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2009.06.03 (Wed)

浅田次郎・・・・・『活動寫眞の女』を読む

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 東京出身の三谷薫は昭和44年の春、京都大学の文学部に入学した。彼は東京大学に行くつもりであったがこの年の東大入試中止の影響で京大へ入る羽目になった。でも三谷にとって京都は馴染めない街であった。唯一、彼の心の癒しとなっていたのが映画である。もし京都が日本映画の故郷で無かったら京都に来たかどうかも疑わしい。そんな三谷が清家忠昭と初めて会ったのも映画館だった。清家は京都大学の医学部の学生で、地元京都の旧家の出である。清家は生まれながらの秀才で、高校の授業がつまらなくなって中退し大検を取って京大医学部に入ったという変り種であるが、2人とも映画が好きで結びついたようなものである。そんな2人が清家の知り合いがいる太秦の映画撮影所でアルバイトをすることになるのだが、偶然にも三谷が下宿している家の同居人である先輩の女子学生結城早苗までが同じ日に撮影所へアルバイトで来ていた。3人は時代劇の撮影のエキストラで参加していたのだが、この撮影所中に3人は奇妙な体験をすることになる。それは艶やかな絶世の美人女優に3人は撮影中に話しかけられたのだった。でも、3人が話しかけられた場所は、それぞれ違うのに時間的には同時刻だという。3人は撮影終了後、現場検証を行なってみるが、こんなことは有り得ない。色々と詮索するが判らない。だが、無声時代からの映画ファンである清家が、どっかで見たことのある女優だという。結局、その美人女優は既に亡くなっている伏見夕霞であることが判明するのであった。

 この小説は何年か前にNHKでテレビドラマ化されたことがあるので、ご存知の方もいらっしゃると思うが、幽霊が出てくる青春小説とでも言うべきであろうか、古い日本映画が好きな人には興味深い作品であろう。『蒼穹の昴』『鉄道員』『壬生義士伝』を書いた浅田次郎の青春恋愛物といえばいいだろうか、でも幽霊の出てくる妙な小説だ。京大生3人がエキストラとして参加した時代劇の撮影中に幽霊である伏見夕霞は現れる。でも3人以外には見えないのである。信じられない体験をした3人の前に、その後も伏見夕霞は現れては消える。以前から映画の撮影所に出入りしている清家は、知り合いの辻老人から意外な話を聞き、彼女はかつての大部屋女優で、日本映画の父・マキノ省三が連れてきた女優だという。でも彼女は美人過ぎて科白のない役でしか映画出演が回ってこなかった。それで昭和11年に自殺した。

 こんな変梃りんな話をよくも浅田次郎は書いたものだと思うが、怪談話でなくミステリーでもなく、どこか切ない哀愁のある物語となっているところは流石である。時代は昭和44年のことで、東大の入試が史上初めて中止になった年に大学受験に望むことになった三谷はやむを得なく京大に入るが、京都の街も人にも馴染めず映画を観ることでストレスを解消していて、その映画館で清家と知り合い、下宿先の同居人である結城早苗を含めた3人を中心にして話が展開し、そこへキーパーソンとなる30年前に亡くなった女優・伏見夕霞が絡んでくる。いつしか清家は伏見夕霞と恋愛関係に発展し、話がだんだんとややこしくなっていくなど、30年という時空を超えた不思議な物語である。

 この作品を読んでいると日本映画の創世記のことが矢鱈、詳しく書いてあって、マキノ省三、目玉の松ちゃん、溝口健二、永田雅一等、日本映画史の勉強にもなる。そういえば太秦にある東映映画村の周辺なんていうのは、戦前は撮影所だらけであったということは、昔の人からよく聞かされたが、映画ファンである浅田次郎が京都を舞台に映画をベースにした小説を書こうとした意図は何となく判る。かつて日本のハリウッドとまでいわれた京都の太秦から花園、等持院にかかる一帯は、日本映画の長い歴史の中で、大きな意味を占めてきた。それが今や撮影所は、東映映画村といわれるテーマパークを残すのみとなり、映画界を取り巻く環境はお寒い限りである。だから、まだ撮影所が幾つか残っていた昭和44年頃の京都にスポットをあてて話を構築せざるを得なかったのではないだろうか・・・・。また主人公・三谷薫の年齢と浅田次郎本人の年齢とは、ほぼ同時期ということを考えれば話を組み立てやすかったのではないかと思う。丁度、東大の入試が中止になったということで、やむなく京大へ入ったという主人公の設定も上手い具合に当てはまるので、昭和44年という時代が味噌になっていったように思う。

 アポロ11号が月に軟着陸し、人類が初めて月面に降り立った年である。そんな時代、日本では学生運動がやや沈静化していたというもの、なんか世情が慌しかったように思う。そんな時代の京都を、浅田次郎はどれほど知っていたかは知らないが、結構、調べ上げていると思う。ただ、その頃の京都に住む少年だった私に言わしてもらうならば、才人・浅田次郎でさえ、京都は保守的で排他的な街であるように表現しているし、やはりどっから見ても東京人から見たとしか思えないようなエセ京都人(清家)を小説の中に登場させている。また京都の喫茶店ではコーヒーに砂糖とミルクを入れて混ぜて持って来るのが一般的であるように解説していたが、これは大きな間違いである。京都も一般的にはコーヒーだけを持ってきて、あとは個人で砂糖、ミルクを好みに合わせて入れるようになっている。おそらく浅田次郎は京都で有名なイノダ・コーヒーが、そのようなスタイルでコーヒーを出したので、それが一般的と思ったのかどうかは知らないが、少なくとも京都のことに関しては私の方が遥かに詳しいだろう。それに京都の人は、東京の言葉を標準語なんて本音では誰も思ってない(特にあの時代の人は)。あれも東京弁、江戸弁という一方言だと思っている人が多いということ。これは1000年の都人である京都人のプライドといえばいいのだろうか・・・・・。余所の人が京都人を書く難しさはそこにあると思う。でも、この辺の可笑しさは指摘しておくものの、これもご愛嬌と思えば楽しく読める小説である
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