2008.01.09 (Wed)
伝統芸能は大阪で根付くのか?
大阪に一昨年オープンした落語の定席『天満天神繁昌亭』が活況で、連日のように人が押しかけ、オープン以来一年半で20万人以上が詰め掛けたという。
こんなことを書くと、大阪に落語なんて存在するのかと思われる方がいるかもしれないが、上方落語協会というものが昔からあって、その現会長が桂三枝である。でも大阪の落語があまり全国的に取り上げられないというのは、今まで落語の定席がなかったからであって、落語の発表会を開く場所も一定してなかったのである。また、大阪の寄席というと漫才が中心というイメージがあり、落語はキワモノ扱いという不遇の時代もあって、江戸落語に比べると肩身が狭かったのである。
しかし、落語は江戸が発祥の伝統芸能だと考えている人が多いとすれば、少し待ってくれといいたい。落語というのは現代では江戸落語が中心である。でも上方落語というのも細々と生き延びていたのである。
そもそも落語には元祖という人がいて、その人は曽呂利新左衛門だという。でも、この人物は架空の人だともいわれ、はっきりしたことが判らない。一説には豊臣秀吉に御伽噺を面白く聞かせたとも言われている。でも一般的に言われている落語家というものを辿ると鹿野武左衛門、露の五郎兵衛、米沢彦八の3人に行き当たる。この3人は何れも江戸時代初期、17世紀末に活躍した落語家とされる。今の形式とは違っていたであろうが、ほぼ同時期に江戸、京都、大坂に現れている。それで江戸落語の祖が鹿野武左衛門、京都での落語の祖が露の五郎兵衛、大坂での落語の祖が米沢彦八だといわれている。ところが、鹿野武左衛門という人は、実は大坂出身なのであって、この人が江戸に行って落語を広めたということは、つまり落語そのものが、上方から江戸へ伝えられたものであることも意味しているのである。だが、今日では江戸落語が継承されて今まで続いていたというのに、上方落語は消えかかっていたということがいえるのである。
ただこれは落語だけの問題ではなくて、伝統芸能というもの全般的に言えることなのであるが、歌舞伎、能・狂言、人形浄瑠璃というものが、発祥は全て京都・大坂の上方であるということ。それが現在においては江戸で花開き、現代では江戸の伝統芸能であるかのように語られることが多いという現実がある。
東京には歌舞伎座があって、公演の時はほとんど人で埋まっている。しかし、この歌舞伎の始まりというのは、1603年に出雲阿国が京都の北野天満宮でかぶき踊りを披露したのが最初であるとされている。また人形浄瑠璃でも文楽というのがあり、これも江戸時代初期に大坂で始まったとされるし、能・狂言も室町時代の奈良、京都に、大和猿楽の観阿弥、世阿弥が現れて、ここから能や狂言に発展したものであるといわれている。
さて、伝統芸能が京都や大坂で芽生えたというのに、現代においては関西で寂れて、東京で盛況というのはどういうことなのかと私は考えてみたのであるが・・・・・。
ところで、総務省の社会生活基本調査(2006年)というものがり、それによると関西人の文化に拘る時間の少なさを露呈した結果が数字に見て取れるのである。それによると、一年間になんらかの美術館賞をした人の割合は東京が28.0%、大阪が18.9%、京都が22.4%だという。そして、演劇や演芸、クラシック音楽の鑑賞、どれをとっても関西、とくに大阪の比率が低いという。
上の数字を見て、だから大阪の文化度は低いのであるといいたいが、これもよく考えれば、美術館や博物館、劇場、芝居小屋等が東京に集中しすぎたがために、起こっている数字であって、一概に言い切れないと思う。ただ、大阪は江戸時代の後期頃、住民の大半が商人だったという実態があって、商人というのは文化にあまり金を払わないというところがある。それに比べると江戸は武士が多く、あとは職人か農民で商人は少なかったのである。そして、京都は武士もいるが、公家が多く、職人もいるし、商人もいたのである。そういった中で、職業柄、教養を身に付けようとする人は武士や公家に多く、商人には文化というものは関心事ではなかったのである。つまり、どの職業の人で構成されていたのか、それぞれの街の性格がそのまま現代まで続いていて、それが習慣となっているように思える。
