2013.09.08 (Sun)
東京オリンピックに物申す
2020年の東京オリンピック開催が決定した。でも小生は口が腐ってもおめでとうとはいわない。むしろオリンピックに嫌悪感さえ抱いた。小生はオリンピックが嫌いなのは当ブログで再三に渡って書いてきたから当然の意見ではあるが、それに引き換えマスメディアのあの騒ぎようは一体どうなっているのだ。万歳、万歳のオンパレードだ。日本はここまで民度の低い国家になり下がってしまったのか。安部首相なんかわざわざアルゼンチンまで招致へのプレゼンテーションへ行ってしまったではないか。アホか・・・。そもそもオリンピックは国が開催するものではなく都市が開催するものである。なのに一国の宰相がアピールしにいくとは何事だ。そんなもの都知事に任しておればいい。本当に最低の首相だな。これでオリンピック誘致に成功したから、消費税も上げやすくなっただろう。もしかして、そのための招致ではなかったのか。それにオリンピックを起爆剤に経済の活性化を目論んでいることはありありだ。最早、オリンピックに頼るしか方法がなかったというよりも、それが一番手っ取り早いのだろう。
そもそもこれは石原慎太郎がアドバルーンを上げたのが始まりだ。その本人は今は都知事ではない。それで2016年にも東京はオリンピック招致に名乗り出て失敗している。それでホッとしていたらまた懲りもせず、またオリンピック招致に立候補した。それで今回はマドリード、イスタンブールが相手なので、何れも問題を抱えている都市が相手だから開催都市に選ばれる可能性が高かったのは判る。しかし、日本国内で抱える山積した問題を後回しにしてまでオリンピックを開催する意味があるのかどうか。既に2016年の招致運動で150億円~200億円もの無駄な税金を浪費しているというのに今回の招致運動でさらに75億円もの無駄金を使おうとしている。それで招致に成功したからオリンピックの経済効果でそれに穴埋め出来ると思っているのか・・・。確かにインフラ整備やその他のことで経済が活性化するかもしれない。実際に東京都の開催実行委員は3兆円の経済効果が見込まれると試算しているらしい。
しかし、こんなの仮に経済が潤っても東京の周辺だけの話だろう。東京以外はどうなってもいいのか。石原慎太郎が都知事時代にオリンピック開催に乗り出した。理由は閉塞感の打破である。今の日本を活性化するには東京でオリンピックを開催することだというものだった。小生はアホかと思った。東京でオリンピックを開催したところで日本が活性化すると思っているのか。東京だけは物と金がどんどん集まって、確かに活性化して豊かになるが、地方との格差はそれ以上広がるばかり。結局は東京のためのオリンピックでしかない。それと過去に一度開催しているのに、また開催するという厚かましさ。これを厚顔無恥という・・・・・・。
そもそも政治、経済、文化の一局集中が地方の衰退の最大の要因だとされるのに、それを助長する今回の開催決定。それは何も地方だけの問題ではない。東京都だってオリンピック特需を見計らって再開発をするにあたり貧困層を締め出そうとしているのだ。2008年の北京オリンピックがそうであったように、臭いところには蓋をしよという試みが当然、行われるだろうし、富裕層と貧困層の二極化が今後、一層強まるのは確実だろう。今の日本には夢が必要だといって開催するらしいが、どなたのための夢なのだろうか。ただアスリートのための夢だろう。あとはこの巨大プロジェクトで潤う人、及び関係者だけの話である。ただ国威発揚のためなら止めてほしい。最早オリンピックなんて20世紀以前の遺物でしかないのだから。それでも開催するのだから困ったものだが、何も東京都民だっていいことばかりではないだろう。オリンピックによって警官や自衛隊が大量に動員される。ことにテロ対策には敏感だ。それにより東京はより街の管理が進む。そこら中、警備員が蔓延ることになることは目に見えている。今でも東京は電車に乗っても街に出ても、何処かしこも人が多過ぎて小生はもう行くのが嫌になっているのに、今後、行かないといけない事情が出来てもおそらく断るだろう。今後、さらにオリンピック開催に向けて集中度が増すことが明確になった。それに対処するために警備がさらに強化されるのだ。まだ7年後とはいえ、もう準備に入るだろうし、何処も大混雑で更に住みにくい街になるだろうな。本来から住む気はないが以前は出張とかで度々、行っていた。もう最近は行かなくなったし行く気もない。それでオリンピック開催決定で、余計に行く気が失せた。
