2008.03.05 (Wed)
テンポイントの死から30年
1978年3月5日の日曜日、早朝。テンポイントという1頭のサラブレッドが亡くなった。まだ6歳(旧馬齢表記)だった。死因は蹄葉炎を発祥したことによる衰弱死であった。
こうして書いてみると、はるか昔に1頭の馬が死んだことがあるというぐらいで記事にするなと文句を言われそうであるが、この馬の場合は単なるサラブレッドの死という悲哀の話だけでは片付けられない数奇な運命が過去にあったから、ここで改めて記事にしたまでである。だから、この話を知らない人は、騙されたと思って読んでもらいたいと思うのである。
テンポイントは1973年4月19日、北海道は早来町の吉田牧場で産まれた栗毛の牡馬である。父は英国ダービー馬ネヴァーセイダイを父に持つコントライト、母は桜花賞馬ワカクモである。つまり母系の血からも期待されて産まれてきた競争馬なのである。でも何故、そんなに期待されていたかというと、母ワカクモが幽霊の子といわれていたからである。ワカクモを幽霊の子と言ったのは、故・寺山修司であるが、このように書くと話が複雑そうに思うであろう・・・・・それでは話を昭和27年まで遡って進めるとしよう。
1948年(昭和23年)に産まれたクモワカという牝馬がいた。この馬はセフトを父に、月丘を母にして産まれ、競走馬としては京都競馬場の杉村政春厩舎に預けられた。なかなかの素質馬であり、1951年(昭和26年)の桜花賞で2着となり、その年の秋、牝馬ながら菊花賞に出走し4着と健闘した。だからここまでは順風満帆だったのである。それが、翌年の1952年(昭和27年)、古馬となったクモワカに試練となる運命が待ち受けていた。
この年の冬、京都に致命的な馬の伝染病である伝貧(伝染性貧血症)が蔓延した。そこでクモワカも診断を受け、運悪く伝貧と診断されてしまったのである。これにより即刻、クモワカを殺処分せよという上からの命令が下ったのである。でも関係者は、こんなに元気なクモワカが伝貧の筈がないと診断結果撤回、及び再検査を求めたが、、彼等の主張が通るものでもなく、当時の慣習の例に倣い「疑わしきは罰せよ」とばかり早く処分するべしと厳しい要求を突きつけられたのである。けどもクモワカの関係者は絶対に認めたくもなかった。それでクモワカの殺処分を請け負った男がいて、彼はクモワカを連れ出して殺処分するために京都競馬場から忽然と姿を消したのである。これでクモワカは死んだだろうと当然みんな考えていた。何故なら死亡届が出ていたからである。だが、この死亡届は偽の死亡届で、肝心のクモワカは飛び出した男と連れ立って北海道へ旅立ったのである。それで行き着いた先は早来町の吉田牧場であった。
吉田牧場に辿り着いたクモワカは、一応に種付けされ、子供を産み続けた。ところが、殺処分命令により死亡したことになっている馬の子供を登録することは法律上不可能だった。それならとばかり、クモワカの関係者は子供が産めるというのは、伝貧に感染していない証拠とばかり裁判を起こす。裁判は通り、こうして北海道当局による再検査の結果、クモワカとその子供達は非感染であるとようやく認知されたのである。
伝貧ではなかったクモワカには、既に数頭の子供がいたが、当り前のように競走馬に成りえなかった。そして、クモワカの子で最初に競争馬として登録されたのがカバーラップⅡ世との間に産まれた牝駒である。1963年(昭和38年)に産まれた鹿毛の牝駒は、クモワカの無念を晴らすべき母の名前をひっくり返してワカクモと名付けられた。やがて、ワカクモは2歳になり母クモワカと同じ京都の杉村政春厩舎に預けられ、競争馬として調教されたのである。
