2008.02.14 (Thu)
市川昆逝去する
※市川昆の昆という字は本来、山冠の下に昆がくっつくのですが、その漢字に変換できないので、やむを得なく昆で通します。ご了承ください。
映画監督の市川昆が亡くなられた。92歳だという。高齢だから仕方が無いとは言え、だんだんと良い映画監督亡くなって行くのは寂しい。
市川昆といえば、最近まで元気で作品を撮られていたと思うが、遺作となったのが、『ユメ十夜・第二夜』(2007年)だという。この作品が監督の76本目の作品ということで、戦後に映画監督として第一作を製作してから、約60年で76本ということは、一年で一本以上の映画を製作していることになる。これはたいへんな製作ペースであるが、それでいて市川昆の映画は、標準以上の質の作品ばかりなので、そのバイタリティーには驚く。でも申し訳ないが、私は氏の作品を語れるほど観てないのであって、何本かを観ただけにおいては、良質の映画ばかりだと申し上げておきたいと思う。
かつての日本映画というのは、製作本数にかけては世界トップクラスであった。こんな時代に市川昆監督は、数多くの作品を制作しているのである。元々、アニメーターとして映画界に飛び込んだというが、戦後に映画監督として映画を撮りだし、日本映画が全盛の頃の1950年代、『炎上』(1958年)、『野火』(1959年)、『鍵』(1959年)といった真面目な文芸作品を撮り続けていた。でも、その頃というのは、最も邦画が製作されていた頃で、1960年の長編邦画封切り本数は545本にも及び、これは現在の邦画封切り本数の倍以上になる。つまり映画全盛期の本数であって、当然、これらの多くの映画というのは娯楽作品であった。こんな時代に市川昆監督は芸術作品を撮っていた。
この頃というのは、稲垣浩、衣笠貞之助、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、木下恵介といった芸術指向の監督がいて、多くの娯楽作品に混ざって戦後の映画史に残る作品も撮っていた。そんな先輩の後を追うように市川昆も質の良い映画を撮っていたのである。だか、私は市川昆監督作品はほとんど観ていなかったのだ。私は幼少の頃、母に連れられて邦画を観た覚えがあるのだが、あまり記憶はない。やがて小学校に上がり、観た映画を記憶できる年齢になっていたが、当時の映画は荒唐無稽のくだらない娯楽作品が多かった。結局、この時代の粗製乱造がたたり、その後、日本映画はテレビの普及も手伝って一気に斜陽産業となってしまうのであるが、そんな時代に私は市川昆監督の2作品を観たものである。その映画は『太平洋ひとりぼっち』(1963年)、『東京オリンピック』(1965年)である。
『太平洋ひとりぼっち』は、堀江謙一青年のヨット太平洋無奇港横断の映画化である。堀江謙一の役を石原裕次郎が演じ、当時は話題となった。そして、私が市川昆監督の映画で最もよく覚えているのが『東京オリンピック』の記録映画である。
この作品はドキュメンタリーなのであるが、上映後、評価が二つに分かれた。芸術的過ぎるという声が多く、スポーツの祭典を記録しただけの映画の枠をはっきりと超えていて、マラソンで優勝したアベベの横顔をアップで撮り続け、走る哲人そのものを表現していたり、選手の躍動美を色んな角度から撮った映像を流し続けたりして、それまでのオリンピックを撮ったニュース風映画とは一線を画す作品に仕上がっていた。結局、この作品にはがっかりしたと、スポーツ関係者から批判の声が上がったりして、必ずしも成功した作品とはいえなかったが、私は非常に印象に残る作品となった。この映画の後に『白い恋人たち』という、グルノーブル冬季オリンピックの記録映画も現れて、数年後には再評価されるのであった。このように市川昆は時代の先をいくような映画の撮り方をやっていた。
その後、一時期、迷っていたのか知らないが、横溝正史の小説の映画化で、『犬神家の一族』(1976年)、『悪魔の手毬唄』(1977年)、『獄門島』(1977年)、『女王蜂』(1978年)といった作品を撮っている。この時期は市川昆も娯楽に走ったのかと、私はややがっかりしたものである。しかし、このような作品も撮れてこそ、芸術作品も撮れるのだという幅の広さを見せつけることになった。
現在、日本映画は一時期の低迷を脱し、ある程度は息を吹き返してきたような錯覚がある。でも、これはハリウッド映画がつまらなくなったがため、日本映画に人が流れたとも言え、けして将来の展望が見えてきたというのでもない。何れにせよ、映画界の未来は暗雲が漂っているのだ。既にハリウッド映画はリメイクばかりでネタ切れ模様であるし、CGを駆使しすぎて、映像の動きも安直で、何か物作りの原点を忘れているように思えてならない。それで、昔ながらの市川昆監督が亡くなられて、日本映画の良き時代は忘却の彼方へ・・・・・・。
映画『東京オリンピック』の冒頭。市川昆監督作品
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の姿が・・・・・開会式での実況は、NHKの鈴木文弥アナウンサーである
マラソン場面、クラーク、ホーガン、アベベの先頭争い
走る哲学者アベベ・ビキラ(エチオピア)