また東京の人が文化に金を出すというのは、ある意味では、自分を良く見せたいとする見栄が前面に出るからだろうと推測できるのであって、だから解らなくても一応は見栄を張って美術館賞もするし、観劇もするというところではないだろうか。それに比べると、大阪の人は自分を飾ろうとしないところがあり、興味ないものは一切手を出さない。見栄を張っても仕方がないといった人が多く、高尚なものよりも身の丈にあったものにしか興味を示さなかったといえるのである。でも見栄を張ってでも、解らない物に足を踏み入れる切っ掛けが無いと、一生触れることもないだろうし、解らなくとも接していると、いつか解る時が来るものである。だから見栄っ張りの東京人の方が文化に手を染めるということは言えるだろう。
さて、困ったのは文化に手を染めない大阪の人ということになるが、、多くの伝統芸能の発祥の地でありながら、大阪では人が入らないという理由で、歌舞伎役者まで東京に逃げられてしまってはどうしようもない。確かに、商人に学や教養は必要なかったかもしれないが、明治時代になっても、大学を大阪に建てようという時にでも、煙突の無い物はいらないというので、京都に建つことになった大学もあるぐらいだ。とにかく文化というものを敬遠していたところがあり、それが平成の今日でも続いているとしたら、大阪に美術館、劇場、芝居小屋の類が少ないのは自業自得としか言いようがない。ただ、これまで落語に関心が無いと思えた大阪の人が、定席小屋を連日大入にさせている現実を目の当りにすると、身近にあるのであれば手を染めようと思っている人が意外に多いものであることが判った。
21世紀になってから既に丸7年、大阪の人も徐々に趣味嗜好が変わりつつあるのかもしれない。でも、時すでに遅しと言えなくも無く、新歌舞伎座では歌舞伎の公演をやってないし、建物もいよいよ壊されるいう。道頓堀の五座あった芝居小屋は今や一つもない。現代は松竹座があるのみで、道頓堀は伝統芸能の欠片もない町になっている。それでも大阪には宝塚歌劇を生んだ土壌があり、立派に育ったが、これも東京に半分は持っていかれてしまった。
太古の昔から日本の政治・経済・文化の中心であった関西にあって、大阪は大衆文化の発展に寄与した土地柄である。井原西鶴、近松門左衛門等が出現し、日本の劇文化の礎を築いたところでもある。ある意味で、古い文化だけに頼っている京都と違って、今でも新しいものを生み出す気風がある。だから天満天神繁昌亭の活況を切っ掛けに、大阪の文化意識が庶民の間にも高まれば、それだけで街が活気づくと思うのであるが・・・・。何時までも大阪城、通天閣、吉本興業、阪神タイガース、たこ焼き・・・と思われていたのではお話にならないでしょう。
こんなことを書くと、大阪に落語なんて存在するのかと思われる方がいるかもしれないが、上方落語協会というものが昔からあって、その現会長が桂三枝である。でも大阪の落語があまり全国的に取り上げられないというのは、今まで落語の定席がなかったからであって、落語の発表会を開く場所も一定してなかったのである。また、大阪の寄席というと漫才が中心というイメージがあり、落語はキワモノ扱いという不遇の時代もあって、江戸落語に比べると肩身が狭かったのである。
しかし、落語は江戸が発祥の伝統芸能だと考えている人が多いとすれば、少し待ってくれといいたい。落語というのは現代では江戸落語が中心である。でも上方落語というのも細々と生き延びていたのである。
そもそも落語には元祖という人がいて、その人は曽呂利新左衛門だという。でも、この人物は架空の人だともいわれ、はっきりしたことが判らない。一説には豊臣秀吉に御伽噺を面白く聞かせたとも言われている。でも一般的に言われている落語家というものを辿ると鹿野武左衛門、露の五郎兵衛、米沢彦八の3人に行き当たる。この3人は何れも江戸時代初期、17世紀末に活躍した落語家とされる。今の形式とは違っていたであろうが、ほぼ同時期に江戸、京都、大坂に現れている。それで江戸落語の祖が鹿野武左衛門、京都での落語の祖が露の五郎兵衛、大坂での落語の祖が米沢彦八だといわれている。ところが、鹿野武左衛門という人は、実は大坂出身なのであって、この人が江戸に行って落語を広めたということは、つまり落語そのものが、上方から江戸へ伝えられたものであることも意味しているのである。だが、今日では江戸落語が継承されて今まで続いていたというのに、上方落語は消えかかっていたということがいえるのである。
ただこれは落語だけの問題ではなくて、伝統芸能というもの全般的に言えることなのであるが、歌舞伎、能・狂言、人形浄瑠璃というものが、発祥は全て京都・大坂の上方であるということ。それが現在においては江戸で花開き、現代では江戸の伝統芸能であるかのように語られることが多いという現実がある。
