2007.11.13 (Tue)
鉄腕稲尾死す
今朝、テレビのニュースで往年の西鉄ライオンズのエース稲尾和久が亡くなったことを知った。悪性腫瘍による急死で、年齢は70歳だったという。そこで、私はこのニュースを聞いて、まず思ったこと・・・・あんな人間離れした人でも死ぬのだ・・・・・。
私が小学生の頃、野球は現在よりも人気があった。あの頃、ブロスポーツといえば、プロ野球、大相撲、ボクシング、そして力道山のプロレスぐらいしかなかった。今のようにJリーグなんてないし、他のスポーツもテレビ中継など、ほとんどなかった。そんな時代だから、少年達はプロ野球に一喜一憂していたものだ。最も私は、みんなほど野球が好きではなかったが、それでも日本シリーズなんかはテレビでよく観ていたものだ。だから当時のブロ野球選手というのは子供の憧れの的であり、花形選手ともなると、超人だと思っていた。もちろん今でもイチローのようなスター選手もいるが、当時の野球選手というのは、何れもが個性に溢れ、我こそはといった気風が感じ取られたものである。だから単純に数字を比較してみるだけなら、当時の選手の生み出した記録というものはもう破れないのではというのが多数存在する。ただ打者に関しては現在の方が進歩していると感じるが、投手に関してはとてもじゃないが、現役の投手には、もう2度と破れない記録がずらりと並んでいる。
打者では、王貞治の通算ホームラン数は、2度と破れないだろう。ただし、この記録は球場が狭い時代の記録で、一概にどれだけ凄いのかと言っても伝わりにくい。現在の球場の広さで換算すると、868本のホームラン数の1割か2割か3割は減るだろうし、今のように先発、中継ぎ、クローザーと投手の役割分担がはっきりしている中で、あれだけのホームランを打つのも難しいと思える。
ところが投手の記録になると、話は違ってくる。昔は先発して完投が当たり前という時代だったから、当然のように現在とは野球のスタイルが違っている。だから20勝投手がゴロゴロいた。また、それが一流投手の条件であった。現在なら、20勝投手の出現も難しく、それこそ何年に一人ぐらいしか出なくなった。だから現在のように打高投低の時代と違って、当時の投手は超人ではないかというような人が大勢いたものである。通算400勝もした金田正一、年間奪三振401の江夏豊、年間38勝4敗の杉浦忠、高校2年中退でプロ入りしていきなり20勝した怪童・尾崎行雄・・・・・・。
そんな数多い、超人的な投手達の中で、最も私が人間離れしていると感じる投手が稲尾和久だったのである。もう神様、仏様、稲尾様といわれた稲尾和久のことは語りつくされているから、あまり述べることもないが、1年間で42勝を挙げたり、巨人との日本シリーズで3連敗から4連勝した逆転優勝の4勝を稲尾1人で挙げたり、新人の時の年間防御率が1.06だったり、入団から8年で234勝挙げてみたり、とにかく数字だけを見ると、本当!!・・・・・と言いたくなる。
だが、残念ながら私は稲尾和久の全盛期を知らない。私がプロ野球を観出した頃の稲尾は、往年の剛球は峠を越し、抜群の制球力で打たせない技巧派に転換している時期だった。でも聞くところによると、稲尾という投手は、シュートとスライダーを武器にしていたが、バッターと対峙した時、相手の動きを瞬時に判断して、リリース寸前で指の位置を変えることが可能だったと言う。指からボールが離れる直前に、バッターの動きを見て、スライダーを狙っていると判ると、瞬時でシュートの投げ方に変えることが出来たのである。だから巨人の川上哲治が「当時の稲尾君から、ヒットを3本続けて打つことなど有り得ない」と言ってたのである。
とにかく、稲尾という人は私にとっては最も人間離れしていた野球選手であった。昭和31年に西鉄ライオンズに入団するや、たちまちエースに伸し上がり巨人を破って日本一になり、翌年も日本一、3年目も日本一、神様、仏様、稲尾様と崇められ、昭和39年に肩を痛めてからは成績もガタ落ちするが、それまでは登板過多で先発にリリーフに獅子奮迅の活躍をしていた。