ワカクモがデビューしたのは1965年(昭和40年)の秋だった。死んだ筈のクモワカの子が競走馬として出てきたのである。でも寺山修司が幽霊の子と呼んだワカクモは強かった。母の無念を晴らすべく運命を知っていたかのように、母の勝てなかった桜花賞に勝った。これだけでも快挙であろう。結局、ワカクモは1969年まで現役を続行し、通算53戦11勝とまずまずの成績で引退した。でも幽霊の子は現実として登場し、新たなる一族の話はここで終わらない。
ワカクモが引退し故郷の吉田牧場に帰ってから、最初に産まれた牝駒はオキワカと名付けられた。このオキワカはクモワカの孫になる。オキワカは1972年産まれで、父がリマンドであった。通算で45戦6勝し、繁殖に上がってからはダービー2着のワカテンザンや東海公営で大活躍したワカオライデン等を輩出した。・・・・・そして、1973年(昭和48年)4月19日にワカクモから第2子が誕生した。それは栗毛の非常に美しい牡馬だった。父は新種牡馬のコントライト。この馬は高田久成さんに買われ、新聞の記事になるようにとテンポイントと名付けられた。このようにテンポイントは競争馬としてのスタートを切ったのである。
預けられた厩舎は栗東の小川佐助厩舎で、メインの騎手は鹿戸明であった。1975年(昭和50年)の夏、北海道でデビューし圧勝した。2戦目は300万特別のもみじ賞だったが、これも9馬身差を2着につける圧勝。3戦目は阪神3歳Sである。今で言うところのGⅠレースである。だがここでも7馬身差の圧勝。このようにしてクラシック候補と言われるようになる。ところが華奢な馬で逞しさに欠けていた。見るからに美しく白い流星が額に通っていた。だから人気は呼んだが、生来付き纏う悲劇性が奇しくも祖母クモワカと似通っていた。だから関東入りしてからというものは、3歳時(旧馬齢表記)の快走が鳴りを潜め、稀代の快速馬トウショウボーイの後塵を拝した形となった。この頃のテンポイントは、ダービーのレース中の骨折もあって見せ場がなく、秋の菊花賞はトウショウボーイに雪辱したものの上がり馬グリーングラスに足元を掬われ、所詮は早熟な馬だったと囁かれだしたものである。
こうして書いてみると、はるか昔に1頭の馬が死んだことがあるというぐらいで記事にするなと文句を言われそうであるが、この馬の場合は単なるサラブレッドの死という悲哀の話だけでは片付けられない数奇な運命が過去にあったから、ここで改めて記事にしたまでである。だから、この話を知らない人は、騙されたと思って読んでもらいたいと思うのである。
テンポイントは1973年4月19日、北海道は早来町の吉田牧場で産まれた栗毛の牡馬である。父は英国ダービー馬ネヴァーセイダイを父に持つコントライト、母は桜花賞馬ワカクモである。つまり母系の血からも期待されて産まれてきた競争馬なのである。でも何故、そんなに期待されていたかというと、母ワカクモが幽霊の子といわれていたからである。ワカクモを幽霊の子と言ったのは、故・寺山修司であるが、このように書くと話が複雑そうに思うであろう・・・・・それでは話を昭和27年まで遡って進めるとしよう。
1948年(昭和23年)に産まれたクモワカという牝馬がいた。この馬はセフトを父に、月丘を母にして産まれ、競走馬としては京都競馬場の杉村政春厩舎に預けられた。なかなかの素質馬であり、1951年(昭和26年)の桜花賞で2着となり、その年の秋、牝馬ながら菊花賞に出走し4着と健闘した。だからここまでは順風満帆だったのである。それが、翌年の1952年(昭和27年)、古馬となったクモワカに試練となる運命が待ち受けていた。
