2009.01.08 (Thu)
堀辰雄の『風立ちぬ』を読む
堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読んだのは学生時代だったと思う。文庫本で100ページほどの中篇だが、これといった筋書きがなく、読んでいて退屈な小説だと当初は思ったものだ。
これと言って筋書きはないが、簡単に粗筋を言うと・・・・・秋を思わせる涼風が立ち始めていた夏の高原。私(語り人)は節子という少女と知り合い、愛し合う。ヴァレリーの「風立ちぬ いざ生きめやも」という詩句をつぶやきながら、それが私の心だと思ったのであり、2年後の春、私は節子と婚約した。彼女はすでに肺結核で病床にあったが、「私、なんだか急に生きたくなったのね・・・あなたのおかげで・・・」とつぶやく。しかし、看病の甲斐もなく彼女は死んでしまう。つまり肺を病んでいる婚約者の看病するため八ヶ岳山麓のサナトリウムにやって来た私と節子との心理描写を、詩的に表現した美しい小説といえばいいだろうか・・・・そもそもは堀辰雄自身の体験が題材となっているようだ。
堀辰雄は軽井沢で知り合った矢野綾子と1934年に婚約する。だが、その翌年に綾子の肺結核が進行し、また同様の病で臥せがちだった堀辰雄は決心し、綾子と共に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入る。でも堀は回復するが、綾子の方の病状は回復する気配もなく、その年の暮れ彼女は亡くなってしまう。・・・・・結局、この時の体験から、書かれた小説が『風立ちぬ』である。
つまり純愛小説といえるかもしれないが、今風の安っぽい恋愛小説でもない。婚約者節子の肺結核が進行するにつれ、彼女の死を現実として意識した時、私という主人公は節子の死を認めることができず、直接には描かれていない。終章『死のかげの谷』で、一人きりになった私が、死者を悼む寂しい山小屋暮らしをするが、そこで、だんだんに現実をとり戻すところで物語はしめくくられるのである。
人によってはこの作品全体に及ぼす死のモティーフと混ざり合って顔を出す美しい愛が、調和の良い二重唱のようで、それがいつしか不可欠の不協和音のように聞こえてくると表現する。小説の中で死に向う節子の言葉が印象的であった。
「あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰しゃったことがあるでしょう。・・・・・・私、あのときね、それを思い出したの。何だかあのときの美しさがそんな風に思われて」
淡々と話が進む中で、何処か切なく虚しく思え、それでいて生きることの美しさが全編を通して語られていて、作者である堀辰雄自身も死と隣りあわせであったと言うから、死の渕にいて見えてくる感情というものを綿々と語りつくしていたのかもしれないが、小生にとってこのような美しい小説は、いささか食いつきにくいと言うのが正直な感想である。
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