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2008.04.30 (Wed)

ママス&パパスを聴く

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 私が小学生だったか、中学生だったかはっきりしないが、或る日、ラジオから爽やかなメロディと共に心地よいフォーク調の曲が流れてきて、思わず聞き耳をたてていた覚えがある。私は2度か3度聴いただけで、その曲のメロディを覚えてしまい、ハミングで旋律を繰り返していると、高校生の姉が「何で『夢のカリフォルニア』を知ってるの?」と言った。

 その時、私は、聴いていた曲がママス&パパスの『夢のカリフォルニア(California Dreamin')』だということを知った。それから間もなくのことだった。姉はさっそくママス&パパス『夢のカリフォルニア』のシングル盤レコードを借りてきて、私と一緒にその曲を聴きまくったことは言うまでもない。

 ママス&パパスは、1965年にデビューしたフォーク・ロック・グループで、男2人(ジョン・フィリップス、デニー・ドハーティ)、女2人(キャス・エリオット、ミシェル・フィリップス)の混声合唱が特徴的であった。そもそも、キャス・エリオット、デニー・ドハーティ、フィッリプス夫妻はそれぞれ別のグループにいた。でも各自活躍の場を求めてそれぞれがカリフォルニアにやって来た。そして彼等は必然的に引っ付き、誕生したグループである。

 私は最初にラジオで聴いた時の印象から、男性はともかく女性は2人共、細身の現代的な容姿をしているだろうと思って、姉が借りてきたレコードジャケットを見て思わず笑ってしまったことを思い出す。女性2人の内、1人は細くて長い髪の現代風のかっこいい外観だったが、もう1人は肥っていて、この人がこんな綺麗な声を出すのかと驚いたものである。でも、この肥った女性の声量と音域の広さがあってこそ、このグループは成り立っているのだろうと感じたものである。この人はエス・キャリオットで、通称をママ・キャスといった。当時のことであるが、ママス&パパスの出ている映像を初めて観たとき、確かに肥っていて滑稽であった。でも細身のミシェル・フィリップスとの声と巧く調和し、ママス&パパス特有の澄み切ったコーラスを聴かせてくれたものである。

 ママス&パパスは、1965年にデビューし、1966年初頭に『夢のカリフォルニア』が大ヒットし一躍有名になった。その後は、『マンデー・マンデー』が大ヒット、『アイ・ソー・ハー・アゲイン』『愛する君に(Dedicated To The One I Love)』『愛の言葉(Words Of Love)』等のヒット曲を出すが、最初のヒット曲『夢のカリフォルニア』の印象が強すぎて、私はあまり心を動かされなかった。

 結局、ママス&パパスは、色々と問題を抱え、1968年に解散してしまった。でも2年後には再結成されたが・・・・・・・ジョン・フィリップスとミシェル・フィリップスの離婚もあり、メンバーは散ってしまい、1974年には残念なことにママ・キャスが心臓発作で亡くなってしまった。一方、ミシェル・フィリップスは女優に転じ、『デリンジャー』『ヴァレンティノ』に出演して我々を驚かせた。特に『ヴァレンティノ』では、全裸になって美しい肢体を披露した・・・・・・だが、映画に出ても鼻歌一つ歌わないし、歌声を期待して観ていた者には真に残念であった。最近はアメリカでも女優業の傍らテレビ出演も多いらしいが、歌はほとんど歌っていないらしい。

 1980年代に入りママス&パパスは再々結成され、1994年に来日している。だが、その時のメンバーはデニー・ドハーティ、ジョン・フィリップスと男性はオリジナル・メンバーであったが、女性2人は変わっていた。

 今世紀に入り、2001年、ジョン・フィリップスが心臓疾患で亡くなり、昨年にはデニー・ドハーティも腎不全で死去した。これにより今、生きているのはミシェル・フィリップスのみとなってしまった。

 『夢のカリフォルニア』を歌うママス&パパス


 『マンデー・マンデー』を歌うままス&パパス


 ビートルズの『アイ・コール・ユア・ネーム』を歌うママ・キャス・エリオット

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2008.04.29 (Tue)

三島由紀夫『複雑な彼』を読む

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 三島由紀夫の小説というと『仮面の告白』『金閣寺』『禁色』『潮騒』『永すぎた春』『午後の曳航』『美徳のよろめき』『絹と明察』『豊穣の海』・・・・・・ざっと名前を挙げるだけでも以上のような作品が思い出される。でも『複雑な彼』という小説は、どのような扱いになるのだろうか。およそ三島由紀夫らしくない小説といえば語弊があるかもしれないが、彼の作品の中では珍しく通俗的な大衆小説だといえるかもしれない。少なくとも三島由紀夫を代表する小説ではないことは確かだ。ところが、この小説に登場してくる人物は、おおよそ堅気な社会では通用しないスケールの大きさがある。そういった意味で、『複雑な彼』を読んだ当時、三島由紀夫はとんでもない人物を小説の中に登場させたものだと驚いたことがある。

