2008.05.26 (Mon)
青葉繁れる桜井の
こんな歌をご存知だろうか。
~青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
いまはここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ
これは題名を『桜井の訣別』といい、全部で6番まであり、楠木正成と息子・楠木正行(まさつら)の別れの情景を歌った唱歌である。作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭で、歌が出来たのは何と1899年(明治32年)というから驚く。この歌は今では誰も歌はなくなったし歌の存在さえ知らない人が大半である。でも戦前の日本では誰もが知っている歌であったという。それなら何故、戦前に国民がみんな知っていたのかというと、それは皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のため戦場に赴く姿が『忠臣の鑑』『日本人の鑑』として讃えられ、修身教育で祀られたからである。
当時の天皇を中心とした皇国史観の教えを日本国民に浸透させるため利用されたといえば言葉は悪いが、とにかく楠正成という人物は崇められたのである。だから楠木正成と縁もゆかりもない東京に大きな楠木正成像があるのはおかしいと思うが、天皇家に忠誠を尽くしたからということで皇居前広場に大楠公像が存在するのである。でも一般的に楠木正成という人は何をやった人なのだと問われると、今では名前さえ知らない人の方が多いかもしれない。
時は鎌倉幕府が危うい頃の話で、腐敗しきった幕府を倒幕しようと後醍醐天皇の論旨を受けて足利高氏を始めとする諸国の武士が立ち上がった。そんな中に河内の豪族・楠木正成がいる。当初は幕府軍に属していた新田義貞等の軍が楠木正成の居城である赤坂城を攻めるが、城を焼いて姿をくらましてしまう。再起した楠木正成は赤坂城の背後に千早城を建て、今度は数万とも数十万ともいわれる幕府軍に対し、100日間篭城し撤退させている。その間に新田義貞は幕府を見限って手薄となった鎌倉を攻め、幕府は滅亡してしまうのである。
鎌倉幕府滅亡の後、後醍醐天皇は朝廷の復権を計ろうと建武の新政を実現する。だが、この新政は武士達の不満を招き足利尊氏が離反してしまったのである。次第に権力を拡大している足利尊氏に対し、朝廷側は工作し足利尊氏を九州に追いやったのであるが、足利尊氏は大軍を率いて京都に再び攻め上ってくるのであった。
そんな時、後醍醐天皇に当初から忠誠を尽くしていた楠木正成の話が持ち上げられるのである。楠木正成は朝廷側の新田義貞の才能を見限っていて、後醍醐天皇に尊氏と和睦するように勧め、一旦、京都を離れて比叡に登り、空になった都に足利軍を封じ込め兵糧攻めをするべきだと色々、進言するが受け入れられずやむなく勝算の無い戦いに挑もうとしていた。
こうして1336年5月、後醍醐天皇の信任を得た楠木正成は足利尊氏の大軍を迎え撃つべく兵庫の湊川へ向うこととなる。いわば決死の覚悟で京の都を発った楠木正成は、山城の国から摂津の国に入ったがまもなく桜井の駅に到着する。この時、楠正成は11歳の息子・楠木正行に河内の国・千早赤坂に帰るように言い渡すのである。・・・・・自分が討ち死にした後は足利尊氏の世になる。だが、助命を願って降伏したりすると楠木家の長年の奉公が泡と消える。たとえ一兵になろうとも最後まで千早赤坂に籠もり天皇を助けるように諭すのである。このようにして正行は、この桜井の駅で父と別れ、淀川を渡って樟葉に出て千早赤坂へ帰って行ったという。つまりこれが桜井の別れである。
戦前はこういった皇国史観の下、修身教育が盛んであり、忠誠という滅私奉公の精神が謳われ、大いに国民の涙を誘ったという。でも結局、戦後に民主主義が導入され、時代と共に大楠公、小楠公の話は忘れられていったのである。
ところで何故このような話をしたかというと、先日、その桜井の駅跡を訪れたからである。桜井の駅とは古代律令制度下の駅家(うまや)の跡で、大阪と京都を結ぶ交通の要所だから駅家が置かれていたという。またこの駅家は711年(和銅4年)に駅家が所在した記述が残っているから、すでに古代からあったとされる。
実は桜井の駅跡を訪れたのは偶然からである。昔から桜井の駅跡の場所は知っていたし、楠公父子訣別の地であることも知っていた。それに阪急電鉄の水無瀬駅から歩いて400mほどのところなので、今まで何度も来ている。しかし、今回JR東海道線の島本駅が開業して、何気なく新設の駅に降り立ってみたのである。するとこの島本駅の駅舎はなんと、桜井の駅跡の西側の一部に建てられていたのである。以前、訪れた時は青々とした森であったが、今回は半分ほど史跡が削られていて、駅跡の西側の一部は駅前のロータリーと駅舎に変っていた。
私は島本駅を降りて桜井の駅跡に行ってみると、そこには乃木希典筆による楠公父子訣別の所と書かれた石碑があり、すぐ側には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公と書かれてある。これは近衛文麿の筆によるもので、如何に大日本帝国時代には楠正成が崇められていたかということの証明であろう。今では右翼団体ぐらいしか~青葉繁れる桜井の~なんて歌は歌はないだろうが、戦前の人達は誰もが知っていた歌と聞くと、何だか複雑な心境に陥るのであった。
そんな新設の島本駅は東海道線の山崎と高槻の間に出来た駅である。所在地は大阪府三島郡島本町で、山崎~高槻の間、8㎞も駅がなく地元住民が長い間、嘆願してようやく新設された駅である。でも駅名も島本に決まるまで、喧々囂々と議論がなされたという。近くの阪急電鉄には水無瀬駅という名の駅があるが所在地は島本町である。でも島本よりも水無瀬神宮のお膝元だから水無瀬の方がいいという意見もあったり、桜井の駅駅という話もあったらしいが、結局は島本駅に治まったらしい。
また、この島本駅はJR西日本管内の駅では珍しく、電車の到着の際にメロディが流される。そのメロディが小林亜星作曲のサントリー・オールドのCMで使われる曲なのである。でもサントリー山崎蒸留所は確かに島本町にあるが、山崎蒸留所からだと約2㎞弱は離れている。山崎蒸留所はどちらかというと隣の山崎駅の方が遥かに近く島本駅からだと遠い。でも、サントリーの山崎蒸留所が所在する自治体だから電車の到着メロディをサントリー・オールドのCM曲に決めたといっても強引だなあと思ってしまう。せっかく、桜井の駅跡の側に駅があるのに何故、曲を青葉繁れる桜井の・・・・・ではなく、サントリー・オールドの曲に決めたかというのは、やはり皇国史観の教えで伝わった曲では今の時代にマッチしないということだろうか。でもサントリー・オールドの曲を使うのもおかしい気がするが・・・・・。この度、桜井の駅跡を訪れてみて色々な歴史観というものを考えさせられた。
桜井の駅跡には楠公父子訣別の所と書かれた石碑がある。この字は乃木希典の筆によるものだという。