ところで話は変わるが福島の原発問題はどうなったのだ。東日本大震災への復興支援はどうなったのだ。これらの震災難民という人たちが未だに故郷を追われてひっそりと仮住まいで暮らす状況が続いているという。それらを差し置いてオリンピック招致成功か。今後、負の方は忘却され、オリンピック一色になってしまうのかもしれない。困ったものだ。まあオリンピックは大嫌いであるが東京以外で開催するなら、ここまでは小生も物申さなかったのだが、開催が決まってしまった以上、何を言ってもしょうがない。しかし、これ以上、国の税金を無駄遣いしないでほしい。東京都のお金だけで開催してほしいと思う。こう言っても国がいらん大金を投入するだろうが・・・・。最も小生、最近は健康状態があまり良くないので、あと7年五体満足で生きていられるかどうか、そちらの方が気になるので東京オリンピックがどうのこうのと言ってる場合ではないが・・・・・。
そもそもこれは石原慎太郎がアドバルーンを上げたのが始まりだ。その本人は今は都知事ではない。それで2016年にも東京はオリンピック招致に名乗り出て失敗している。それでホッとしていたらまた懲りもせず、またオリンピック招致に立候補した。それで今回はマドリード、イスタンブールが相手なので、何れも問題を抱えている都市が相手だから開催都市に選ばれる可能性が高かったのは判る。しかし、日本国内で抱える山積した問題を後回しにしてまでオリンピックを開催する意味があるのかどうか。既に2016年の招致運動で150億円~200億円もの無駄な税金を浪費しているというのに今回の招致運動でさらに75億円もの無駄金を使おうとしている。それで招致に成功したからオリンピックの経済効果でそれに穴埋め出来ると思っているのか・・・。確かにインフラ整備やその他のことで経済が活性化するかもしれない。実際に東京都の開催実行委員は3兆円の経済効果が見込まれると試算しているらしい。
しかし、こんなの仮に経済が潤っても東京の周辺だけの話だろう。東京以外はどうなってもいいのか。石原慎太郎が都知事時代にオリンピック開催に乗り出した。理由は閉塞感の打破である。今の日本を活性化するには東京でオリンピックを開催することだというものだった。小生はアホかと思った。東京でオリンピックを開催したところで日本が活性化すると思っているのか。東京だけは物と金がどんどん集まって、確かに活性化して豊かになるが、地方との格差はそれ以上広がるばかり。結局は東京のためのオリンピックでしかない。それと過去に一度開催しているのに、また開催するという厚かましさ。これを厚顔無恥という・・・・・・。
そもそも政治、経済、文化の一局集中が地方の衰退の最大の要因だとされるのに、それを助長する今回の開催決定。それは何も地方だけの問題ではない。東京都だってオリンピック特需を見計らって再開発をするにあたり貧困層を締め出そうとしているのだ。2008年の北京オリンピックがそうであったように、臭いところには蓋をしよという試みが当然、行われるだろうし、富裕層と貧困層の二極化が今後、一層強まるのは確実だろう。今の日本には夢が必要だといって開催するらしいが、どなたのための夢なのだろうか。ただアスリートのための夢だろう。あとはこの巨大プロジェクトで潤う人、及び関係者だけの話である。ただ国威発揚のためなら止めてほしい。最早オリンピックなんて20世紀以前の遺物でしかないのだから。それでも開催するのだから困ったものだが、何も東京都民だっていいことばかりではないだろう。オリンピックによって警官や自衛隊が大量に動員される。ことにテロ対策には敏感だ。