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2010.07.04 (Sun)

オグリキャップ死去

 昨日の7月3日、北海道の優駿スタリオンステーションでオグリキャップが亡くなったという。放牧中に骨折し、高齢のため安楽処分にされたという。25歳であった。今から20年ほど前、大フィーバーして競馬ブームを巻き起こしたオグリキャップである。そのオグリキャップがとうとう亡くなった。

 オグリキャップの存在を初めて知ったのは東海公営に詳しい競馬仲間によってもたらされた情報によるものであったが、そのオグリキャップが中央入りしたという情報も入っていた。でも公営の実力馬が中央に転厩してくることはよくある。でも芝生の馬場に戸惑って公営時代ほどの成績を上げられずに消えていく馬も、また同様に多かった。だからオグリキャップが栗東の瀬戸口厩舎に入ってもさほど気にもならなかった。でもオグリキャップは笠松の鷲見厩舎時代に12戦10勝2着2回という素晴らしい成績だったので、中央デビューの時のペガサスS(GⅢ・3歳、芝1600m)に出てきたときは注目した。

 1988年(昭和63年)3月6日の阪神競馬場。この時に私はパドックにおいて初めてオグリキャップと対面した。芦毛なのであるが、まだ若駒のこと黒っぽくて芦毛には見えなかった。レースは中団から進出し直線で末脚を爆発。ラガーブラックに3馬身の差をつけて勝った。ほう、意外と走るなあというのが最初の印象であった。次走は阪神の毎日杯(GⅢ・3歳、芝2000m)であった。この時も勝ったので、もしかしてオグリキャップはとんでもなく強い馬かもしれないという印象に変わっていくのを自分の中にもあったことを思い出す。でも残念ながら、オグリキャップはクラシック登録がなく皐月賞、日本ダービー、菊花賞には出られず裏街道のレースに出続けることになる。

 毎日杯から半月後に皐月賞が行なわれ、人気薄のヤエノムテキが勝った。2着はディクターランドだった。その結果に私は驚嘆した。何故なら、共に毎日杯でオグリキャップに子ども扱いされていた馬だったからである。これからオグリキャップ伝説が始まっていくのであるが、中央入りしてから重賞6連勝。この中には2着を7馬身千切ったニュージーランドT4歳S、古馬のランドヒリュウを破った高松宮杯、ダービー馬のシリウスシンボリやダイナアクトレス、フレッシュボイスといった一流古馬を倒した毎日王冠が含まれている。

 こうしてオグリキャップは3歳馬でありながら天皇賞に出走した。でもこの日、初めて中央入りして2着に敗れる。勝ったのは1年間勝ち続けているタマモクロスである。タマモクロスは、春の天皇賞、宝塚記念に続いて、秋の天皇賞に勝ち8連勝を記録した。オグリキャップとタマモクロスという2頭の芦毛馬の対決に競馬界は大いに盛り上がった頃である。この2頭はジャパンCでも顔合わせし、タマモクロスが2着、オグリキャップが3着。勝ったのはアメリカから参加のペイザバトラーだった。

 年末の大一番、有馬記念でタマモクロスは引退することが決まった。ここでオグリキャップは勝たなくてはいけなかったが、見事、タマモクロスに雪辱。なお、このレースにはスーパークリーク、サッカーボーイといった今となっては懐かしい面々が名を連ねていた。

 翌、1989年、元号が昭和から平成に変った。しかし、オグリキャップは長期休養を強いられていた。脚部不安からである。もともと脚が曲がっていて丈夫ではなかった。復活戦は9月のサンケイ・オールカマーであったがレコード勝ち。次は毎日王冠であった。このレースは天皇賞馬イナリワンとの死闘となったが鼻差で制し、いよいよ天皇賞。でもスーパークリークと武豊に巧く乗られ2着に敗れる。次はジャパンCに出るのかと思っていたら、京都のマイル戦、マイル・チャンピオン・シップに出てきた。このレースも死闘となり、武豊のバンブーメモリーが勝利目前という時、奇跡的に最後の末脚が爆発、このレースを制す。するとインタビューで騎手の南井克己が涙で答えた事を思い出す。

 ところが陣営は一週間後のジャパンCにオグリキャップを出走させた。ちょっと無茶ではないかという声に反発して、オグリキャップはニュージーランドのホーリックスとまたも死闘を演じ2分22秒2という当時の世界レコードで2着。この時にオグリキャップ人気はフィーバーしたように思う。とにかく出るレース出るレース、一生懸命走り、結果を残して来た。何時の間にかオグリキャップの縫いぐるみが商品として売っていたし、世はまさに競馬ブーム。殊に女性ファンが大勢、詰め掛けるようになっていた。その原動力の一因がオグリキャップというのはいうまでもない。でも流石に有馬記念は疲労していたのか5着と凡走。ファンはがっかりした。

 1990年、この年もオグリキャップは現役。でも出てきたのは5月の安田記念。ここは武豊が初めて乗って圧勝。しかし、宝塚記念は故・岡潤一郎が乗ってオサイチジョージに敗れる。謎の敗戦といわれた。その後、脚部不安から休養。復活レースが天皇賞。ステップレースを使えなかったというのが問題で、新コンビ増沢末夫を鞍上に出走したが着順掲示板がらついに消えてしまう6着という惨敗。

 ジャパンCも出走。でもいいところがなく11着。もうオグリキャップの復活は有り得ないと誰もが考えていた。だが、陣営は引退レースとして有馬記念を選んだ。鞍上は再び武豊。

 こうして1990年12月23日、オグリキャップ最後の出陣の日が来た。私はこの日の早朝、京都6時17分到着のひかりに乗って中山競馬場に向った。あの日の中山競馬場は異様な雰囲気が漂っていた。入場者数178000人という数字が表すように立錐の余地も無いほど観衆で埋っていた。そんな中でグランプリが始まり、オギリキャップは3コーナーから進出。直線で先頭にたちメジロライアンの追撃を抑えて優勝。見事復活した。すると期せずしてオグリ! オグリ! の大合唱。

 2度と経験できないのではないかという状況に出くわし感嘆したことを覚えている。あれから20年、一時代を築いたオグリキャップはこの世を去った。公営から上がってきて中央競馬を席巻し競馬ブームの立役者となり、オグリキャップ現象なるものまで生み出した。これはまことに稀有なことであり、今の競馬界を見るとあの時のフィーバーぶりが嘘のようでもある。もう2度とああいった雑草魂を持った競争馬は出てこないのかもしれず寂しくもある。シンボリルドルフやディープインパクトといった最初からのエリートではなく、ハイセイコーにも繋がるサクセスストーリーに人は牽きつけられたのである。

 そういえばオグリキャップを世話していたのが瀬戸口厩舎の厩務員だった池江敏郎さんである。また、その人の実弟がディープインパクトの調教師だった池江泰郎さんだった。池江調教師も来年で競馬界を去られる。時代は確実に流れているのだ・・・・。


オグリキャップのラストラン。私もこの大観衆の中の1人だった。
 
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