2008.05.29 (Thu)
雑感・日本ダービー
今週の日曜日、いよいよ第75回日本ダービーが行われる。今年は傑出馬不在で、混戦ダービーと言われる中、安定感で№1のマイネルチャールズが1番人気になるのだろうか。でも好事魔多しでダービーだけは何が起こるか判らない。でも、最近のダービーは比較的、人気馬が勝っているようだし、混戦だからと言って穴馬券ばかり狙うと案外、本線で決まることも多くますます悩んでしまう。
私は競馬暦が長く、初めて日本ダービーをテレビの生中継で観たのが小学生の時の第32回ダービーで、この時は雨の降る中をキーストンが逃げ切った。この年以来、ダービーはほとんど生中継で観ているか、東京競馬場において現場観戦している。しかし、はっきり言って最近のダービーは面白くない。確かに競馬の祭典らしく、観ることは観るが、昔のように胸がワクワクすることはなく、レースが淡々と始まって淡々と終わってしまう。何故なのかと考えてみたが、最大の原因は頭数が少なくなってしまったからに他ならない。
今は馬券の関係でフルゲートが18頭と決まってしまい、ダービーでさえも例外ではなくなった。だから紛れも少なく、本命馬が勝つ要素が高まり、強い馬が強い勝ち方をするレースとして印象の強いレースだと思っている人が多いかもしれない。でも私の年代の競馬ファンからすると、ダービーというのは時々、予期せぬことが起こり、予期せぬ馬が勝つレースと言った印象の方が強く、またそんな時の方が記憶に残る可能性が高かったものである。
私が競馬に興味を持ち出した頃の日本ダービーというのは、フルゲートが28頭で、今よりも10頭多く出走していた。だからダービーだけは画面を見ただけで、すぐに判るレースであったのだ。今のように頭数が少ないと、東京の2400mの条件レースとダービーの両方を音声無しの映像で見せられると区別はつかないだろう。しかし、28頭も出てくると、枠順によって有利不利が絶対的に働くので、連枠で8枠に入ってしまうと出走馬の関係者は目の前が真っ暗になったという。枠順が確定した段階で、大外の25番、26番、27番、28番あたりの出走馬は勝利を半分諦めたものである。
だから28頭も出ていた頃には、第1コーナーを10番手以内で回ることがダービー・ポジションと言われ、スタートから各馬が物凄いダッシュで殺到したものである。そんな時であっただろうか、ドロンコの馬場で行われた昭和44年(1969年)の日本ダービー・・・・・何と1番人気のタカツバキがスタートから100mも行かないうちに落馬したのは・・・・。タカツバキは内から外から馬が寄ってきた反動で驚いたのか一瞬、立ち上がったような感じになり騎手の嶋田功が落馬したのである。テレビの映像はその時のシーンを捉えてなかったが、実況している鳥居アナウンサーの横で解説者が「アッ!」という声を出した。すると「タカツバキは落馬しています」とアナウンサーが実況し、馬群の後ろからカラ馬のタカツバキが走っていく映像が映し出されていた。タカツバキは抽選馬であり安馬だった。だから安馬にダービーを勝たれてしまっては、色々と問題が残るから誰かが落馬させようと仕組んだのだという声もあがったダービーである。それでこの時、勝った馬がダイシンボルガードであったが、ダイシンボルガードの石田厩務員(当時は確か馬手という呼び方をしていたと思う)が「俺の馬だ!」と叫んで、馬場の中へ入ってしまいゴールへ向って走り出したのである。今では考えられないような出来事が次から次へと起こるダービーであった。