同じく桜井の駅跡には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公という今では死後といってもいいような文字が書かれてある。この筆は近衛文麿によるものだそうだ。

真新しい島本駅の駅舎。この付近も以前は史跡の一部であった。

複々線でひっきりなしに電車、列車が通るが、この駅は島型式といってプラットホームが一つしかない。

京都方面行きの普通電車が到着しようとしている。12両連結の電車がやって来たが、新しい駅だから10両以上連結されていても停車出来るように造られている。

この島本駅はサントリー・オールドのCM曲が電車到着の時のメロディとして使われている。
~青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
いまはここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ
これは題名を『桜井の訣別』といい、全部で6番まであり、楠木正成と息子・楠木正行(まさつら)の別れの情景を歌った唱歌である。作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭で、歌が出来たのは何と1899年(明治32年)というから驚く。この歌は今では誰も歌はなくなったし歌の存在さえ知らない人が大半である。でも戦前の日本では誰もが知っている歌であったという。それなら何故、戦前に国民がみんな知っていたのかというと、それは皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のため戦場に赴く姿が『忠臣の鑑』『日本人の鑑』として讃えられ、修身教育で祀られたからである。
当時の天皇を中心とした皇国史観の教えを日本国民に浸透させるため利用されたといえば言葉は悪いが、とにかく楠正成という人物は崇められたのである。だから楠木正成と縁もゆかりもない東京に大きな楠木正成像があるのはおかしいと思うが、天皇家に忠誠を尽くしたからということで皇居前広場に大楠公像が存在するのである。でも一般的に楠木正成という人は何をやった人なのだと問われると、今では名前さえ知らない人の方が多いかもしれない。
時は鎌倉幕府が危うい頃の話で、腐敗しきった幕府を倒幕しようと後醍醐天皇の論旨を受けて足利高氏を始めとする諸国の武士が立ち上がった。そんな中に河内の豪族・楠木正成がいる。当初は幕府軍に属していた新田義貞等の軍が楠木正成の居城である赤坂城を攻めるが、城を焼いて姿をくらましてしまう。再起した楠木正成は赤坂城の背後に千早城を建て、今度は数万とも数十万ともいわれる幕府軍に対し、100日間篭城し撤退させている。その間に新田義貞は幕府を見限って手薄となった鎌倉を攻め、幕府は滅亡してしまうのである。
鎌倉幕府滅亡の後、後醍醐天皇は朝廷の復権を計ろうと建武の新政を実現する。だが、この新政は武士達の不満を招き足利尊氏が離反してしまったのである。次第に権力を拡大している足利尊氏に対し、朝廷側は工作し足利尊氏を九州に追いやったのであるが、足利尊氏は大軍を率いて京都に再び攻め上ってくるのであった。
そんな時、後醍醐天皇に当初から忠誠を尽くしていた楠木正成の話が持ち上げられるのである。楠木正成は朝廷側の新田義貞の才能を見限っていて、後醍醐天皇に尊氏と和睦するように勧め、一旦、京都を離れて比叡に登り、空になった都に足利軍を封じ込め兵糧攻めをするべきだと色々、進言するが受け入れられずやむなく勝算の無い戦いに挑もうとしていた。
こうして1336年5月、後醍醐天皇の信任を得た楠木正成は足利尊氏の大軍を迎え撃つべく兵庫の湊川へ向うこととなる。いわば決死の覚悟で京の都を発った楠木正成は、山城の国から摂津の国に入ったがまもなく桜井の駅に到着する。この時、楠正成は11歳の息子・楠木正行に河内の国・千早赤坂に帰るように言い渡すのである。・・・・・自分が討ち死にした後は足利尊氏の世になる。だが、助命を願って降伏したりすると楠木家の長年の奉公が泡と消える。たとえ一兵になろうとも最後まで千早赤坂に籠もり天皇を助けるように諭すのである。このようにして正行は、この桜井の駅で父と別れ、淀川を渡って樟葉に出て千早赤坂へ帰って行ったという。つまりこれが桜井の別れである。
