2007.12.08 (Sat)
12月8日になると考える
今日、12月8日は太平洋戦争の始まった日である。戦後生まれの私は当然のように戦争の体験も無いが、亡くなった親父や、今も健在の母から戦時中の話を嫌というほど聞かされた。・・・・・満州に行って焼夷弾の欠片が脚にささり、病院送りになった私の親父。鹿児島で何度も空襲に遭い、その度に逃げまくっていた母。食べ物が無くなり何でも配給。行列をつくって食料を得た話・・・・。あまり良い話はなく、2人とも戦争の話になると愚痴ばかりになった。でも最近、思うのはそのような話を出来る人がだんだんと減ってきて、戦争が行われたという現実が風化してきたのではないだろうか。戦争の記憶がある人は70歳以上という高齢で、戦地に行った人というのは80歳半ば以上の年齢に差し掛かっているだろう。つまり現在の日本は、戦争を知らない世代ばかりの中で、自衛隊問題や憲法第九条問題を語っているのだなあと言うことである。戦争の悲惨さを聞き伝えて知ってはいても、現実にどのような状況に陥るのか、誰も判ってない。
よく平和ボケの国民と言われるが、平和がどれだけ有り難いのかということも判ってないのではないかと問いたくなる時がある。有事の問題で判った風な顔をして、憲法第九条改憲を語る連中もいるが、所詮は机上論で物を言ってるように思えて仕方が無い。・・・・ところで何を筆者は言いたいのかと思われるだろう。要は自衛権の問題や、憲法第九条改憲を簡単に口にするなということだ。もっと徹底的に意見を戦わして、国民が本当に必要としているのかもっと問うべきである。
・・・・・とは言うものの、こんなことを書くつもりではないのだ。今日は京都空襲の話である。太平洋戦争末期、日本の都市という都市は片っ端から爆撃された。中でも広島と長崎に落とされた原子爆弾の悲惨さは言葉に言い表わされないだろう。そこで、京都の空襲の話をするのであるが、日本の多くの人は、京都は空襲に遭ってないじゃないかと思われるだろう。実は大きな間違いであって、京都も空襲に遭っているのだ。
昭和20年(1945年)1月16日、京都では愛宕山を震源とする震度3の地震があった。それから数時間後のことである。爆音が響いた。B-29の爆音である。やがて爆弾が投下された。場所は京都市東山区馬町である。この爆撃により死者が41人、重軽傷者56人も出たのである。さらにこれで爆撃は終わらない。3月19日、右京区西院春日を空襲。4月16日、右京区太秦を空襲。5月11日、上京区御所を空襲。主なものだけを列記したが、空襲で最大のものは西陣空襲であった。
昭和20年6月26日、西陣に空襲があった。この空襲は7発の爆弾が投下され、50名が亡くなり、重軽傷者66人、被災者は880人に及んだ。場所は漠然と西陣と言っても判りにくいと思う。正確に言うと上京区上長者町通智恵光院に最初の爆弾が落ち、その後、南の方角に6発落ちたということである。判りやすく言うと二条城の北5、600mの周辺、上長者町通から出水通にかけて智恵光通に沿って落とされたらしい。結局、京都では20回以上の空襲で302名の人が亡くなり重軽傷者は850人といわれているのである。でも、これは報道管制が布かれて日本国民は知らないまま現在に至っている。また、これも知る人ぞ知るで、京都とは原子爆弾投下の第一候補都市だったという現実がある。
よく京都は文化遺産が多いから、アメリカは考慮して爆弾を落とさなかったんだという人がいるが、とんでもない話である。1945年5月10日~11日、アメリカは原子爆弾投下予定の目標都市を選定したのである。それによると人口が多いことと、爆弾の被害にあまり遭ってないこと、産業が集積していること等を理由に幾つかの原子爆弾投下予定都市を選別した。
それによると①京都、②広島、③横浜、④小倉だったのである。この時点では長崎は入ってないのだ。8月9日は小倉に落とす予定だったという。しかし、小倉の上空が曇っていて、視界が悪かったという理由で長崎に切り替えられたという(真実のほどは・・・・)。
京都を落とす理由として、人口は戦前で既に100万を超えていて、東京、大阪と並ぶ日本の三大都市だった。かつて日本の首府が長い間置かれていたこともあって、日本の知的財産の中心地であり、日本人の心理的観点から、新型爆弾を落とすことによって、その意義を日本人に認識させるのに都合が良かったということである。でも、その後に京都を良く知るグレー大使やスティムソン陸軍長官が、トルーマン大統領に進言して、京都は原爆投下の目標から外されたのである。だが、京都の代わりに新潟が候補都市に入れられたのである。結局、最終的に原子爆弾投下予定都市は7月に決定し、広島、小倉、長崎の順序に決まったのである。
