2010.07.11 (Sun)
⑥サッカーに対しての蘊蓄を述べる・・・・・
今回で6回目となるが、そろそろ終わりにしようか。そうしないとワールドカップ自体が終わってしまう。あと決勝を残すのみだからなあ。
1982年のスペイン大会でイタリアが優勝したが、それから4年後の1986年、1970年に開催したメキシコで再びワールドカップが開催された。そもそも1986年の大会は当初、南米のコロンビアで開催されるはずであった。ところが参加国が前回から24に増え、経済的負担が大きくなったことに加え、経済情勢も悪化していたコロンビアの開催は難しくなった。さらに追い討ちをかけるよに武装ゲリラの問題があって、コロンビアは開催を返上、急遽、一度、開催経験のあるメキシコに決まったという経緯がある。
でもメキシコも1985年に大地震に見舞われ25000人の人が亡くなり、開催が危ぶまれたが幸いにもスタジアムの損傷は少なく予定通り開催された。ところで、この大会の予選で日本はこれまで最も本大会出場へ近付いた。結局、韓国に敗れワールドカップ出場はならなかった。
この大会はマラドーナのためのマラドーナによるマラドーナの大会となってしまった。前回のスペイン大会でデビューしたマラドーナだが、若さのあまり空回りしてしまい不発に終わったが、この1986年の大会では気力も体力も精神的にも充実して手のつけられない選手になって帰って来た。大会の初戦、アルゼンチンは日本を破って出場した韓国を3対1で倒し、2戦目は前回の優勝国イタリアとの対戦。新旧交替期のイタリアとマラドーナを中心に選手が若返ったアルゼンチンとの対決は1対1。この試合でマラドーナは得点する。3戦目はブルガリアで2対0と勝利。アルゼンチンは決勝トーナメントに進出。
1回戦でアルゼンチンは同じ南米のウルグアイと対戦。1対0で勝ち、準々決勝でイングランドと対戦。この試合で史上に残る2つのゴールが生まれることになる。まず、後半の6分、マラドーナがイングランドのゴール前、両チームの選手が殺到していた。その時、イングランドのホッジのバックパスをカットしたマラドーナがゴールを決めた。だがあとでよく見ると手によるゴールであった。ゴールは認められアルゼンチンは先制した。このゴールをマラドーナ自身『神の手ゴール』と言った。だが、この3分後、マラドーナ自身による文句のつけようのないスーパーゴールが生まれる。ハーフウェイラインあたりからドリブルで次々とイングランド選手を抜き去りゴールを決めた。まさに歴史に残るゴールであった。イングランドはリネカーが1点を返したが、2対1でアルゼンチンが勝利。このあたりからマラドーナが本領を発揮しだす。準決勝に進出したアルゼンチンはベルギーと対戦。ここでもマラドーナガ獅子奮迅の活躍で2得点。スコアは2対0、マラドーナとアルゼンチンは決勝へ駒を進めた。
決勝の相手は西ドイツであった。けして強いとは思わないが確実に勝ってくる西ドイツである。この大会の準々決勝で万年優勝候補のブラジルを延長戦後のPK戦でようやく倒してきた優勝候補筆頭のフランスだったが、そのフランスを準決勝において2対0で倒してきた西ドイツであった。
決勝戦はアステカ・スタジアムに115000人もの大観衆集めて行なわれた。前半21分、フリーキックを頭で合わせたブラウンが先制ゴールしてアルゼンチンがリード。さらに後半10分、マラドーナ、エンリケ、バルダーノとボールが渡りアルゼンチン2点目。だが、粘り強い西ドイツ。後半28分、ブレーメのコーナーキックをフェラーが頭で落としルムメニゲがスライディング・ゴール。後半36分には、またもコーナーキックからベルトールトが頭で流してフェラーが決めて同点。決勝戦は延長かと思われたが、後半39分に、マラドーナの必殺のスルーパスが通りブルチャガが走りこんで決勝ゴール。こうしてマラドーナ率いるアルゼンチンが2度目の栄冠を手にした。
結局、このメキシコ大会まではワールドカップ中継を真剣に観ていたなあと今になってよく思う。でも、この4年後になるとサッカーそのものがより守備的になり、ますます得点が入りにくくなった。1990年のワールドカップはイタリアで行なわれたが、何処も守備重視にサッカーを変えてきたように思う。前回優勝のアルゼンチンは精彩を欠き、4年前の優勝が嘘のような出来栄えであった。でもPK戦をユーゴスラビア、イタリアと続いて勝ち、どうにか決勝へ進出。決勝は2大会連続、アルゼンチン対西ドイツの対戦となった。