 小説はサンフランシスコ行きの飛行機の中の描写からはじまる。森田冴子は父親の会社がアメリカと技術提携したため、アメリカへ行く度に通訳として父の供をしていた。そんな飛行機の中で冴子は、制服に包まれた背中のかっこいいステュワードの仕事ぶりに惚れ惚れする。そのステュワードは日本人離れした長身で体格も立派で堂々としていて、狭い機内で優雅に振舞っていた。気になった冴子はサンフランシスコに着くなり、彼の地に住んでいる大学時代の親友で元ステュワーデスのルリ子に、それとなく気になるステュワードのことを尋ねてみたら、ルリ子はすぐに判ったらしく、「井戸掘り君だわ」と言った。そのステュワードは、航空会社に勤める前は、金に困って井戸掘りをやったことがあるというが、それ以外は謎だらけであった。でも冴子は、ステュワード姿の洗練されたハイカラさと井戸掘り人足とが、頭の中で一つのものにならず、どういう男なのか知りたくなっていくのであった。

 日本に帰った冴子は、遠縁の伯父さんと呼んでいる紳士が井戸掘り君の若い頃の恩人だということを知り、会わせてくれと頼み込む。こうして冴子は、井戸掘り君と同席することになった。でも井戸掘り君こと宮城譲二は、冴子が考えている以上に複雑な彼であった・・・・・・・・・・・・・・・。イギリスに留学していたというし、またロンドンでバーテンダーとして働いていたともいう。女性遍歴も半端ではなく、ロンドン、パリ、ブリュッセル、ハンブルク、コペンハーゲン、エジプトと宮城譲二の片側には常に女の影が付き纏う。また喧嘩の腕もたいしたもので、ボクサーとしてリングに上がったこともある。日本に帰ってからは、ホテルのボオイ、競馬のノミ屋、キャバレーの用心棒、沖仲士、そして保釈中の身の上ながら航空会社へ潜り込み、ステュワードとして働いている。まさに日本人のスケールからはみ出している宮城譲二であり、国際人と自負する冴子も流石に驚愕せずにはいられなかった・・・・・・。とうとう冴子も彼に惚れこんでしまい、結婚を願望するが、彼には結婚に踏み切れない理由があって、冴子の前から姿を消す・・・・・・・・・・・・。

 この小説を読んだ時、実は三島由紀夫がある男をモデルにして書いたのだということを知った。その男とは、作家の安部譲二だったのである。

 安部譲二は、裕福な家庭の子に生まれ、麻布中学では橋元龍太郎と同級生だったという。だが、同時に安藤組へ出入りするチンピラやくざであった。こういったことから職を転々としてゲイバーの用心棒をしていた頃に、三島由紀夫と知り合ったという。この時、安部譲二が外国人との揉め事を見事に抑えるところを見て、三島由紀夫がボクシングを教えてくれと懇願したという。その後、執行猶予中にもかかわらず、安部譲二は日本航空にステュワードとして入社し、後にパーサーまで昇進している。しかし、過去がばれて再び、やくざの道へ転落してしまう。この間、日航に4年働くが、このステュワード時代のことを三島由紀夫が克明に書いたのが『複雑な彼』なのである。

 安部譲二は、結局は日航をクビになり、所属した安藤組も解散したため、途方にくれるが、小金井一家にヘッドハンティングされ、またゴロツキの道へ進んでしまう。その一方で、プロモーター、食品加工会社経営、レストラン・ライブハウス経営、キック・ボクシングのテレビ解説、競馬の予想屋等をやっていた。でもム所暮らしも8年に及ぶ。

 シャバにて出てからは堅気な生活に戻ろうと作家を志す。そして、『塀の仲の懲りない面々』がベストセラーになり今日に至る。

 以上が安部譲二の凡その人生であるが、彼が少年時代に犯した不始末のせいで、ロンドンのウィンブルドンへ留学されられ、その後、貨物船に乗って日本まで帰って来るのであるが、彼のような裏社会で暮らしていた人間というのは、大蔵省官僚から作家に転じたエリート三島由紀夫のような人間から見れば、計り知れない魅力があるのだろうか、女性週刊誌に安部譲二をモデルにした小説を連載していたという。これは聞く所によると、私兵の『楯の会』を創る費用を捻出するために、この『複雑な彼』を女性週刊誌に書いたというのだ。女性が読む週刊誌だから、突拍子もない男が出てこないと女性が読まないとでも思ったのだろうか、三島由紀夫は安部譲二の半生を小説にして、その費用で楯の会を創ったのだとしたら安部譲二も随分とお騒がせな男であろう。