この年の冬、京都に致命的な馬の伝染病である伝貧(伝染性貧血症)が蔓延した。そこでクモワカも診断を受け、運悪く伝貧と診断されてしまったのである。これにより即刻、クモワカを殺処分せよという上からの命令が下ったのである。でも関係者は、こんなに元気なクモワカが伝貧の筈がないと診断結果撤回、及び再検査を求めたが、、彼等の主張が通るものでもなく、当時の慣習の例に倣い「疑わしきは罰せよ」とばかり早く処分するべしと厳しい要求を突きつけられたのである。けどもクモワカの関係者は絶対に認めたくもなかった。それでクモワカの殺処分を請け負った男がいて、彼はクモワカを連れ出して殺処分するために京都競馬場から忽然と姿を消したのである。これでクモワカは死んだだろうと当然みんな考えていた。何故なら死亡届が出ていたからである。だが、この死亡届は偽の死亡届で、肝心のクモワカは飛び出した男と連れ立って北海道へ旅立ったのである。それで行き着いた先は早来町の吉田牧場であった。
吉田牧場に辿り着いたクモワカは、一応に種付けされ、子供を産み続けた。ところが、殺処分命令により死亡したことになっている馬の子供を登録することは法律上不可能だった。それならとばかり、クモワカの関係者は子供が産めるというのは、伝貧に感染していない証拠とばかり裁判を起こす。裁判は通り、こうして北海道当局による再検査の結果、クモワカとその子供達は非感染であるとようやく認知されたのである。
伝貧ではなかったクモワカには、既に数頭の子供がいたが、当り前のように競走馬に成りえなかった。そして、クモワカの子で最初に競争馬として登録されたのがカバーラップⅡ世との間に産まれた牝駒である。1963年(昭和38年)に産まれた鹿毛の牝駒は、クモワカの無念を晴らすべき母の名前をひっくり返してワカクモと名付けられた。やがて、ワカクモは2歳になり母クモワカと同じ京都の杉村政春厩舎に預けられ、競争馬として調教されたのである。
ワカクモがデビューしたのは1965年(昭和40年)の秋だった。死んだ筈のクモワカの子が競走馬として出てきたのである。でも寺山修司が幽霊の子と呼んだワカクモは強かった。母の無念を晴らすべく運命を知っていたかのように、母の勝てなかった桜花賞に勝った。これだけでも快挙であろう。結局、ワカクモは1969年まで現役を続行し、通算53戦11勝とまずまずの成績で引退した。でも幽霊の子は現実として登場し、新たなる一族の話はここで終わらない。
ワカクモが引退し故郷の吉田牧場に帰ってから、最初に産まれた牝駒はオキワカと名付けられた。このオキワカはクモワカの孫になる。オキワカは1972年産まれで、父がリマンドであった。通算で45戦6勝し、繁殖に上がってからはダービー2着のワカテンザンや東海公営で大活躍したワカオライデン等を輩出した。・・・・・そして、1973年(昭和48年)4月19日にワカクモから第2子が誕生した。それは栗毛の非常に美しい牡馬だった。父は新種牡馬のコントライト。この馬は高田久成さんに買われ、新聞の記事になるようにとテンポイントと名付けられた。このようにテンポイントは競争馬としてのスタートを切ったのである。
預けられた厩舎は栗東の小川佐助厩舎で、メインの騎手は鹿戸明であった。1975年(昭和50年)の夏、北海道でデビューし圧勝した。2戦目は300万特別のもみじ賞だったが、これも9馬身差を2着につける圧勝。3戦目は阪神3歳Sである。今で言うところのGⅠレースである。だがここでも7馬身差の圧勝。このようにしてクラシック候補と言われるようになる。ところが華奢な馬で逞しさに欠けていた。見るからに美しく白い流星が額に通っていた。だから人気は呼んだが、生来付き纏う悲劇性が奇しくも祖母クモワカと似通っていた。だから関東入りしてからというものは、3歳時(旧馬齢表記)の快走が鳴りを潜め、稀代の快速馬トウショウボーイの後塵を拝した形となった。この頃のテンポイントは、ダービーのレース中の骨折もあって見せ場がなく、秋の菊花賞はトウショウボーイに雪辱したものの上がり馬グリーングラスに足元を掬われ、所詮は早熟な馬だったと囁かれだしたものである。
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