私が初めて東京競馬場で日本ダービーを観戦したのは昭和47年(1972年)のことである。まだ国鉄の武蔵野線が開通してなくて、新宿から京王帝都で東府中まで行き、そこから降りて歩いて行ったものだ。だがあいにく7月に行なわれたダービーで、梅雨もまだ明けてなく小雨が降っている中、行なわれ、レースは見応えがあった。27頭立てで、スタートから四白流星といわれたタイテエムが、22番枠から猛ダッシュで先行集団にとりついて行こうとするシーンが今でも焼きついている。ところが逃げる予定であったトルーエクスプレスがダッシュに失敗し、逃げる予定のなかったスガノホマレが先頭に立ってしまったので、スガノホマレの騎手が馬を抑えにかかった。すると超スローペースになってしまい、向こう正面から27頭が一塊になるという過去に見たことの無いようなダービーとなってしまった。3コーナーからユーモンドとタイテエムが先頭に立ち、そのまま4コーナーを回ると、何時の間にか皐月賞馬の2番人気ランドプリンスがタイテエムの外から進出していた。あとゴールまで200m、ここでタイテエム、ランドプリンスの競り合いに加わったのが武邦彦(武豊の父)の乗る1番人気ロングエースであった。ここから1番人気ロングエース、2番人気ランドプリンス、3番人気タイテエムの3強がデッドヒートを繰り広げ、人気順にゴールしたという実に見応えのあるレースであった。
次にダービーを現場観戦したのは昭和57年(1982年)で、この時が最後の28頭立てであった。この年のダービー、快速馬ロングヒエンが絶好の5番枠からハナを奪うだろうと私は考えていた。ところが全馬ゲートイン完了して、さあスタートと思ったとき、ロングヒエンがゲートを突き破り飛び出してしまったのである。困ったことに5番のゲートは閉まらない。仕方なくロングヒエンは30番枠からのスタートとなってしまった。25番よりも外の馬は勝ち目が無いと言われるダービーで、よりによって逃げるだろうといわれていたロングヒエンが30番ゲートからスタートなんて有り得ない。この時点で勝つ可能性どころか逃げることも不可能だろうと思えた。だがロングヒエンは大外の30番から馬場を斜めに横切って第1コーナー、第2コーナーを先頭で回り、向こう正面も悠々先頭。しかし、玉砕的なペースで逃げたせいか、最後の直線で失速してしまい15着に終わった。でもハイペースで逃げたから、勝ったバンブーアトラスは当時のダービー・レコード2分26秒5で突っ走った。
私は翌年の昭和58年(1983年)の第50回記念ダービーも東京競馬場で観戦した。この年はミスターシービーが3冠馬の栄誉に輝くのであるが、この馬は今でもそんなに強い馬だと私は思っていない。でも勝ち方は派手だった。ダービーでも第1コーナーを最後方で回り、向こう正面でも後方、(当時はターフビジョンなんてものはなく、私は必ずトランジスター・ラジオの実況を聴きながら観戦していた)、4コーナーで外の馬を弾き飛ばし内に斜行して妨害し、強い勝ち方だったが今では失格になっても仕方がないレースっぷりだった。考えてみれば当時は人気馬が斜行して勝ってもほとんど失格にはならなかったから、おおまかな時代だったのかもしれない。それ以外でも、カブラヤオーの弥生賞とか、今なら失格の可能性がある。それに昭和54年(1979年)のダービーの時のテルテンリュウも失格だろう。
その後、ダービーの現場観戦は敬遠している。何故かというと混雑するからである。私がダービーの観戦に行ってた頃は、ビニール・シートで席取りをする輩もいなかったし、パドックが横断幕だらけということもなかったし、メイン・レースの何レースも前からパドックの最前列で写真を撮るために陣取りしている連中もいなかった。いわば、前時代のダービーの光景がまだあったものだ。それが今は、○○コールで、吹奏楽団がGⅠファンファーレを演奏し、それに応えるように手拍子して歓喜する。今やもうお決まりの光景であるが、あの雰囲気が苦手で行きたくなくなったというのもあるのだ。もう、今や私が観てワクワクした時代の日本ダービーではなくなっている。でも今年も行われ、第75代目のダービー馬が誕生するのである。だから最近になってダービーを観戦し始めたと言う競馬ファンは、今の情景が日本ダービーだと思ってしまうだろう。でも30年、40年前のダービーの光景とは違うということ、それを言いたかったのである。