その後、西鉄の監督に就任したが、八百長事件に絡む西鉄の黒い霧事件でエースの池永を中心に、選手の何人かが永久追放され、西鉄は一気に弱小球団へと転落してしまう。やがて西鉄ライオンズは身売りされ、太平洋クラブ・ライオンズ、クラウンライター・ライオンズ、そして西武ライオンズとなり福岡の地を離れ、埼玉へ移転することとなった。そんな西鉄の晩年を監督として過ごした稲尾和久である。その後、一度はユニフォームを脱ぐが、再び監督に就任したのは1984年だった。その時はロッテの監督で、当時のロッテの主力バッターが落合博満であった。現在は中日ドラゴンズの監督を務める落合博満であるが、オレ流というだけに、一風変わった選手であり一匹狼であった。しかし、稲尾和久を師と仰ぎ、落合が唯一、聞き耳をたてる人物だという。落合が三冠王を3度獲得しているが、その中で2度は稲尾監督時代に達成したものである。このように稲尾という人は、超人的な記録を残す大投手であったが、やはり個性の強い落合を御せるただ一人の人物だったのだ。つまり超人は超人を知るのかもしれない。
選手、監督を含めて全てパ・リーグに在籍していた稲尾和久は、長島や王や金田ほど、注目されなかったが、その安定感といい、堅実な成績といい、驚異的なスタミナといい、私は2度と現れない人間離れした投手としてこれからも長らく記憶に留めるであろう。
私が小学生の頃、野球は現在よりも人気があった。あの頃、ブロスポーツといえば、プロ野球、大相撲、ボクシング、そして力道山のプロレスぐらいしかなかった。今のようにJリーグなんてないし、他のスポーツもテレビ中継など、ほとんどなかった。そんな時代だから、少年達はプロ野球に一喜一憂していたものだ。最も私は、みんなほど野球が好きではなかったが、それでも日本シリーズなんかはテレビでよく観ていたものだ。だから当時のブロ野球選手というのは子供の憧れの的であり、花形選手ともなると、超人だと思っていた。もちろん今でもイチローのようなスター選手もいるが、当時の野球選手というのは、何れもが個性に溢れ、我こそはといった気風が感じ取られたものである。だから単純に数字を比較してみるだけなら、当時の選手の生み出した記録というものはもう破れないのではというのが多数存在する。ただ打者に関しては現在の方が進歩していると感じるが、投手に関してはとてもじゃないが、現役の投手には、もう2度と破れない記録がずらりと並んでいる。
打者では、王貞治の通算ホームラン数は、2度と破れないだろう。ただし、この記録は球場が狭い時代の記録で、一概にどれだけ凄いのかと言っても伝わりにくい。現在の球場の広さで換算すると、868本のホームラン数の1割か2割か3割は減るだろうし、今のように先発、中継ぎ、クローザーと投手の役割分担がはっきりしている中で、あれだけのホームランを打つのも難しいと思える。
ところが投手の記録になると、話は違ってくる。昔は先発して完投が当たり前という時代だったから、当然のように現在とは野球のスタイルが違っている。だから20勝投手がゴロゴロいた。また、それが一流投手の条件であった。現在なら、20勝投手の出現も難しく、それこそ何年に一人ぐらいしか出なくなった。だから現在のように打高投低の時代と違って、当時の投手は超人ではないかというような人が大勢いたものである。通算400勝もした金田正一、年間奪三振401の江夏豊、年間38勝4敗の杉浦忠、高校2年中退でプロ入りしていきなり20勝した怪童・尾崎行雄・・・・・・。
