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2009.12.29 (Tue)

司馬遼太郎『坂の上の雲』について

 何だかNHKで日曜日になるとドラマ『坂の上の雲』を放送しているが、この小説をドラマ化するのは意外にも初めてのことらしい。すると今まで眠らしていたのか、それとも撮影に踏み切れなかった事情があったのか判らないが、日本が高度成長期だった1968年から1972年まで産経新聞に連載された長編小説を今時、ドラマ化して放送するなんて何か思惑がありそうだ。明治維新以降、西洋列強に追いつき追い越せといった勢いで、なりふり構わず突き進んできた日本という国の、そのきっかけをとなった日清、日露戦争という明治時代に行なわれた2つの戦争と、その時代の世界情勢を含めて、時代に纏わる3人の人物にスポットライトを浴びせた一大巨編というべき小説、それが司馬遼太郎の『坂の上の雲』なのである。

 その小説が今回ドラマ化されたことにより、秋山好古、秋山真之、正岡子規という3人の人物が脚光を浴びたのであるが、私はこの単行本で6巻にもなる巨編『坂の上の雲』を読んだのは25年以上も前のことであり、全容の部分、部分しか覚えてなく、また、ここで文学作品や著書を紹介するにあたっては書籍の写真を掲載している関係から、既に全6巻すべて手元にない関係から写真を撮ることも出来ず、『坂の上の雲』をブログ上で紹介するのはやめようと考えていたが、今回は特例として写真もなく『坂の上の雲』のことについて書いてみることにした。

 『坂の上の雲』は司馬遼太郎が足掛け5年に亘って書き続けた長編小説であるが、主人公というべき人物が3人もいる。先ほど述べたように軍人の秋山好古、真之の兄弟と俳人の正岡子規である。私がこの小説を読んだ時にもいえるが、それまで知っていた人物といえば正岡子規だけである。でも司馬遼太郎は日露戦争で勇名を馳せた秋山兄弟を歴史の表舞台に登場させ、彼らを中心に物語を進めている。それまでは、一般的にほとんど無名といってもいい軍人2人である。でも日露戦争での203高地陥落の話や、旅順要塞陥落、日本海海戦、バルチック艦隊のことなどは知れ渡っていたものの、これらで出てくる人物といえばロシアのロジェストウェンスキー、ステッセルや日本の乃木希典、東郷平八郎ばかりで、秋山兄弟のことなどはこれぽっちも知らなかったというのが正直なところである。 それを司馬遼太郎が一躍、有名にしたといえば大袈裟かもしれないが、話としては軍のトップではなく乃木や東郷の下で名を馳せた2人の兄弟と、また彼らとは幼い頃からの知り合いであった正岡子規を登場させることで、国が大きく移り変わりいく中、彼らがその波に揉まれながらも成長していく様を描いた青春巨編でもあることに拘っている。

 若き日、教師の待遇を目当てに師範学校に進み、名古屋の小学校に赴任中だった好古が、出来たばかりの陸軍士官学校への入学をすすめられて東京に行く。またそれに伴って弟の真之も東京の大学予備門に入り、正岡子規と共に文学の道を志す。つまり秋山真之と正岡子規は松山出身で幼馴染であった。真之と子規は読書や無銭旅行に気ままな青春の時を過ごすが、真之は海軍兵学校と進路を転じてしまう。一方、好古は陸軍大学校学生に選抜され騎兵建設の使命を帯びてフランスへ留学する。また哲学と文学、政治的関心の間で精神的彷徨を続ける子規は、学業もふるわない日々でありつつ、喀血して病床に伏すことを余儀なくされていた。そんな折、日清戦争が起こり、好古は少佐として騎兵隊を指揮。海軍少尉として巡洋艦に乗り込んだ真之は、威嚇衛砲撃中、敵弾を受けて肉片と化す砲兵の姿を見て衝撃を受ける。2度の落第を経て東京帝大国文学科と中退し、陸羯南(くがかつなん)の新聞『日本』の社員となっていた子規も従軍記者として戦場に赴くが、病魔の勢いが増し、帰国の戦中で大喀血してしまい療養のため松山へ帰省していた。・・・・・こうして西洋列強が植民地を拡大する中、弱小国家・日本は着々と軍備を増強しつつあり、やがてロシアとの戦争へ突入していく。

 結局、日露戦争は強大国ロシアに弱小国・日本が勝った戦争として歴史に記されるとおりであるが、史上最強とされたロシアのコサック騎兵を満州の野で打ち破って功績を挙げた秋山好古と海軍の参謀としてバルチック艦隊殲滅に貢献した秋山真之という兄弟は、明治国家の命運を担い、日露戦争で手柄をたてたものの歴史の大きな流れの中で、その名前も埋もれていた。それを正岡子規の幼馴染というところから関連性を持たせ、単なる歴史物語ではなく青春物語風に書かれているのが『坂の上の雲』ということになる。

 ただ結果的に日露戦争で勝利して、その後の軍備増強、富国強兵を突っ走り、昭和初期の軍国主義時代まで日本はなりふり構わず、西洋列強を肩を並べんとばかり拡大政策を疾走するようになってしまったが、それもこれも日露戦争で奇跡的な勝利を得てからのことである。要約すると『坂の上の雲』の先に見えたもの、それは西洋的な近代国家を標榜し目指した大日本帝国のその後の末路だったのか。つまり坂の雲の上に登って見えた現在というものが明治の時代にはさっぱり見えてなかったということを現しているのかも知れない。とにかく司馬遼太郎は、この作品のドラマ化をなかなか許可しなかったといわれている。もしかして戦争讃美として捉えられてしまっては困るとも考えていたのかもしれないが、司馬遼太郎自身が故人となってしまった今、ドラマ化されてしまった。それで、現在、歴史の史実として見るのは簡単であるものの、青年たちが国家というものに大きな夢と存亡をかけていた時代の精神性と、平成の今日の青年たちの精神性というものには大きな隔たりがありすぎて現実的なドラマではなくなっている。はたしてこの時代のギャップを埋められないもどかしさを司馬遼太郎は感じていたかもしれないし、また知ろうともしなかっただろう。

 日本が近代国家を築き上げる過程において逃れることの出来なかった、外国との戦争という手段。これを今から、ああだこうだと論説するのは簡単である。でも身に降りかかった火の粉の如く避けられなかった、必然であったという史観があるとするならば、坂の上の雲以降の現在という時代は、残念ながら、けして明治の人が見てはいけないもののように思えて仕方が無い。
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