるエルトン・ジョンの最初のビッグヒット曲である。
また間もなくして映画『フレンズ』が上映されていて、その主題曲をエルトン・ジョンが歌っていた。それでエルトン・ジョンはすっかり日本でも名が知れたミュージシャンになっていたと思う。 でも私はさほど好きではなかったが、エルトン・ジョンの2枚目のアルバムが出たというので姉は私に買え買えと催促する。それなら自分で買えばいいのにと思うけども、「今は金が無い」という。それなら高校生の私も金が無いのは同然である。でも姉が好きな音楽傾向は判っていたので、はずれは無いだろうと思い買ったアルバムがエルトン・ジョン自身2枚目の当アルバムである。
エルトン・ジョンは1969年に『エンプティ・スカイ』というアルバムでデビューしていたが、ほとんど話題にもならなかった。だが2枚目の『エルトン・ジョン』が発売されるや、収録曲の『Your Song』が大ヒットし、一躍、人気アーティストとなった。自ら作曲しバラード調の曲からアップテンポの曲まで全般的にメロディアスで、特にバーニー・トーピンの詩と彼の曲とのバランスがよく「現代の吟遊詩人」「コンテンポラリー・ポップスの異端児」というキャッチ・フレーズが巧く時代とマッチしていたと感じるのである。また、あの頃はハード・ロックが全盛の時代で、メロディアスなポップスがだんだんと影を潜め、ポップスが過渡期にあったと思う。既にビートルズは解散していて、テクノポップスの台頭もあり新しい時代に洋楽は入っていた。だから私の姉が、「もう聴ききたい音楽はなくなってきた」と盛んに言っていた覚えがある。
1971年秋だったが、そのエルトン・ジョンの初来日コンサートが東京と大阪で行なわれた。そして、早速、聴きに行くつもりでチケットを買おうと思い、夏にアルバイトで稼いだ金を工面していたら、姉が「お金を2人分出すから買って来て」と一万円を差し出した。何とも珍しいことがあるものだ。結局、私は姉とエルトン・ジョンのコンサートに行くことになった。
当時、エルトン・ジョンは24歳の若者であった。でもステージに出てきたエルトン・ジョンは小柄で小太り、眼鏡をかけていて、今で言うキモメンの風采であった。でもピアノの前に座りピアノを奏でだし、よく通った声で歌を歌いだすと、まったく違う男に変身する。エルトン・ジョンはステージの上では輝いていた。コンサートは静かに始まったが、終盤で信じられないことが起こった。アップテンポの曲が続き(今となっては何を歌っていたのかよく覚えていない)、突然、エルトン・ジョンがピアノを弾いていたかと思うと、椅子を蹴飛ばして立ち上がりTシャツを脱ぎ、短パンだけの姿になった。胸毛が生えていて、お世辞にも恰好いいとはいえないが躍動していた。終いにはピアノの上で踊りながら歌いだしたので、聴衆は乗りに乗っている。私は唖然としたが隣の姉は喜んでいた。でもエルトン・ジョンにはこのような一面があることをその時に垣間見て、その後のエルトン・ジョンが変遷していく姿を伝え聞いてもあまり驚かなかった。
最近はエルトン・ジョンどころか、私自身がポップスというか、ロックを聴かなくなったので、その後のことはよく知らない。だけどエルトン・ジョンがグラミー賞に輝いても、レコードの売り上げを記録しても、同姓愛者であることを公表して、同姓と結婚しても彼ならありうると感じた。つまりデビューした頃から、色んな要素を隠し持っていたエルトン・ジョンなのである。だから彼の多方面にわたる伝聞は、それもエルトン・ジョンであると再認識するしかないのである。
『Your Song』を歌う若き日のエルトン・ジョン。
ダイアナ元皇太妃の追悼式で『Candle in the Wind』を歌うエルトン・ジョン。
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