そんな数多い、超人的な投手達の中で、最も私が人間離れしていると感じる投手が稲尾和久だったのである。もう神様、仏様、稲尾様といわれた稲尾和久のことは語りつくされているから、あまり述べることもないが、1年間で42勝を挙げたり、巨人との日本シリーズで3連敗から4連勝した逆転優勝の4勝を稲尾1人で挙げたり、新人の時の年間防御率が1.06だったり、入団から8年で234勝挙げてみたり、とにかく数字だけを見ると、本当!!・・・・・と言いたくなる。
だが、残念ながら私は稲尾和久の全盛期を知らない。私がプロ野球を観出した頃の稲尾は、往年の剛球は峠を越し、抜群の制球力で打たせない技巧派に転換している時期だった。でも聞くところによると、稲尾という投手は、シュートとスライダーを武器にしていたが、バッターと対峙した時、相手の動きを瞬時に判断して、リリース寸前で指の位置を変えることが可能だったと言う。指からボールが離れる直前に、バッターの動きを見て、スライダーを狙っていると判ると、瞬時でシュートの投げ方に変えることが出来たのである。だから巨人の川上哲治が「当時の稲尾君から、ヒットを3本続けて打つことなど有り得ない」と言ってたのである。
とにかく、稲尾という人は私にとっては最も人間離れしていた野球選手であった。昭和31年に西鉄ライオンズに入団するや、たちまちエースに伸し上がり巨人を破って日本一になり、翌年も日本一、3年目も日本一、神様、仏様、稲尾様と崇められ、昭和39年に肩を痛めてからは成績もガタ落ちするが、それまでは登板過多で先発にリリーフに獅子奮迅の活躍をしていた。
その後、西鉄の監督に就任したが、八百長事件に絡む西鉄の黒い霧事件でエースの池永を中心に、選手の何人かが永久追放され、西鉄は一気に弱小球団へと転落してしまう。やがて西鉄ライオンズは身売りされ、太平洋クラブ・ライオンズ、クラウンライター・ライオンズ、そして西武ライオンズとなり福岡の地を離れ、埼玉へ移転することとなった。そんな西鉄の晩年を監督として過ごした稲尾和久である。その後、一度はユニフォームを脱ぐが、再び監督に就任したのは1984年だった。その時はロッテの監督で、当時のロッテの主力バッターが落合博満であった。現在は中日ドラゴンズの監督を務める落合博満であるが、オレ流というだけに、一風変わった選手であり一匹狼であった。しかし、稲尾和久を師と仰ぎ、落合が唯一、聞き耳をたてる人物だという。落合が三冠王を3度獲得しているが、その中で2度は稲尾監督時代に達成したものである。このように稲尾という人は、超人的な記録を残す大投手であったが、やはり個性の強い落合を御せるただ一人の人物だったのだ。つまり超人は超人を知るのかもしれない。
選手、監督を含めて全てパ・リーグに在籍していた稲尾和久は、長島や王や金田ほど、注目されなかったが、その安定感といい、堅実な成績といい、驚異的なスタミナといい、私は2度と現れない人間離れした投手としてこれからも長らく記憶に留めるであろう。
2007.11.13 (Tue)
大阪の中之島を歩く・・・・・西部
四つ橋筋から、さらに中之島を西に向って歩くと関西電力ビルが目立っている。41階で195mの高さがある。しかし、大阪の中之島は梅田ほどではないが、大阪空港の発着航路の関係で、航空法により高さ制限がある。だから中之島は200m超のビルを簡単に建てる事は出来ない。
関西電力ビルの西側には大阪市立科学館がある。前身は日本で初めてプラネタリウムを導入した大阪市立電気科学館(四ツ橋にあった)で、1989年にこの場所へ移転した。
大阪市立科学館の前には国立国際美術館のエントランスがある。この金属のパイプとガラスで覆われた現代アートのような物体が美術館の入り口である。かつて万国博記念公園内にあった国立国際美術館が老朽化によって閉鎖され、2004年11月に、この場所に移って来た。この美術館は全面地下の美術館で、地下3階まであり、常設展示と企画展示がそれぞれの階で別れている。