アルゼンチンは決勝へ進出したものの累計イエローカードが溜まり決勝戦に出られない選手が何人かいたFWのカニーヒャもそうだった。試合としては面白くなく、西ドイツは徹底的にマラドーナをマーク。マラドーナがボールを持つと複数名でディフェンス。これでマラドーナは孤立。でも西ドイツもなかなか得点できずに後半も終盤に突入。均衡が破れたのは後半40分。クリンスマンをセンシーニが倒しPK。これをブレーメが決め西ドイツが前回の雪辱を果した。
この1990年のイタリア大会の3年後、日本にもようやくプロサッカー・リーグのJリーグが誕生。日本代表も次第に力をつけていくようになる。さて、ここまでサッカーの記事を書いてきたがこれにて終了することにする。これ以降のことはほとんどの人がご存知なので書く必要性もないと思われる。日本人にもワールドカップが身近に思われるようになってきたののが90年代以降である。でも私の中からはワールドカップが遠ざかっていく。誰もが注目しなかった頃の方が私としては熱中できた。今のように視聴率が深夜にもかかわらず40%だとか50%だとかいった数字をたたき出すようになると、何故か自分の中でワールドカップが醒めていくのが判る。歳をとったからという言い方も出来るが、新聞もテレビも大特集を組み誰もが話題にする。しかし、その存在すらあまり知られてない頃から注目してきた者としては、もういいかなといった思いがあるのも事実である。それに、昔は観ようと思っても放送すらない。だから伝説の選手という言い方が出来、神秘性もあった。現在のように試合を隅々まで放送するようになると、最早、秘密兵器的選手もいなくなり、突如として現れてはスーパープレーを連発することは有り得なくなった。今では控えの選手の情報までが露出され、プレーそのもので驚嘆することもなくなってきた。
つまり過剰報道、情報過多が齎したつまらなさといったものがあって、これが今のサールドカップの面白さを半減させているようにも思える。私としては、やはりサッカーはどんな選手がどんなプレーをするか判らなかった時代の方が、よりワクワクして観られたという気がしてならないのである。
1986年メキシコ大会。アルゼンチン対イングランド戦。この試合で2つの伝説的ゴールが生まれた。
1986年メキシコ大会決勝戦。アルゼンチン対西ドイツ。
1990年イタリア大会決勝戦。アルゼンチン対西ドイツ。2大会連続同じカードとなった決勝。西ドイツとしては最後の大会となった。
1982年のスペイン大会でイタリアが優勝したが、それから4年後の1986年、1970年に開催したメキシコで再びワールドカップが開催された。そもそも1986年の大会は当初、南米のコロンビアで開催されるはずであった。ところが参加国が前回から24に増え、経済的負担が大きくなったことに加え、経済情勢も悪化していたコロンビアの開催は難しくなった。さらに追い討ちをかけるよに武装ゲリラの問題があって、コロンビアは開催を返上、急遽、一度、開催経験のあるメキシコに決まったという経緯がある。
でもメキシコも1985年に大地震に見舞われ25000人の人が亡くなり、開催が危ぶまれたが幸いにもスタジアムの損傷は少なく予定通り開催された。ところで、この大会の予選で日本はこれまで最も本大会出場へ近付いた。結局、韓国に敗れワールドカップ出場はならなかった。
この大会はマラドーナのためのマラドーナによるマラドーナの大会となってしまった。前回のスペイン大会でデビューしたマラドーナだが、若さのあまり空回りしてしまい不発に終わったが、この1986年の大会では気力も体力も精神的にも充実して手のつけられない選手になって帰って来た。大会の初戦、アルゼンチンは日本を破って出場した韓国を3対1で倒し、2戦目は前回の優勝国イタリアとの対戦。新旧交替期のイタリアとマラドーナを中心に選手が若返ったアルゼンチンとの対決は1対1。この試合でマラドーナは得点する。3戦目はブルガリアで2対0と勝利。アルゼンチンは決勝トーナメントに進出。
1回戦でアルゼンチンは同じ南米のウルグアイと対戦。1対0で勝ち、準々決勝でイングランドと対戦。この試合で史上に残る2つのゴールが生まれることになる。まず、後半の6分、マラドーナがイングランドのゴール前、両チームの選手が殺到していた。その時、イングランドのホッジのバックパスをカットしたマラドーナがゴールを決めた。だがあとでよく見ると手によるゴールであった。ゴールは認められアルゼンチンは先制した。このゴールをマラドーナ自身『神の手ゴール』と言った。だが、この3分後、マラドーナ自身による文句のつけようのないスーパーゴールが生まれる。ハーフウェイラインあたりからドリブルで次々とイングランド選手を抜き去りゴールを決めた。まさに歴史に残るゴールであった。イングランドはリネカーが1点を返したが、2対1でアルゼンチンが勝利。このあたりからマラドーナが本領を発揮しだす。準決勝に進出したアルゼンチンはベルギーと対戦。ここでもマラドーナガ獅子奮迅の活躍で2得点。スコアは2対0、マラドーナとアルゼンチンは決勝へ駒を進めた。
