2008.06.07 (Sat)
関光徳が亡くなった
昨日の6日、元プロ・ボクサーの関光徳がくも膜下出血のため亡くなった。まだ66歳だった。現在は横浜光ジム会長であったが、以前に世界チャンピオンであった畑山隆則、新井田豊などを育てた名トレーナーでもあった。
関光徳といえばサウスポーの強打者として名を馳せ、1960年代に活躍した名ボクサーである。1941年に生まれ、1958年にプロデビューした。やや色白で優しい面構えのため、おそらく普段着を着ていれば誰もボクサーであるとは思えないような選手であった。でも妖刀『村正』と呼ばれる左ストレートを武器に、デビューからすぐに頭角を現した名ボクサーだったが、残念なことに世界チャンピオンに5度挑戦しながら1度も世界タイトルを獲ることはなかった。
当初はフライ級でデビューし、1961年6月には早くも世界フライ級チャンピオン、タイのポーン・キングピッチに挑戦し15R戦い判定で敗れている。その後、フライ級からバンタム級、フェザー級と階級を上げ、この間に東洋フェザー級タイトルを獲得している。この頃は、関光徳以外にファイティング原田、海老原博幸、青木勝利といったフライ級三羽烏がいて、日本のボクシングの最も人気のあった頃であり、その中で悲運のボクサーといわれ続けた関光徳である。関光徳はフェザー級に階級を上げてから1964年3月に時の世界チャンピオン、無敗の殺人パンチャー・シュガー・ラモス(キューバ)に挑戦。でも相手のホームタウンでの試合で、思うような試合が出来ず6RにTKOで敗退。
2年後の8月には、シュガー・ラモスからタイトルを奪ったこれまた無敗の世界チャンピオン、メキシコのビセンテ・サルジバルに敵地で挑戦。この時は関は好調で、サルジバルからダウンを奪い優勢に試合を進めたが、15Rの判定で敗れてしまい、またも世界タイトルを奪うことは出来なかった。すると翌年、チャンピオンのサルジバルが、またも防衛戦の相手に関を指名。関は再びメキシコでグローブを交えたが、この時はサルジバルの強打に屈し7RTKO負け。その後にビセンテ・サルジバルは無敗のまま引退してしまったのである。
こうして世界フェザー級の王座が空位となり、関は急遽、世界チャンピオン決定戦をイギリスのハワード・ウィンストンと戦うことになった。今度こそと関はトレーニングを続けたが、またも試合会場は敵地のロンドン。こうして1968年1月23日、関光徳は5度目の世界タイトル挑戦となった。でもこの試合は何かおかしかった。試合のポイントをチェックするジャッジがレフェリーのみというおかしなルールだったと思う。試合は一進一退であったが、9Rに入りハワード・ウィンストンのフックが関の顔面にヒット、関は右目の上を切り出血。レフェリーは試合を一旦止めたように思えた。すると何時の間にかハワード・ウィンストン陣営は歓喜の嵐で、レフェリーコールもない間に、ハワード・ウィンストンがチャンピオンになっていた。何が何だか判らない間に、関は試合に負けていた。
後から傷口を確かめると出血は大したことはなかったという。これで関光徳は引退したが、この間に東洋フェザー級タイトルを12回防衛していて当時のアジアでは敵無しであった。右のジャブで距離を測り左ストレートを強打するといった正確なボクシング・スタイルは垢抜けていたし、そのボクシング・スタイルからはクールな印象があり、女優のひし見ゆり子は、関光徳のファンでもあったぐらいだ。ただ、関が挑戦したチャンピオンというのは何れも強豪として君臨していて、相手が悪かったというのもあり、また日本国内で1度も世界タイトルのかかった試合を経験できなかったというのも不運であった。それでいて通算74戦62勝(35KО)11敗1分というのは立派である。
関光徳は世界チャンピオンこそなれなかったが、原田や海老原と同様に最も印象に残っている当時のボクサーであった。ご冥福をお祈りします。