私は競馬暦が長く、初めて日本ダービーをテレビの生中継で観たのが小学生の時の第32回ダービーで、この時は雨の降る中をキーストンが逃げ切った。この年以来、ダービーはほとんど生中継で観ているか、東京競馬場において現場観戦している。しかし、はっきり言って最近のダービーは面白くない。確かに競馬の祭典らしく、観ることは観るが、昔のように胸がワクワクすることはなく、レースが淡々と始まって淡々と終わってしまう。何故なのかと考えてみたが、最大の原因は頭数が少なくなってしまったからに他ならない。
今は馬券の関係でフルゲートが18頭と決まってしまい、ダービーでさえも例外ではなくなった。だから紛れも少なく、本命馬が勝つ要素が高まり、強い馬が強い勝ち方をするレースとして印象の強いレースだと思っている人が多いかもしれない。でも私の年代の競馬ファンからすると、ダービーというのは時々、予期せぬことが起こり、予期せぬ馬が勝つレースと言った印象の方が強く、またそんな時の方が記憶に残る可能性が高かったものである。
私が競馬に興味を持ち出した頃の日本ダービーというのは、フルゲートが28頭で、今よりも10頭多く出走していた。だからダービーだけは画面を見ただけで、すぐに判るレースであったのだ。今のように頭数が少ないと、東京の2400mの条件レースとダービーの両方を音声無しの映像で見せられると区別はつかないだろう。しかし、28頭も出てくると、枠順によって有利不利が絶対的に働くので、連枠で8枠に入ってしまうと出走馬の関係者は目の前が真っ暗になったという。枠順が確定した段階で、大外の25番、26番、27番、28番あたりの出走馬は勝利を半分諦めたものである。
だから28頭も出ていた頃には、第1コーナーを10番手以内で回ることがダービー・ポジションと言われ、スタートから各馬が物凄いダッシュで殺到したものである。そんな時であっただろうか、ドロンコの馬場で行われた昭和44年(1969年)の日本ダービー・・・・・何と1番人気のタカツバキがスタートから100mも行かないうちに落馬したのは・・・・。タカツバキは内から外から馬が寄ってきた反動で驚いたのか一瞬、立ち上がったような感じになり騎手の嶋田功が落馬したのである。テレビの映像はその時のシーンを捉えてなかったが、実況している鳥居アナウンサーの横で解説者が「アッ!」という声を出した。すると「タカツバキは落馬しています」とアナウンサーが実況し、馬群の後ろからカラ馬のタカツバキが走っていく映像が映し出されていた。タカツバキは抽選馬であり安馬だった。だから安馬にダービーを勝たれてしまっては、色々と問題が残るから誰かが落馬させようと仕組んだのだという声もあがったダービーである。それでこの時、勝った馬がダイシンボルガードであったが、ダイシンボルガードの石田厩務員(当時は確か馬手という呼び方をしていたと思う)が「俺の馬だ!」と叫んで、馬場の中へ入ってしまいゴールへ向って走り出したのである。今では考えられないような出来事が次から次へと起こるダービーであった。
私が初めて東京競馬場で日本ダービーを観戦したのは昭和47年(1972年)のことである。まだ国鉄の武蔵野線が開通してなくて、新宿から京王帝都で東府中まで行き、そこから降りて歩いて行ったものだ。だがあいにく7月に行なわれたダービーで、梅雨もまだ明けてなく小雨が降っている中、行なわれ、レースは見応えがあった。27頭立てで、スタートから四白流星といわれたタイテエムが、22番枠から猛ダッシュで先行集団にとりついて行こうとするシーンが今でも焼きついている。ところが逃げる予定であったトルーエクスプレスがダッシュに失敗し、逃げる予定のなかったスガノホマレが先頭に立ってしまったので、スガノホマレの騎手が馬を抑えにかかった。