決勝の相手は西ドイツであった。けして強いとは思わないが確実に勝ってくる西ドイツである。この大会の準々決勝で万年優勝候補のブラジルを延長戦後のPK戦でようやく倒してきた優勝候補筆頭のフランスだったが、そのフランスを準決勝において2対0で倒してきた西ドイツであった。
決勝戦はアステカ・スタジアムに115000人もの大観衆集めて行なわれた。前半21分、フリーキックを頭で合わせたブラウンが先制ゴールしてアルゼンチンがリード。さらに後半10分、マラドーナ、エンリケ、バルダーノとボールが渡りアルゼンチン2点目。だが、粘り強い西ドイツ。後半28分、ブレーメのコーナーキックをフェラーが頭で落としルムメニゲがスライディング・ゴール。後半36分には、またもコーナーキックからベルトールトが頭で流してフェラーが決めて同点。決勝戦は延長かと思われたが、後半39分に、マラドーナの必殺のスルーパスが通りブルチャガが走りこんで決勝ゴール。こうしてマラドーナ率いるアルゼンチンが2度目の栄冠を手にした。
結局、このメキシコ大会まではワールドカップ中継を真剣に観ていたなあと今になってよく思う。でも、この4年後になるとサッカーそのものがより守備的になり、ますます得点が入りにくくなった。1990年のワールドカップはイタリアで行なわれたが、何処も守備重視にサッカーを変えてきたように思う。前回優勝のアルゼンチンは精彩を欠き、4年前の優勝が嘘のような出来栄えであった。でもPK戦をユーゴスラビア、イタリアと続いて勝ち、どうにか決勝へ進出。決勝は2大会連続、アルゼンチン対西ドイツの対戦となった。
アルゼンチンは決勝へ進出したものの累計イエローカードが溜まり決勝戦に出られない選手が何人かいたFWのカニーヒャもそうだった。試合としては面白くなく、西ドイツは徹底的にマラドーナをマーク。マラドーナがボールを持つと複数名でディフェンス。これでマラドーナは孤立。でも西ドイツもなかなか得点できずに後半も終盤に突入。均衡が破れたのは後半40分。クリンスマンをセンシーニが倒しPK。これをブレーメが決め西ドイツが前回の雪辱を果した。
この1990年のイタリア大会の3年後、日本にもようやくプロサッカー・リーグのJリーグが誕生。日本代表も次第に力をつけていくようになる。さて、ここまでサッカーの記事を書いてきたがこれにて終了することにする。これ以降のことはほとんどの人がご存知なので書く必要性もないと思われる。日本人にもワールドカップが身近に思われるようになってきたののが90年代以降である。でも私の中からはワールドカップが遠ざかっていく。誰もが注目しなかった頃の方が私としては熱中できた。今のように視聴率が深夜にもかかわらず40%だとか50%だとかいった数字をたたき出すようになると、何故か自分の中でワールドカップが醒めていくのが判る。歳をとったからという言い方も出来るが、新聞もテレビも大特集を組み誰もが話題にする。しかし、その存在すらあまり知られてない頃から注目してきた者としては、もういいかなといった思いがあるのも事実である。それに、昔は観ようと思っても放送すらない。だから伝説の選手という言い方が出来、神秘性もあった。現在のように試合を隅々まで放送するようになると、最早、秘密兵器的選手もいなくなり、突如として現れてはスーパープレーを連発することは有り得なくなった。今では控えの選手の情報までが露出され、プレーそのもので驚嘆することもなくなってきた。
つまり過剰報道、情報過多が齎したつまらなさといったものがあって、これが今のサールドカップの面白さを半減させているようにも思える。私としては、やはりサッカーはどんな選手がどんなプレーをするか判らなかった時代の方が、よりワクワクして観られたという気がしてならないのである。
1986年メキシコ大会。アルゼンチン対イングランド戦。この試合で2つの伝説的ゴールが生まれた。
1986年メキシコ大会決勝戦。アルゼンチン対西ドイツ。
1990年イタリア大会決勝戦。アルゼンチン対西ドイツ。2大会連続同じカードとなった決勝。西ドイツとしては最後の大会となった。
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