戦前はこういった皇国史観の下、修身教育が盛んであり、忠誠という滅私奉公の精神が謳われ、大いに国民の涙を誘ったという。でも結局、戦後に民主主義が導入され、時代と共に大楠公、小楠公の話は忘れられていったのである。
ところで何故このような話をしたかというと、先日、その桜井の駅跡を訪れたからである。桜井の駅とは古代律令制度下の駅家(うまや)の跡で、大阪と京都を結ぶ交通の要所だから駅家が置かれていたという。またこの駅家は711年(和銅4年)に駅家が所在した記述が残っているから、すでに古代からあったとされる。
実は桜井の駅跡を訪れたのは偶然からである。昔から桜井の駅跡の場所は知っていたし、楠公父子訣別の地であることも知っていた。それに阪急電鉄の水無瀬駅から歩いて400mほどのところなので、今まで何度も来ている。しかし、今回JR東海道線の島本駅が開業して、何気なく新設の駅に降り立ってみたのである。するとこの島本駅の駅舎はなんと、桜井の駅跡の西側の一部に建てられていたのである。以前、訪れた時は青々とした森であったが、今回は半分ほど史跡が削られていて、駅跡の西側の一部は駅前のロータリーと駅舎に変っていた。
私は島本駅を降りて桜井の駅跡に行ってみると、そこには乃木希典筆による楠公父子訣別の所と書かれた石碑があり、すぐ側には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公と書かれてある。これは近衛文麿の筆によるもので、如何に大日本帝国時代には楠正成が崇められていたかということの証明であろう。今では右翼団体ぐらいしか~青葉繁れる桜井の~なんて歌は歌はないだろうが、戦前の人達は誰もが知っていた歌と聞くと、何だか複雑な心境に陥るのであった。
そんな新設の島本駅は東海道線の山崎と高槻の間に出来た駅である。所在地は大阪府三島郡島本町で、山崎~高槻の間、8㎞も駅がなく地元住民が長い間、嘆願してようやく新設された駅である。でも駅名も島本に決まるまで、喧々囂々と議論がなされたという。近くの阪急電鉄には水無瀬駅という名の駅があるが所在地は島本町である。でも島本よりも水無瀬神宮のお膝元だから水無瀬の方がいいという意見もあったり、桜井の駅駅という話もあったらしいが、結局は島本駅に治まったらしい。
また、この島本駅はJR西日本管内の駅では珍しく、電車の到着の際にメロディが流される。そのメロディが小林亜星作曲のサントリー・オールドのCMで使われる曲なのである。でもサントリー山崎蒸留所は確かに島本町にあるが、山崎蒸留所からだと約2㎞弱は離れている。山崎蒸留所はどちらかというと隣の山崎駅の方が遥かに近く島本駅からだと遠い。でも、サントリーの山崎蒸留所が所在する自治体だから電車の到着メロディをサントリー・オールドのCM曲に決めたといっても強引だなあと思ってしまう。せっかく、桜井の駅跡の側に駅があるのに何故、曲を青葉繁れる桜井の・・・・・ではなく、サントリー・オールドの曲に決めたかというのは、やはり皇国史観の教えで伝わった曲では今の時代にマッチしないということだろうか。でもサントリー・オールドの曲を使うのもおかしい気がするが・・・・・。この度、桜井の駅跡を訪れてみて色々な歴史観というものを考えさせられた。
桜井の駅跡には楠公父子訣別の所と書かれた石碑がある。この字は乃木希典の筆によるものだという。

同じく桜井の駅跡には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公という今では死後といってもいいような文字が書かれてある。この筆は近衛文麿によるものだそうだ。

真新しい島本駅の駅舎。この付近も以前は史跡の一部であった。

複々線でひっきりなしに電車、列車が通るが、この駅は島型式といってプラットホームが一つしかない。

京都方面行きの普通電車が到着しようとしている。12両連結の電車がやって来たが、新しい駅だから10両以上連結されていても停車出来るように造られている。

この島本駅はサントリー・オールドのCM曲が電車到着の時のメロディとして使われている。
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