東京には歌舞伎座があって、公演の時はほとんど人で埋まっている。しかし、この歌舞伎の始まりというのは、1603年に出雲阿国が京都の北野天満宮でかぶき踊りを披露したのが最初であるとされている。また人形浄瑠璃でも文楽というのがあり、これも江戸時代初期に大坂で始まったとされるし、能・狂言も室町時代の奈良、京都に、大和猿楽の観阿弥、世阿弥が現れて、ここから能や狂言に発展したものであるといわれている。
さて、伝統芸能が京都や大坂で芽生えたというのに、現代においては関西で寂れて、東京で盛況というのはどういうことなのかと私は考えてみたのであるが・・・・・。
ところで、総務省の社会生活基本調査(2006年)というものがり、それによると関西人の文化に拘る時間の少なさを露呈した結果が数字に見て取れるのである。それによると、一年間になんらかの美術館賞をした人の割合は東京が28.0%、大阪が18.9%、京都が22.4%だという。そして、演劇や演芸、クラシック音楽の鑑賞、どれをとっても関西、とくに大阪の比率が低いという。
上の数字を見て、だから大阪の文化度は低いのであるといいたいが、これもよく考えれば、美術館や博物館、劇場、芝居小屋等が東京に集中しすぎたがために、起こっている数字であって、一概に言い切れないと思う。ただ、大阪は江戸時代の後期頃、住民の大半が商人だったという実態があって、商人というのは文化にあまり金を払わないというところがある。それに比べると江戸は武士が多く、あとは職人か農民で商人は少なかったのである。そして、京都は武士もいるが、公家が多く、職人もいるし、商人もいたのである。そういった中で、職業柄、教養を身に付けようとする人は武士や公家に多く、商人には文化というものは関心事ではなかったのである。つまり、どの職業の人で構成されていたのか、それぞれの街の性格がそのまま現代まで続いていて、それが習慣となっているように思える。
また東京の人が文化に金を出すというのは、ある意味では、自分を良く見せたいとする見栄が前面に出るからだろうと推測できるのであって、だから解らなくても一応は見栄を張って美術館賞もするし、観劇もするというところではないだろうか。それに比べると、大阪の人は自分を飾ろうとしないところがあり、興味ないものは一切手を出さない。見栄を張っても仕方がないといった人が多く、高尚なものよりも身の丈にあったものにしか興味を示さなかったといえるのである。でも見栄を張ってでも、解らない物に足を踏み入れる切っ掛けが無いと、一生触れることもないだろうし、解らなくとも接していると、いつか解る時が来るものである。だから見栄っ張りの東京人の方が文化に手を染めるということは言えるだろう。
さて、困ったのは文化に手を染めない大阪の人ということになるが、、多くの伝統芸能の発祥の地でありながら、大阪では人が入らないという理由で、歌舞伎役者まで東京に逃げられてしまってはどうしようもない。確かに、商人に学や教養は必要なかったかもしれないが、明治時代になっても、大学を大阪に建てようという時にでも、煙突の無い物はいらないというので、京都に建つことになった大学もあるぐらいだ。とにかく文化というものを敬遠していたところがあり、それが平成の今日でも続いているとしたら、大阪に美術館、劇場、芝居小屋の類が少ないのは自業自得としか言いようがない。ただ、これまで落語に関心が無いと思えた大阪の人が、定席小屋を連日大入にさせている現実を目の当りにすると、身近にあるのであれば手を染めようと思っている人が意外に多いものであることが判った。
21世紀になってから既に丸7年、大阪の人も徐々に趣味嗜好が変わりつつあるのかもしれない。でも、時すでに遅しと言えなくも無く、新歌舞伎座では歌舞伎の公演をやってないし、建物もいよいよ壊されるいう。道頓堀の五座あった芝居小屋は今や一つもない。現代は松竹座があるのみで、道頓堀は伝統芸能の欠片もない町になっている。それでも大阪には宝塚歌劇を生んだ土壌があり、立派に育ったが、これも東京に半分は持っていかれてしまった。
太古の昔から日本の政治・経済・文化の中心であった関西にあって、大阪は大衆文化の発展に寄与した土地柄である。井原西鶴、近松門左衛門等が出現し、日本の劇文化の礎を築いたところでもある。ある意味で、古い文化だけに頼っている京都と違って、今でも新しいものを生み出す気風がある。だから天満天神繁昌亭の活況を切っ掛けに、大阪の文化意識が庶民の間にも高まれば、それだけで街が活気づくと思うのであるが・・・・。何時までも大阪城、通天閣、吉本興業、阪神タイガース、たこ焼き・・・と思われていたのではお話にならないでしょう。
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