国立国際美術館の付近から、堂島川を挟み福島の方角に視線を移すと、建築中のビルが数棟、見受けられる。かつてここは阪大病院(大阪大学付属病院)のあったとろだ。10数年前までは、それこそ古臭い阪大病院が立っていた。私は今から20年ほど前、入院中の職場の女性を見舞うため、阪大病院を訪れたことがある。それは汚い病院だった。かつて『愛と死をみつめて』なんていう、マコとミコの実話が、この病院の中で繰り広げられていたが、それも今や過去の話。阪大病院は吹田市の万国博記念公園の北隣に移転した。そして、現在はご覧の通りの姿である。右から法務庁舎、そして建築中の低層マンションと、1200人収容のホールと商業施設。その後ろが50階建ての超高層マンション。最上階は分譲価格が4億とも5億ともいわれる(誰が住むのかな・・・・)。1番左はABC朝日放送の新社屋。ここが完成すると、大淀の朝日放送社屋は閉鎖されるのである。
中之島も玉江橋を過ぎ、さらに西へ行くとリーガ・ロイヤル・ホテルが目に入る。関西財界の迎賓館と言われる老舗の高級ホテルである。一度、宿泊してみたいものだ・・・。
この高さが100mを超える巨体な建物は、通称グランキューブと呼ばれる大阪国際会議場である。中には3000人収容のホールや会議室、その他、イベント可能なスペースが多数あるが、私は1度も入ったことがない。
昨日と今日、中之島を撮った写真を掲載しましたが、中之島は現在建築中の超高層ビルがあったり、京阪電車延伸工事中だったり、近代美術館の建築計画があったり、これから将来にかけて街が変わっていきそうで目が離せません。
関西電力ビルの西側には大阪市立科学館がある。前身は日本で初めてプラネタリウムを導入した大阪市立電気科学館(四ツ橋にあった)で、1989年にこの場所へ移転した。
大阪市立科学館の前には国立国際美術館のエントランスがある。この金属のパイプとガラスで覆われた現代アートのような物体が美術館の入り口である。かつて万国博記念公園内にあった国立国際美術館が老朽化によって閉鎖され、2004年11月に、この場所に移って来た。この美術館は全面地下の美術館で、地下3階まであり、常設展示と企画展示がそれぞれの階で別れている。
国立国際美術館の付近から、堂島川を挟み福島の方角に視線を移すと、建築中のビルが数棟、見受けられる。かつてここは阪大病院(大阪大学付属病院)のあったとろだ。10数年前までは、それこそ古臭い阪大病院が立っていた。私は今から20年ほど前、入院中の職場の女性を見舞うため、阪大病院を訪れたことがある。それは汚い病院だった。かつて『愛と死をみつめて』なんていう、マコとミコの実話が、この病院の中で繰り広げられていたが、それも今や過去の話。阪大病院は吹田市の万国博記念公園の北隣に移転した。そして、現在はご覧の通りの姿である。右から法務庁舎、そして建築中の低層マンションと、1200人収容のホールと商業施設。その後ろが50階建ての超高層マンション。最上階は分譲価格が4億とも5億ともいわれる(誰が住むのかな・・・・)。1番左はABC朝日放送の新社屋。ここが完成すると、大淀の朝日放送社屋は閉鎖されるのである。
中之島も玉江橋を過ぎ、さらに西へ行くとリーガ・ロイヤル・ホテルが目に入る。関西財界の迎賓館と言われる老舗の高級ホテルである。一度、宿泊してみたいものだ・・・。
この高さが100mを超える巨体な建物は、通称グランキューブと呼ばれる大阪国際会議場である。中には3000人収容のホールや会議室、その他、イベント可能なスペースが多数あるが、私は1度も入ったことがない。
昨日と今日、中之島を撮った写真を掲載しましたが、中之島は現在建築中の超高層ビルがあったり、京阪電車延伸工事中だったり、近代美術館の建築計画があったり、これから将来にかけて街が変わっていきそうで目が離せません。
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