2ntブログ
2009年01月 / 12月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫02月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2009.01.10 (Sat)

女子高生の会話を聞いて

 土曜日で休日だった今日の午後、電車に乗っていると、とある駅から女子高生4人が乗り込んできて扉の前に立ち止まった。土曜日に学校があるということはおそらく私立の高校生なのだろう。ちょうど私は扉の横のシートに座っていたので彼女達の会話は聞くつもりもなかったが、否応でも聞こえてくる。話しの内容というのは他愛ない芸能ネタから始まったのだが、それが段々と高校生活の話題に移り、やがては学校の悪口、教師への不満となり愚痴、罵り、雑言の雨、霰である。ものの10、15分程度の間であったが、よくも学校に対してあれだけ不平、不満がいえるものだと思った。みんな自分達が通っている学校に誇りがもてないのかなあ・・・・。淋しいものである。

 まあ、その内容というのは取り立て過激なものでもなく敢えて取り上げるほどのものでもないが、一部だけ抜粋するとしよう。
「なあ、なんでウチは土曜日も学校あるんやろ、公立の子なんか休んでんのになー」
「ほんまや、ほんまや、それにバリ校則厳しいし、自由もないし」
「髪も染められへんし、ピアスもできひん、化粧したら怒られるしメッチャむかつくわ」
「そうやそうや、ほんま最初から判ってたら、こんな糞学校なんか来いひんかったで」
「ほんまサギ学校やなー、ほんで勉強ばっかりさせといて、宿題も多すぎやで、こんなんやから一つも遊ぶ時間あらへんやん」
「先コーはウザいし、まじキモいし、家帰ったらおかんも勉強しろ、勉強しろてうっといねん。もう、何もかも面白ないわ」
「ほんまやほんまや、高校の選択ミスったわー。こんなイモ学校、潰れたらええねん」
「こんな学校なんか、いつでも辞めたるわ。芋糞学校、ウンコや!」

 このように散々、4人とも学校の悪口を言いたい放題で、こきおろすだけこきおろしていた。でも聞いていて、私は思わず高校生らしいと笑ってしまった。ところで、この女子高生達は、けして乱れた着こなしをしているのでもなく、蓮っ葉な様子もなく、いたって真面目そうな女の子等である。だからそんな女の子等が、ここまで不満をぶちまけるのかと思うと笑えてくる。それに誰でも一度は通る道だと考えれば、彼女達の言い分も十分理解出来るのだ。

 要約すると彼女達の不満の内容なんて実に可愛いらしいものである。まだまだ成長途上の大人になりきってない高校生、15、16、17歳といった感受性の強い多感な時期には誰もが感じる悩み、不満といったものが噴出し、それらが毎日、毎日、堪るに堪ると、上記のような本音が出てしまうということなのだろう。つまり勉強ばかり押し付けられ、校則で縛られ、自由がなく、毎日の鬱憤がこんな会話となって現れるのだろう。でも、学校においては先生の前で良い子で通し、家でも聞き分けの良い子かもしれない。それが同じ年齢の友達同士だと、ついつい日頃、鬱積している不満が愚痴として口から出てしまう。親も先生も判ってくれない。学校なんか面白くない。勉強なんか嫌いと、あの年齢の子が言いがちな当然の意見を聞いて、私は、今も昔も高校生の言う不満というのは、大して変化がないなあと思わず笑ってしまった次第なのである。

 今の大人、私も含めてほとんどの人が経験してきた、踏んできた成長の過程で、どの時代の人もどこの地域の人も10代のあの頃において考えることはほとんど同じである。それは「大人は判ってくれない」ということ・・・・・・。まだ精神的にも情緒的にも不安定で、社会生活での経験値が大人とは格段に少ない高校生が、純粋な心が薄らいできた大人に対していらだつのも当然の姿だと思う。一方、大人が何故に高校生に対して、規則で縛り、勉強を押し付けようとするのかは、大人が過去に経験してきた過程で、よりベターな方法をやらせようとするからである。結局、大人と少年、少女達との間で、互いに判らない埋まらない年齢のギャップというものがあり、教育する側と教育を受ける側との溝が深く入り込んでいるから、この問題を解決するのは簡単なものではない。

 だから何で高校生が私達に勉強ばかりを押し付けるの・・・・・・何で未成年だと自由が大人のようにないの・・・・・・と疑問に思うかもしれない。でもこれは、正直いって大人になってみてようやく理解できることであり、高校生の頃に、親や教師が口を酸っぱくなるほど繰り返し言ってたことが、成長し大人になってみて、ああ、なるほどと解るときがいずれ訪れるのである。ただし思慮分別が少年時代からありすぎて、親の言うことに反発もしないで、やたら出来の良い子もいることはいるが、10代の頃はある程度、親や教師の押し付けに対して、少々の不満や反発はあった方が大人になってからも子供に対して説得力のある意見を述べることが出来ると思う。それは自分が辿って来た、溜め込んできた不満や道程というものと同等な悩みが理解できるからである。

 だから社会人としての生きた経験で物事を判断しているから、高校生に対して特別、無理な注文を強いているわけではないのだが・・・・・・。現実として出来の悪い親や教師もいて、理不尽な現実も時にはあるだろうと思う。だが大人というのは、高校生よりも社会というものに対して長けているのである。それだけ世間に揉まれ苦労しているということである。だから社会人として認められているのであって自由もある訳である。だが大人というのは自由もあるが、それと引き換えに自己責任というものが付いてくる。つまり法律に違反しなければ何をやってもいい。でも責任は自分でとらなくてはいけないし、場合によっては子供のやらかしたことの責任までとる必要もあるということだ。ということは自由というのは、案外、しんどいものなのである。そのことを高校生は判ってないと思う。

 それに親というのが何故、子供に対してガミガミいうかというと、親は自己の子供に対して保護義務、養育義務、そして自立させる義務がある。だから責任上、自分の子供が大人として、社会人として自立するまでは責任があり、義務をはたさなくてはならないから管理するわけだ。

 ここまで書くと、そんなことは判っているけど・・・・・と言われるかもしれない。でも学校が煩い校則で縛り付けるのは納得できないと思っているだろう。うん、確かに意味のない校則もある。しかし、私の高校時代と比較すると、遥かに恵まれていると思うけど・・・・。

 昭和40年代の高校というとほとんどが詰め襟の学生服という時代であった。ところが京都というところは、街は古いのに先進的なところがあって、あの頃の京都市内にあった大半の公立高校は私服で通ってもいいことになっていた。また中学校の男生徒は、大阪や神戸で丸刈りが当たり前という時代に、全て髪を伸ばしていた。そういった意味で、大阪あたりの高校生から羨ましがられていた。
EDIT  |  18:33  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑
 | BLOGTOP |