それにより東京はより街の管理が進む。そこら中、警備員が蔓延ることになることは目に見えている。今でも東京は電車に乗っても街に出ても、何処かしこも人が多過ぎて小生はもう行くのが嫌になっているのに、今後、行かないといけない事情が出来てもおそらく断るだろう。今後、さらにオリンピック開催に向けて集中度が増すことが明確になった。それに対処するために警備がさらに強化されるのだ。まだ7年後とはいえ、もう準備に入るだろうし、何処も大混雑で更に住みにくい街になるだろうな。本来から住む気はないが以前は出張とかで度々、行っていた。もう最近は行かなくなったし行く気もない。それでオリンピック開催決定で、余計に行く気が失せた。
ところで話は変わるが福島の原発問題はどうなったのだ。東日本大震災への復興支援はどうなったのだ。これらの震災難民という人たちが未だに故郷を追われてひっそりと仮住まいで暮らす状況が続いているという。それらを差し置いてオリンピック招致成功か。今後、負の方は忘却され、オリンピック一色になってしまうのかもしれない。困ったものだ。まあオリンピックは大嫌いであるが東京以外で開催するなら、ここまでは小生も物申さなかったのだが、開催が決まってしまった以上、何を言ってもしょうがない。しかし、これ以上、国の税金を無駄遣いしないでほしい。東京都のお金だけで開催してほしいと思う。こう言っても国がいらん大金を投入するだろうが・・・・。最も小生、最近は健康状態があまり良くないので、あと7年五体満足で生きていられるかどうか、そちらの方が気になるので東京オリンピックがどうのこうのと言ってる場合ではないが・・・・・。
2013.09.08 (Sun)
ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』を読む
この小説も入院している間にそれこそ40年数年ぶりに読んだのである。これも長い小説で岩波文庫で全4巻だったかな。子供のころは確か『噫無情』という題だったように思うが、最近は『レ・ミゼラブル』と原題で表記されることが多くなった。これも今時の流行りかな。でもフランス語でレ・ミゼラブルと言ったって何の意味か判らない。小生は昔のように『あゝ無情』のタイトルの方が判りやすいと思うのだが・・・・。
それにしても長い小説だ。あらすじを簡単に説明しようにも簡単に行かない。それでも簡単にあらすじを書くとするか。餓えのため泣く甥や姪のためにパンを盗んで19年もの長期間懲役を科せられたジャン・ヴァルジャンは、釈放されたのが1815年ワーテルローの戦いの年であり、既に46歳になっていた。だが惨めな姿をしたジャン・ヴァルジャンに街の人々は扉を閉ざす。そんなジャン・ヴァルジャンにミリエル司教は彼を人間としてもてなす。なのにジャン・ヴァルジャンは徒刑の間に悪を身に染み込ませてしまったのか、司教大事にしていた銀の食器を盗んでしまう。翌朝、憲兵に捕えられたジャン・ヴァルジャンを司教は許し贈り物として与え、ついでに銀の蝋台も与える。これをきっかけに立ち直り善と徳の道へと向かうようになる。
]
ジャンはマドレーヌと名を変え北部フランスのに住みつき、町の発展につくし人望を集め市長となる。しかし、前科者は社会復帰を認められていない。往年のジャンを知っている冷酷無情な警部ジャベールは彼を快く思っていない。折から誤ってジャン・ヴァルジャンとして捕えられた男があり、ジャンは一夜の苦悩の末、自らの正体を告白し男を救う。結果としてジャベールに前科者として逮捕され、終身刑の判決を受け脱獄する。
ジャンは市長時代に薄幸の女フォンテーヌにその死の床でした約束を守って、人非人のテナルディエ夫婦のもとで惨めな幼年時代を送っていた娘コゼットを救い出す。パリにコゼットと共に居を構えたジャンは、ようやく愛するべき子を得て心的にも人間として成長する。ところがジャベールの追及はここにも及び、2人はとある僧院に身を潜め、ここでコゼットは美しい娘に成長する。やがて僧院を出て街中でひっそり暮らす2人が散歩の道で出会う青年マリウスと、コゼットはひそかに恋心を抱き合うようになり、ジャンはそれに嫉妬する。