もし京都に原爆が投下されていたとしたら、いったいどうなっていたのか・・・・被害は当時の都市の規模から言って広島、長崎の比ではなかっただろう。それに木造建築物が多いこともあって延焼率は多大で、死者は50万人に達していたかもしれないのだ・・・・。
現在、日本は戦争の悲惨さも知らず60年以上を経過した。確かに平和ボケになったかもしれない。でも戦争を行う愚かさよりも平和ボケの方が、まだ救われる。また今後も2度と過ちを犯してはならないと肝に銘じて、日本国民は戦争の記憶と共に風化だけは避けて欲しいと思うのだ。
よく平和ボケの国民と言われるが、平和がどれだけ有り難いのかということも判ってないのではないかと問いたくなる時がある。有事の問題で判った風な顔をして、憲法第九条改憲を語る連中もいるが、所詮は机上論で物を言ってるように思えて仕方が無い。・・・・ところで何を筆者は言いたいのかと思われるだろう。要は自衛権の問題や、憲法第九条改憲を簡単に口にするなということだ。もっと徹底的に意見を戦わして、国民が本当に必要としているのかもっと問うべきである。
・・・・・とは言うものの、こんなことを書くつもりではないのだ。今日は京都空襲の話である。太平洋戦争末期、日本の都市という都市は片っ端から爆撃された。中でも広島と長崎に落とされた原子爆弾の悲惨さは言葉に言い表わされないだろう。そこで、京都の空襲の話をするのであるが、日本の多くの人は、京都は空襲に遭ってないじゃないかと思われるだろう。実は大きな間違いであって、京都も空襲に遭っているのだ。
昭和20年(1945年)1月16日、京都では愛宕山を震源とする震度3の地震があった。それから数時間後のことである。爆音が響いた。B-29の爆音である。やがて爆弾が投下された。場所は京都市東山区馬町である。この爆撃により死者が41人、重軽傷者56人も出たのである。さらにこれで爆撃は終わらない。3月19日、右京区西院春日を空襲。4月16日、右京区太秦を空襲。5月11日、上京区御所を空襲。主なものだけを列記したが、空襲で最大のものは西陣空襲であった。
昭和20年6月26日、西陣に空襲があった。この空襲は7発の爆弾が投下され、50名が亡くなり、重軽傷者66人、被災者は880人に及んだ。場所は漠然と西陣と言っても判りにくいと思う。正確に言うと上京区上長者町通智恵光院に最初の爆弾が落ち、その後、南の方角に6発落ちたということである。判りやすく言うと二条城の北5、600mの周辺、上長者町通から出水通にかけて智恵光通に沿って落とされたらしい。結局、京都では20回以上の空襲で302名の人が亡くなり重軽傷者は850人といわれているのである。でも、これは報道管制が布かれて日本国民は知らないまま現在に至っている。また、これも知る人ぞ知るで、京都とは原子爆弾投下の第一候補都市だったという現実がある。
よく京都は文化遺産が多いから、アメリカは考慮して爆弾を落とさなかったんだという人がいるが、とんでもない話である。1945年5月10日~11日、アメリカは原子爆弾投下予定の目標都市を選定したのである。それによると人口が多いことと、爆弾の被害にあまり遭ってないこと、産業が集積していること等を理由に幾つかの原子爆弾投下予定都市を選別した。
それによると①京都、②広島、③横浜、④小倉だったのである。この時点では長崎は入ってないのだ。8月9日は小倉に落とす予定だったという。しかし、小倉の上空が曇っていて、視界が悪かったという理由で長崎に切り替えられたという(真実のほどは・・・・)。
京都を落とす理由として、人口は戦前で既に100万を超えていて、東京、大阪と並ぶ日本の三大都市だった。かつて日本の首府が長い間置かれていたこともあって、日本の知的財産の中心地であり、日本人の心理的観点から、新型爆弾を落とすことによって、その意義を日本人に認識させるのに都合が良かったということである。でも、その後に京都を良く知るグレー大使やスティムソン陸軍長官が、トルーマン大統領に進言して、京都は原爆投下の目標から外されたのである。だが、京都の代わりに新潟が候補都市に入れられたのである。結局、最終的に原子爆弾投下予定都市は7月に決定し、広島、小倉、長崎の順序に決まったのである。
もし京都に原爆が投下されていたとしたら、いったいどうなっていたのか・・・・被害は当時の都市の規模から言って広島、長崎の比ではなかっただろう。それに木造建築物が多いこともあって延焼率は多大で、死者は50万人に達していたかもしれないのだ・・・・。
現在、日本は戦争の悲惨さも知らず60年以上を経過した。確かに平和ボケになったかもしれない。でも戦争を行う愚かさよりも平和ボケの方が、まだ救われる。また今後も2度と過ちを犯してはならないと肝に銘じて、日本国民は戦争の記憶と共に風化だけは避けて欲しいと思うのだ。
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