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2008.06.29 (Sun)

第49回宝塚記念

 昨日から降り続いている雨が馬場を濡らし、すつかり馬場が重くなってしまったが、春競馬の総決算である第49回宝塚記念(GⅠ・3歳以上、芝2200m、14頭)が阪神競馬場で行なわれた。3年連続の雨の宝塚記念だが、馬場は今年が1番重いのではないだろうか。メンバーはGⅠ4勝のメイショウサムソンに菊花賞馬アサクサキングスがGⅠウイナーで、昨年に比べると寂しいメンバーではある。特に牝馬の参戦がなかったのと3歳馬が出てこなかったから物足りない面々となってしまった。

 宝塚記念は春のグランプリともいわれ、春競馬の総決算であるがやはり年末の有馬記念と比較すると盛り上がり欠ける感はぬぐえない。ヨーロッパ競馬で言うならばキング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスSに相当するのだろうか。そういう意味では凱旋門賞に相当する有馬記念と比較するのは無理がある。ただ距離が2200mというのが有馬記念と違うところで、マイラーも挑戦してくるともっと面白くなるのだが・・・・・。

 1番人気のメイショウサムソンは予想通りであったが、2番人気にはロックドゥカンブが支持された。これはどういうことなのか、未完の大器としてみんなが期待しているからだろうか。3番人気は菊花賞2着で、このところ地力のついているアルナスライン。4番人気は菊花賞馬アサクサキングスだった。

 さあ、宝塚記念独特のファンファーレが演奏され、いよいよスタートが切られた。アドマイヤオーラの出が悪いが、まずまずのスタートである。正面スタンド前を通過して先頭に立ったのはエイシンデピュティであった。2番手にロックドゥカンブ、3番手にインコースをついてインティライミ、その外にカンパニー、5番手にアドマイヤフジ、6番手にアサクサキングス、7番手にサクラメガワンダーとアルナスラインがつけて、その後にメイショウサムソンである。そして、エアシェイディ、アドマイヤオーラ、フォルテベリーニと続き、ドリームパスポートがいて、1頭だけ3、4馬身離れてアサカディフィートが最後方の位置。いよいよ3コーナーにかかろうというところ800のハロン棒を通過。メイショウサムソンが外を通ってじわじわと上がって行く。4コーナーにかかるあたりアサクサキングスが外から前の2頭に並び掛ける。阪神の内回りは直線が短いので、各馬が仕掛けに入ろうとしている。先頭はエシインデピュティ、ロックドゥカンブ、そしてアサクサキングスが並んで先頭。その直後にメイショウサムソン、さらに外からエアシェイディ、ドリームパスポートも上がってくる。いよいよ直線コース。先頭はエイシンデピュティ、2番手にインティライミとアサクサキングス。メイショウサムソンは少し動きが重い。あと300m、エイシンデピュティはまた伸びようとしている。アサクサキングスは脚色が鈍ったか・・・。ここで変わってメイショウサムソンが伸びてきた。内からインティライミもやって来る。先頭はエイシンデピュティ、2番手にインティライミとメイショウサムソン。だがゴール直線、メイショウサムソンがさらに脚色を伸ばして肉薄する。でも僅かにエイシンデピュティが逃げ切った。

 1着エイシンデピュティ 2分15秒3、2着メイショウサムソン アタマ、3着インティライミ クビ、4着サクラメガワンダー 1馬身1/2、5着アサクサキングス 1馬身1/2。

 アルナスラインは10着でロックドゥカンブは故障したのか直線でズルズルと後退し、入線後に岩田騎手が下馬をした。大事に至らなければいいが・・・・・・。

 エイシンデピュティは、これで今年の重賞勝利が3勝ということになるが、最近の充実振りはどうだ。4歳までは条件馬で、昨年の春から馬が勝味を覚え、オープンに昇格。そして、遂に宝塚記念を勝ち6歳にしてようやくGⅠウイナーとなった。

 これで通算27戦10勝。鞍上の内田博幸騎手はテン乗りで見事に勝利した。南関東公営で3000勝を記録した名騎手であるが、JRA入りしてからは初めてのGⅠ勝利となった。