関光徳、最後の試合となったロンドンでのハワード・ウィンストン戦。
関光徳といえばサウスポーの強打者として名を馳せ、1960年代に活躍した名ボクサーである。1941年に生まれ、1958年にプロデビューした。やや色白で優しい面構えのため、おそらく普段着を着ていれば誰もボクサーであるとは思えないような選手であった。でも妖刀『村正』と呼ばれる左ストレートを武器に、デビューからすぐに頭角を現した名ボクサーだったが、残念なことに世界チャンピオンに5度挑戦しながら1度も世界タイトルを獲ることはなかった。
当初はフライ級でデビューし、1961年6月には早くも世界フライ級チャンピオン、タイのポーン・キングピッチに挑戦し15R戦い判定で敗れている。その後、フライ級からバンタム級、フェザー級と階級を上げ、この間に東洋フェザー級タイトルを獲得している。この頃は、関光徳以外にファイティング原田、海老原博幸、青木勝利といったフライ級三羽烏がいて、日本のボクシングの最も人気のあった頃であり、その中で悲運のボクサーといわれ続けた関光徳である。関光徳はフェザー級に階級を上げてから1964年3月に時の世界チャンピオン、無敗の殺人パンチャー・シュガー・ラモス(キューバ)に挑戦。でも相手のホームタウンでの試合で、思うような試合が出来ず6RにTKOで敗退。
2年後の8月には、シュガー・ラモスからタイトルを奪ったこれまた無敗の世界チャンピオン、メキシコのビセンテ・サルジバルに敵地で挑戦。この時は関は好調で、サルジバルからダウンを奪い優勢に試合を進めたが、15Rの判定で敗れてしまい、またも世界タイトルを奪うことは出来なかった。すると翌年、チャンピオンのサルジバルが、またも防衛戦の相手に関を指名。関は再びメキシコでグローブを交えたが、この時はサルジバルの強打に屈し7RTKO負け。その後にビセンテ・サルジバルは無敗のまま引退してしまったのである。
こうして世界フェザー級の王座が空位となり、関は急遽、世界チャンピオン決定戦をイギリスのハワード・ウィンストンと戦うことになった。今度こそと関はトレーニングを続けたが、またも試合会場は敵地のロンドン。こうして1968年1月23日、関光徳は5度目の世界タイトル挑戦となった。でもこの試合は何かおかしかった。試合のポイントをチェックするジャッジがレフェリーのみというおかしなルールだったと思う。試合は一進一退であったが、9Rに入りハワード・ウィンストンのフックが関の顔面にヒット、関は右目の上を切り出血。レフェリーは試合を一旦止めたように思えた。すると何時の間にかハワード・ウィンストン陣営は歓喜の嵐で、レフェリーコールもない間に、ハワード・ウィンストンがチャンピオンになっていた。何が何だか判らない間に、関は試合に負けていた。
後から傷口を確かめると出血は大したことはなかったという。これで関光徳は引退したが、この間に東洋フェザー級タイトルを12回防衛していて当時のアジアでは敵無しであった。右のジャブで距離を測り左ストレートを強打するといった正確なボクシング・スタイルは垢抜けていたし、そのボクシング・スタイルからはクールな印象があり、女優のひし見ゆり子は、関光徳のファンでもあったぐらいだ。ただ、関が挑戦したチャンピオンというのは何れも強豪として君臨していて、相手が悪かったというのもあり、また日本国内で1度も世界タイトルのかかった試合を経験できなかったというのも不運であった。それでいて通算74戦62勝(35KО)11敗1分というのは立派である。
関光徳は世界チャンピオンこそなれなかったが、原田や海老原と同様に最も印象に残っている当時のボクサーであった。ご冥福をお祈りします。
関光徳、最後の試合となったロンドンでのハワード・ウィンストン戦。
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