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2008.05.20 (Tue)

ジミ・ヘンドリックスのアルバムを聴く・・・・・『アー・ユー・エクスペリエンス』

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 1970年の夏休み、映画『ウッドストック』が上映された。10代の少年だった私は暑い最中、映画館に足を運んだが、平日ということもあって館内はガラガラで、私以外ではサラリーマン風の人が3人と、ヒッピー風の若者が数人しかいなかった。でも映画は新鮮さも手伝って、海外のミュージシャンが奏でる音の饗宴に私は時間を忘れて見入っていた。

 『ウッドストック』とは、1969年8月15日から17日までの3日間、アメリカ・ニューヨーク州のウッドストックで繰り広げられたロック・フェスティバルで、観衆が40万人、参加したミュージシャンが30組以上。ざっと名前を挙げるだけでもカントリー・ジョー、ジョン・セバスチャン、ジョニ・ミッチェル、ラヴィ・シャンカール、アーロー・ガスリー、ジョーン・パエズ、サンタナ、スライ&ファミリー・ストーン、シャナナ、ジャニス・ジョプリン、CCR、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、テン・イヤーズ・アフター、クロスビー,スティルス&ナッシュと当時の著名なフォーク、ロック、ブルースといったミュージシャンが大勢参加した。参加していない大物といえば、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ドアーズ、サイモン&ガーファンクル・・・ぐらいで、これだけの音楽アーティストが集まれば、さぞや見応えがあっただろうと思う。そんなウッドストックのロック・フェスティバルで、トリを務めたのがジミ・ヘンドリックスである。

 ジミ・ヘンドリックスが登場したのは、3日目の朝で観衆の大勢が帰ってしまっていた。だから観衆の盛り上がりもいまひとつであったが、私は映画のスクリーンから映し出されるジミ・ヘンドリックスに圧倒されたことはいうまでもない。登場するやいきなり『アメリカ国歌』を演奏し始めたのである。それも右利き用のギターを逆さにして、右手で弦をおさえ、左で弦をつまびくというとんでもない奏法で演奏するのである。『アメリカ国歌』のメロディの途中に、爆弾の破裂音や機関銃の効果音をギターで弾きこなし、当時、泥沼化していたベトナム戦争への大いなる皮肉を表現したのであった。そして、『アメリカ国歌』に続いて、激しい重低音と共に『Purple Haze』のイントロが始まり・・・・・・・Purple Haze was in my brain,lately things don't seem the same,actin' funny but I don't know why 'scuse me while I kiss the sky.・・・・・とジミ・ヘンドリックスのシャウトする声が館内に轟いていて、これが噂のジミ・ヘンドリックスかと思った。とにかく歯でギターを弾いたり、ギターを壊したり燃やしたりするパフォーマンスと卓越したギター演奏でそれ以前から有名であった。でも今と違って、当時は海外のロック・ミュージシャンの動く映像に触れることは簡単にできない時代であり、ラジオでも流行のポップスはよく聴かれるが、ジミ・ヘンドリックスあたりになると、マニアックな者しか聴かない音楽であった。だから私がまともなジミ・ヘンドリックスの動く映像を観たのは、この時が最初であった。その後はテレビでもジミ・ヘンドリックスの映像を良く取り上げるようになっていたと思うが、残念ながら『ウッドストック』の映画が上映されてから、一ヵ月後の1970年9月13日、ジミ・ヘンドリックスは27歳という若さで亡くなった。

 死因はバルビツール酸系の睡眠薬の大量摂取ということであったが、同時にアルコールも飲んでいたという。でもそれ以前から、薬物常用者であり、死の真相は不明ともいわれている。

 ジミ・ヘンドリックスを初めて聴いたのは、1967年初頭だったろうか。曲は『Hey Joe』だった。それは、その頃のポップスにありがちな判り易いサウンドではなく、重い響きのブルースで、とにかく音が大きくて驚いたものである。1966年から1967年というと音楽が変わっていく時代であり、ビートルズが歴史的アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を出すことでも判るがポップス全体が大きく動いていた。そんな最中にジミ・ヘンドリックスは母国アメリカではなくイギリスでデビューしたのである。つまりR&B色の強いロックは、時代が求めていた音楽だったのかもしれない。だから時を同じくしてクリームやヴァニラ・ファッジ等もデビューしているし、ヤードバーズも健在であった。でも、そんな中でジミ・ヘンドリックスの存在は異色であった。

 まず彼は黒人であったこと。それにアメリカ人なのにイギリスでデビューしたこと。それと何よりも恐るべきギター・テクニックの持ち主であったこと。その頃、私は『ミュージック・ライフ』等の雑誌をよく読んでいたが、ジミ・ヘンドリックスは、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出されてイギリスへやって来て、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)というイギリスの白人とグループを組むという風変わりさ。また提供している音楽もハードなブルース色の強い難解なものであったこと。だから日本ではなかなか大衆受けしなかった。だが、イギリスで火がつきアメリカでもファンが増え、徐々にジミ・ヘンドリックスのギター演奏とパフォーマンスが評判を呼び、日本でもジミ・ヘンドリックスの特集が音楽雑誌で組まれるようになっていったように思う。

 彼はシアトルで1942年に生まれている。父は黒人で母はアメリカの先住民族だという。だから純粋な黒人ではない。子供時代は貧しくて多くのミュージシャン同様、彼もレコードを聴いて育ったという。15歳でギターを始め、主にR&B、ロックンロールを聴いて独学でギターを習得、10代はアマチュア・バンドでギターを弾いて、軍隊に入隊し、除隊後、プロとして音楽活動を開始。当初はバックミュージシャンだったが、この頃にB・B・キング、サム・クック、アイク&ティナ・ターナー、リトル・リチャード等と一緒に音楽ツアーに参加していた。そして、1966年夏、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出された事実は、先ほどに述べた通りである。

 その後、ジミ・ヘンドリックスは1969年になってエクリベリエンスを解散し、今度は黒人2人とバンド・オブ・ジプシーを結成するが、1970年の初頭に解散している。

 結局、ジミ・ヘンドリックスは表舞台に出てからだと、僅か実動4年という短い期間で生涯を終えてしまった。でも伝説のギタリストとして、語り草になるほど後世に名を残していて、今でも史上最高のギタリストだとして評価を与える人は実に多い。僅か27年の生涯だっただけに、急逝したのが惜しまれるミュージシャンであった。

 『Foxy Lady』を演奏するジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス


 ウッドストックの中で『アメリカ国歌』を演奏するジミ・ヘンドリックス


 ウッドストックの中で『Purple Haze』を演奏するジミ・ヘンドリックス

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