 それにしても今年は種牡馬フレンチデピュティの当たり年なのか。春の天皇賞のアドマイヤジュピタといい、桜花賞のレジネッタといい、今回のエイシンデピュティといい、フレンチデピュティの仔が大活躍である。またノーザンダンサー系の復活がなるのかどうか、サンデーサイレンス系もうかうかとしておれなくなった。
EDIT  |  17:04  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.06.29 (Sun)

紫式部という人は・・・・・

 今年、2008年は『源氏物語』千年紀だそうな・・・・・・・・・。でもそんな古い話なのに本当かなという疑問が成り立つが、確認されている記録の上ではちょうど物語が完成して1000年ということになるのだそうだ。

 『源氏物語』というと、平安の才女・紫式部が書いた54帖(桐壺、空蝉、夕顔など)からなる大長編小説であり、これだけ古い時代に、このような大巨編小説が存在したというのは、世界でも類を見ないという。

 この話は、帝の御子であるのに源氏という臣下という低い身分に落とされたうえ皇位継承権をも失った皇子(光源氏、紫の上)の王権復活の物語で、平安時代の王朝貴族の絢爛たる華やかな世界を背景に描いている物語である。

 ところで『源氏物語』を書いた紫式部という女性は一体どんな人だったのだろうか・・・・・。これはあまりにも古すぎて謎だらけである。本名も不明なら生年も没年も判っていない。だからありとあらゆる文献、資料から凡そ推測すると979年頃の生まれで1016年頃に亡くなったのではないかといわれている。すると『源氏物語』を完成させたのが30歳前後ということになる。(生年については970年説、978年説があり、没年にしても1014年説、1017年説がある)

 越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女と記述がある。幼少期に母を亡くし、兄弟もいたというが明確ではない。幼少の頃から天才肌の女性で、漢文を読みこなし『源氏物語』以外にも『紫日記』『紫式部集』が彼女の作であると伝えられていて、998年頃、山城守藤原宣孝と結婚。賢子(かたこ)を儲けたがまもなく藤原宣孝と死別。その後、一条天皇の皇后・中宮彰子に女房兼家庭教師(この女房とは王朝・貴族に仕える人のこと)として仕えた。つまり、この頃に『源氏物語』を書いていたものと思われる。でも時代が1000年も前で、ましてや当時の女性というのは、男性よりも扱いが軽かったので記述としては謎だらけである。一般的に呼ばれている紫式部という名称も、『源氏物語』の作中人物が『紫の上』であり、父が式部大丞だったことに由来するのであり、女房名は藤式部であった。でも1000年経ってもこのように色々と話題になるということは、よほど『源氏物語』が歴史的に見ても優れた文学作品であるということなのだ。ところが現在の我々、大方の人がこの『源氏物語』の一端を触れることも無く手に取ることも無い。つまり分量といい難しさといい、1000年前の女性がよくぞここまで書いたなあとは思う。

 ところで紫式部が『源氏物語』を書いたのは石山寺ともいわれるし、石山寺で構想を練ったとか、思いついたとか言われるが、これも定かではない。でもおそらく物語の大部分は本人の邸宅で書いたのではないだろうか。そういえば京都御苑の東側に寺町通が南北に走っているが、その通りに面したところに『ろ山寺』(ろの漢字が変換されないので仮名で書きます)があり、この寺は紫式部邸の址に建立された寺院である。

 紫式部邸址に建立された『ろ山寺』の庭。正面から眺めたところである。紫式部もこんな風景を眺めていたのであろうか・・・・。
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 角度を変えて眺めてみた。通称『桔梗の庭』『源氏庭』と呼ばれ、今の季節はちょうど桔梗が咲いている。
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 北大路堀川を下がったところに紫式部の墓がある。現在の敷地は島津製作所の一部にあり、堀川通に面している。私が訪れた時は、ちょうど観光バスがやって来て、中からバスガイドに連れられた観光客が、どっと墓の中にやって来て、バスガイドの説明を聞くや写真を各自撮りまくってさっさと帰っていった。
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 紫式部の右隣には小野相公(おののたかむらの事)の墓がある。この人は平安初期の歌人で役人、学者であり、書家の小野道風の祖父にあたり、小野小町との関係でも祖父に当ると伝えられている。

 ~わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船

 この歌で有名な人である。
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