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2008.04.17 (Thu)

ベニー・グッドマンを聴く

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 数年前、『スウィングガールズ』という山形の女子高生ばかりで形成されているビッグバンドの成長を描いた映画があった。その中で彼女たちは『A列車で行こう』を盛んに演奏していたが、もう一つ映画の挿入曲として欠かせない曲があった。それは『シング・シング・シング』である。『シング・シング・シング(Sing Sing SIng)』は、スウィング・ジャズを代表する曲で、よく演奏されるが、女子高生が演奏する『シング・シング・シング』というのも珍しくて、映画のそのシーンを見とれていた覚えがある。

 ところでスウィング・ジャズの王様といわれる人物を知っているだろうか・・・・。その人はベニー・グッドマンという白人のクラリネット奏者である。ベニー・グッドマンは、1909年にシカゴの洋服の仕立て屋の家に生まれ、兄弟が多く暮らしも豊ではなかった。でも両親の理解と兄姉の援助もあって、早くからクラリネットを吹いていた。12歳ではミシガン湖遊覧船のバンドに加わっていたから、かなり早熟であったと思える。16歳では著名なバンドに入団し、19歳で独立しニューヨークで演奏活動を行なうようになり、25歳になると自分のバンド、ベニー・グッドマン楽団を結成するのである。そして、彼は次第にキング・オブ・スウィングと呼ばれるようになっていた。

 スウィングというのはジャズと同義語であるが、スウィングの王様なんていわれるまでベニー・グッドマンの名声は確立されるが、それまでは苦労の連続あった。ベニー・グッドマンは団員の給料、経営上のゴタゴタに辟易していたと見え、彼を支えている2人の後援者に愚痴をこぼす始末である。その頃、彼のバンドはホテルやダンスホールでのBGMとして演奏していたのだが、ロサンジェルスのパロマーで行った時の演奏が、新しいダンス音楽だとして絶賛され、突如としてベニー・グッドマン楽団のレコードが売れ出したのである。こうしてベニー・グッドマンは、1938年にジャズ・ミュージシャンとして初めてカーネギー・ホールでコンサートを開くまでになったのである。この時に、ジャズはようやく世間から認知されたといってもいい。

 ベニー・グッドマンは、全米の注目を浴びる中、『シング・シング・シング』を演奏する。この時の演奏がよほど人々の印象に残ったのか知らないが、『シング・シング・シング』はベニー・グッドマンの代表曲となってしまった。だから今では、『シング・シング・シング』というと、ベニー・グッドマン楽団だと思うようになったのである。でもこの曲は、1936年にルイ・プリマによって作曲された曲である。スウィングしなけりゃジャズじゃないとばかり、スウィングしまくる曲であるが、非常に軽快な曲でダンス音楽から発展したといわれるジャズも変革期にあったということだろう。そのような1930年代、ベニー・グッドマンがバンドリーダー兼クラリネット奏者として、知名度を上げていく頃、ジャズもようやくBGMから聴かせる音楽として確立されていくのであった。このようにベニー・グッドマンは、ただのクラリネット奏者ではなく、黒人を雇った最初のバンドとして賞賛されていく。つまりベニー・グッドマンは人間としての大きさも考慮され、彼をスウィングの王様と呼ぶ人がいたのだろう。彼はまた、交友関係も広く、バルトークと親交があり、クラシック音楽にも造詣が深く、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』を演奏した録音も残されている。また、1936年にはクァルテットも結成し、スモールコンボの先駆けをやっている。このようにベニー・グッドマンは、ジャズへ対する興味と探究心は絶え間なく続き、何時も新しいことへの取り組みを模索していた。・・・・・日本では、『シング・シング・シング』を演奏する時以外、あまり取りざたされないベニー・グッドマンであるが、やはりジャズの歴史に輝く巨人なのである。

 『シング・シング・シング』を演奏するベニー・グッドマン楽団。

 
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