折しも1832年6月、共和党の反乱が起こり、マリウスもそれに加わる。ジャンもそれを知ってバリケードをに赴き、スパイとして捕えられていたジャベールを逃がし、傷ついたマリウスをコゼットを奪う者として半ば憎みながらも、地下水道を通って救い出す。その出口で再度まみえたジャベールは2人を送り届けるとセーヌに身を投げる。傷いえたマリウスとコゼットは結婚し、取り残されたジャンは衰弱していくが、ジャンの正義と慈愛の心を知ったマリウスはコゼットトと共にジャンを訪れ、2人の愛に包まれてジャンは息を引き取る。その枕もとにはかつてミリエル司教から与えられた銀の燭台が灯されていた。
以上、簡単なあらすじだが、これだけ長い話を簡単にあらすじにするのは難しい。もっと色々と込み入った話が含まれているが、それらを事細かに書いていては字数が幾らあっても足りないので、簡単に纏めてみたのだがそれでも小説の大雑把な筋書きしか判らないだろう。
ヴィクトル・ユゴーは1845年~1862年までかけて書いたというから、内容が濃くて長い。その主題となるものは惨めな人を作る出している者への憤りから生みだされたものとされ、タイトルのLes Miserables(惨めな人々)という題の通りの小説である。社会への悪を告発し人間性の善の成長を讃え、さらに時代の風俗の全体像を描き出すことに勢力を注いでいる。・・・・・法律と習俗とがるために、社会的処罰がうまれ、それによって文明のただ中に人工的に地獄が生みだされ、神のつくりたもうべき宿命が人間のつくる運命によってもつれさせられて・・・・・とヴィクトル・ユゴーは言っている。こうしてユゴーは悪に立ち向かう良心の芽生えと成長をする人間としてジャン・ヴァルジャンを登場させたのである。しかし、ヴィクトル・ユゴーがこの小説を書かないまでも、善と悪というのは何時の時代でも存在する。しかし、善と悪は紙一重のところがあり、現在社会のように、より複雑な世の中になると簡単にはいかないのが現実である。善の行為だからと行っていても実はそれが間違っていた行為だということは大いにありうるし、善だ悪だと白黒はっきり分別できない場合も多々ある。それだけにヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の小説は長すぎるにしては判りやすい小説ということはできるだろう。何が善で何が悪だと読んでいても明確なのである。したがって小学生用に短く書き直された『レ・ミゼラブル』もあれば、コゼットに焦点を当てた少年少女向け小説やコミックもあるぐらいだ。謂わば思慮分別の判断がまだ出来ない小学生に読んでもらいたいのか、その類いの『レ・ミゼラブル』版が過去に幾度となく出版されている。でも小生は全容を知るには、映画や少年少女向けではなく完全版で読むべきだと思う。でも長いからあまり読んでいる人はいないだろう。それに話が今となっては時代錯誤も甚だしいというのもある。でもユゴーという人の人間性がよく表れている。今の日本にこの様な善悪の判りやすい小説が誕生するかと言ったらあり得ないだろう。
それにしても長い小説だ。あらすじを簡単に説明しようにも簡単に行かない。それでも簡単にあらすじを書くとするか。餓えのため泣く甥や姪のためにパンを盗んで19年もの長期間懲役を科せられたジャン・ヴァルジャンは、釈放されたのが1815年ワーテルローの戦いの年であり、既に46歳になっていた。だが惨めな姿をしたジャン・ヴァルジャンに街の人々は扉を閉ざす。そんなジャン・ヴァルジャンにミリエル司教は彼を人間としてもてなす。なのにジャン・ヴァルジャンは徒刑の間に悪を身に染み込ませてしまったのか、司教大事にしていた銀の食器を盗んでしまう。翌朝、憲兵に捕えられたジャン・ヴァルジャンを司教は許し贈り物として与え、ついでに銀の蝋台も与える。これをきっかけに立ち直り善と徳の道へと向かうようになる。
]