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映画監督の市川昆が亡くなられた。92歳だという。高齢だから仕方が無いとは言え、だんだんと良い映画監督亡くなって行くのは寂しい。
市川昆といえば、最近まで元気で作品を撮られていたと思うが、遺作となったのが、『ユメ十夜・第二夜』(2007年)だという。この作品が監督の76本目の作品ということで、戦後に映画監督として第一作を製作してから、約60年で76本ということは、一年で一本以上の映画を製作していることになる。これはたいへんな製作ペースであるが、それでいて市川昆の映画は、標準以上の質の作品ばかりなので、そのバイタリティーには驚く。でも申し訳ないが、私は氏の作品を語れるほど観てないのであって、何本かを観ただけにおいては、良質の映画ばかりだと申し上げておきたいと思う。
かつての日本映画というのは、製作本数にかけては世界トップクラスであった。こんな時代に市川昆監督は、数多くの作品を制作しているのである。元々、アニメーターとして映画界に飛び込んだというが、戦後に映画監督として映画を撮りだし、日本映画が全盛の頃の1950年代、『炎上』(1958年)、『野火』(1959年)、『鍵』(1959年)といった真面目な文芸作品を撮り続けていた。でも、その頃というのは、最も邦画が製作されていた頃で、1960年の長編邦画封切り本数は545本にも及び、これは現在の邦画封切り本数の倍以上になる。つまり映画全盛期の本数であって、当然、これらの多くの映画というのは娯楽作品であった。こんな時代に市川昆監督は芸術作品を撮っていた。
この頃というのは、稲垣浩、衣笠貞之助、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、木下恵介といった芸術指向の監督がいて、多くの娯楽作品に混ざって戦後の映画史に残る作品も撮っていた。そんな先輩の後を追うように市川昆も質の良い映画を撮っていたのである。だか、私は市川昆監督作品はほとんど観ていなかったのだ。私は幼少の頃、母に連れられて邦画を観た覚えがあるのだが、あまり記憶はない。やがて小学校に上がり、観た映画を記憶できる年齢になっていたが、当時の映画は荒唐無稽のくだらない娯楽作品が多かった。結局、この時代の粗製乱造がたたり、その後、日本映画はテレビの普及も手伝って一気に斜陽産業となってしまうのであるが、そんな時代に私は市川昆監督の2作品を観たものである。その映画は『太平洋ひとりぼっち』(1963年)、『東京オリンピック』(1965年)である。
『太平洋ひとりぼっち』は、堀江謙一青年のヨット太平洋無奇港横断の映画化である。堀江謙一の役を石原裕次郎が演じ、当時は話題となった。そして、私が市川昆監督の映画で最もよく覚えているのが『東京オリンピック』の記録映画である。
この作品はドキュメンタリーなのであるが、上映後、評価が二つに分かれた。芸術的過ぎるという声が多く、スポーツの祭典を記録しただけの映画の枠をはっきりと超えていて、マラソンで優勝したアベベの横顔をアップで撮り続け、走る哲人そのものを表現していたり、選手の躍動美を色んな角度から撮った映像を流し続けたりして、それまでのオリンピックを撮ったニュース風映画とは一線を画す作品に仕上がっていた。結局、この作品にはがっかりしたと、スポーツ関係者から批判の声が上がったりして、必ずしも成功した作品とはいえなかったが、私は非常に印象に残る作品となった。この映画の後に『白い恋人たち』という、グルノーブル冬季オリンピックの記録映画も現れて、数年後には再評価されるのであった。このように市川昆は時代の先をいくような映画の撮り方をやっていた。
その後、一時期、迷っていたのか知らないが、横溝正史の小説の映画化で、『犬神家の一族』(1976年)、『悪魔の手毬唄』(1977年)、『獄門島』(1977年)、『女王蜂』(1978年)といった作品を撮っている。この時期は市川昆も娯楽に走ったのかと、私はややがっかりしたものである。しかし、このような作品も撮れてこそ、芸術作品も撮れるのだという幅の広さを見せつけることになった。
現在、日本映画は一時期の低迷を脱し、ある程度は息を吹き返してきたような錯覚がある。でも、これはハリウッド映画がつまらなくなったがため、日本映画に人が流れたとも言え、けして将来の展望が見えてきたというのでもない。何れにせよ、映画界の未来は暗雲が漂っているのだ。既にハリウッド映画はリメイクばかりでネタ切れ模様であるし、CGを駆使しすぎて、映像の動きも安直で、何か物作りの原点を忘れているように思えてならない。それで、昔ながらの市川昆監督が亡くなられて、日本映画の良き時代は忘却の彼方へ・・・・・・。
映画『東京オリンピック』の冒頭。市川昆監督作品
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の姿が・・・・・開会式での実況は、NHKの鈴木文弥アナウンサーである
マラソン場面、クラーク、ホーガン、アベベの先頭争い
走る哲学者アベベ・ビキラ(エチオピア)
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