すると超スローペースになってしまい、向こう正面から27頭が一塊になるという過去に見たことの無いようなダービーとなってしまった。3コーナーからユーモンドとタイテエムが先頭に立ち、そのまま4コーナーを回ると、何時の間にか皐月賞馬の2番人気ランドプリンスがタイテエムの外から進出していた。あとゴールまで200m、ここでタイテエム、ランドプリンスの競り合いに加わったのが武邦彦(武豊の父)の乗る1番人気ロングエースであった。ここから1番人気ロングエース、2番人気ランドプリンス、3番人気タイテエムの3強がデッドヒートを繰り広げ、人気順にゴールしたという実に見応えのあるレースであった。
次にダービーを現場観戦したのは昭和57年(1982年)で、この時が最後の28頭立てであった。この年のダービー、快速馬ロングヒエンが絶好の5番枠からハナを奪うだろうと私は考えていた。ところが全馬ゲートイン完了して、さあスタートと思ったとき、ロングヒエンがゲートを突き破り飛び出してしまったのである。困ったことに5番のゲートは閉まらない。仕方なくロングヒエンは30番枠からのスタートとなってしまった。25番よりも外の馬は勝ち目が無いと言われるダービーで、よりによって逃げるだろうといわれていたロングヒエンが30番ゲートからスタートなんて有り得ない。この時点で勝つ可能性どころか逃げることも不可能だろうと思えた。だがロングヒエンは大外の30番から馬場を斜めに横切って第1コーナー、第2コーナーを先頭で回り、向こう正面も悠々先頭。しかし、玉砕的なペースで逃げたせいか、最後の直線で失速してしまい15着に終わった。でもハイペースで逃げたから、勝ったバンブーアトラスは当時のダービー・レコード2分26秒5で突っ走った。
私は翌年の昭和58年(1983年)の第50回記念ダービーも東京競馬場で観戦した。この年はミスターシービーが3冠馬の栄誉に輝くのであるが、この馬は今でもそんなに強い馬だと私は思っていない。でも勝ち方は派手だった。ダービーでも第1コーナーを最後方で回り、向こう正面でも後方、(当時はターフビジョンなんてものはなく、私は必ずトランジスター・ラジオの実況を聴きながら観戦していた)、4コーナーで外の馬を弾き飛ばし内に斜行して妨害し、強い勝ち方だったが今では失格になっても仕方がないレースっぷりだった。考えてみれば当時は人気馬が斜行して勝ってもほとんど失格にはならなかったから、おおまかな時代だったのかもしれない。それ以外でも、カブラヤオーの弥生賞とか、今なら失格の可能性がある。それに昭和54年(1979年)のダービーの時のテルテンリュウも失格だろう。
その後、ダービーの現場観戦は敬遠している。何故かというと混雑するからである。私がダービーの観戦に行ってた頃は、ビニール・シートで席取りをする輩もいなかったし、パドックが横断幕だらけということもなかったし、メイン・レースの何レースも前からパドックの最前列で写真を撮るために陣取りしている連中もいなかった。いわば、前時代のダービーの光景がまだあったものだ。それが今は、○○コールで、吹奏楽団がGⅠファンファーレを演奏し、それに応えるように手拍子して歓喜する。今やもうお決まりの光景であるが、あの雰囲気が苦手で行きたくなくなったというのもあるのだ。もう、今や私が観てワクワクした時代の日本ダービーではなくなっている。でも今年も行われ、第75代目のダービー馬が誕生するのである。だから最近になってダービーを観戦し始めたと言う競馬ファンは、今の情景が日本ダービーだと思ってしまうだろう。でも30年、40年前のダービーの光景とは違うということ、それを言いたかったのである。
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