ジャンはマドレーヌと名を変え北部フランスのに住みつき、町の発展につくし人望を集め市長となる。しかし、前科者は社会復帰を認められていない。往年のジャンを知っている冷酷無情な警部ジャベールは彼を快く思っていない。折から誤ってジャン・ヴァルジャンとして捕えられた男があり、ジャンは一夜の苦悩の末、自らの正体を告白し男を救う。結果としてジャベールに前科者として逮捕され、終身刑の判決を受け脱獄する。
ジャンは市長時代に薄幸の女フォンテーヌにその死の床でした約束を守って、人非人のテナルディエ夫婦のもとで惨めな幼年時代を送っていた娘コゼットを救い出す。パリにコゼットと共に居を構えたジャンは、ようやく愛するべき子を得て心的にも人間として成長する。ところがジャベールの追及はここにも及び、2人はとある僧院に身を潜め、ここでコゼットは美しい娘に成長する。やがて僧院を出て街中でひっそり暮らす2人が散歩の道で出会う青年マリウスと、コゼットはひそかに恋心を抱き合うようになり、ジャンはそれに嫉妬する。
折しも1832年6月、共和党の反乱が起こり、マリウスもそれに加わる。ジャンもそれを知ってバリケードをに赴き、スパイとして捕えられていたジャベールを逃がし、傷ついたマリウスをコゼットを奪う者として半ば憎みながらも、地下水道を通って救い出す。その出口で再度まみえたジャベールは2人を送り届けるとセーヌに身を投げる。傷いえたマリウスとコゼットは結婚し、取り残されたジャンは衰弱していくが、ジャンの正義と慈愛の心を知ったマリウスはコゼットトと共にジャンを訪れ、2人の愛に包まれてジャンは息を引き取る。その枕もとにはかつてミリエル司教から与えられた銀の燭台が灯されていた。
以上、簡単なあらすじだが、これだけ長い話を簡単にあらすじにするのは難しい。もっと色々と込み入った話が含まれているが、それらを事細かに書いていては字数が幾らあっても足りないので、簡単に纏めてみたのだがそれでも小説の大雑把な筋書きしか判らないだろう。
ヴィクトル・ユゴーは1845年~1862年までかけて書いたというから、内容が濃くて長い。その主題となるものは惨めな人を作る出している者への憤りから生みだされたものとされ、タイトルのLes Miserables(惨めな人々)という題の通りの小説である。社会への悪を告発し人間性の善の成長を讃え、さらに時代の風俗の全体像を描き出すことに勢力を注いでいる。・・・・・法律と習俗とがるために、社会的処罰がうまれ、それによって文明のただ中に人工的に地獄が生みだされ、神のつくりたもうべき宿命が人間のつくる運命によってもつれさせられて・・・・・とヴィクトル・ユゴーは言っている。こうしてユゴーは悪に立ち向かう良心の芽生えと成長をする人間としてジャン・ヴァルジャンを登場させたのである。しかし、ヴィクトル・ユゴーがこの小説を書かないまでも、善と悪というのは何時の時代でも存在する。しかし、善と悪は紙一重のところがあり、現在社会のように、より複雑な世の中になると簡単にはいかないのが現実である。善の行為だからと行っていても実はそれが間違っていた行為だということは大いにありうるし、善だ悪だと白黒はっきり分別できない場合も多々ある。それだけにヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の小説は長すぎるにしては判りやすい小説ということはできるだろう。何が善で何が悪だと読んでいても明確なのである。したがって小学生用に短く書き直された『レ・ミゼラブル』もあれば、コゼットに焦点を当てた少年少女向け小説やコミックもあるぐらいだ。謂わば思慮分別の判断がまだ出来ない小学生に読んでもらいたいのか、その類いの『レ・ミゼラブル』版が過去に幾度となく出版されている。でも小生は全容を知るには、映画や少年少女向けではなく完全版で読むべきだと思う。でも長いからあまり読んでいる人はいないだろう。それに話が今となっては時代錯誤も甚だしいというのもある。でもユゴーという人の人間性がよく表れている。今の日本にこの様な善悪の判りやすい小説が誕生するかと言ったらあり得ないだろう。
| BLOGTOP |