 この数年後の1970年11月、三島由紀夫は自衛隊市谷駐屯地に侵入して割腹自殺を計り45歳の生涯を終える。でも本当に『複雑な彼』は、三島由紀夫自身かもしれない。
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2008.04.28 (Mon)

ブラジル移民から100年

 今日、4月28日は、日本人のブラジル移民開始からちょうど100年目という記念日だという。1908年4月28日、神戸の波止場から170家族791人を乗せた移民専用船『笠戸丸』(約6000総トン)がブラジルのサントスへ向けて出発したのである。

 今時、集団で移民なんて考えられない時代だから、若い人はピンとこないだろうが、それは日本が100年の間に経済成長を成し遂げ(最近は斜陽国家の兆しもあるが)、国民が豊になったからであって、今さら移民するまでもないだろうが、明治の頃は貧しい二等国家だったといえばいいだろうか・・・・・。とにかく100年前の日本は発展途上もいいところで、遥か上の西洋列強諸国を拝んでいた状態である。最も昭和30年代でも、日本はまだまだ貧しかったものであるが、その頃でさえ、知らない人が増えている。物心ついた時、電化製品というのは裸電球と扇風機、ラジオぐらいだった現実を知っている私からするれば、確かに今の日本は物資文明に毒されていて、その有り難味も判らないようになっている。だから明治の日本の農村部が、どれだけ貧しいものであったかといわれても解らないと思う。実際、それは昭和生まれの私も解らない。

 さて、日本の移民は明治の初期に始まっている。最初はハワイや東南アジア、アメリカが中心であったという。でもアメリカで黄禍論が巻き起こり、アメリカへの日本人移民ができなくなってしまう。それに代わるのが南米移民であった。当初の渡航先はペルーであったが、それがブラジルへの移民が中心になっていく。

 何故かというと、ブラジルは1888年に奴隷制度を廃止したためにコーヒー農園の労働力不足が起こった。それでその労働力不足を補うためにヨーロッパから移民を受け入れたのである。でも劣悪な労働条件下だったがため、移民の不満を呼び、ドイツ、イタリアといった移民を送り出した国の政府が、奴隷のような労働を課せられては、移民を送ることに協力できないと出国を打ち切ったのである。

 困ったブラジル政府とコーヒー農園の経営者だったが、運よく『皇国殖民会社』が、アメリカ側から移民を締め出された日本人移民の送り込みを売り込んできたのである。こうして『皇国殖民会社』は、サンパウロ州政府と契約調印し、日本国内での移民希望者を集い、条件として・・・・・・移民は夫婦を中心に、12歳以上の兄弟を含む「3人以上の家族」であること・・・・・・・。こうして今から100年前の今日、ブラジル移民船『笠戸丸』が神戸港を出航したのである。

 『笠戸丸』は1ヶ月半後の6月18日、ブラジルはサントスの港に到着する。やがてブラジルの大地に入植した最初の日本人移民は、コーヒー農園で働くこととなる。過酷な労働条件であったが、ヨーロッパ人よりも生真面目で忍耐強く、それでいて粗食に耐えた日本人達・・・・・・・・。石川達三の小説『蒼茫』によると、「移民とは口実で棄民と言われていた」と表現しているが、それこそ酷い生活を強いられたという。

 それから100年、貧しさのために移民を決意し出国した人が多かった日本という国はすっかり豊になり、移民を受け入れたブラジルから、逆に出稼ぎ労働者が大勢来ている現実がある。もし、100年前にブラジルへ渡り、故国へ帰ることを夢見ていながら実現できず彼の地で亡くなっていった日系一世が、今の現況を知るとしたら何を思うだろうか・・・・・・・・。こうして見ると100年とはあまりにも長い月日である。その間に人も国も、何もかも変えてしまうのだ・・・・。現在ブラジルには日系6世までいるという。日系といっても現地の人や白人や黒人と結婚して、外見だけでは日系と思えないような人もいる。でも彼らも含めて約150万人の日系がいて、彼らはブラジル社会の大きな勢力になっている。それもこれも最初に渡った800人弱の頑張りがあったから今日があると思うと、ブラジル移民開始100年と一言で片付けられないような気がする。
                                                           
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2008.04.27 (Sun)

香港国際レース

 今日、香港のシャティン競馬場で香港国際レースが行われ、チャンピオンズ・マイルにマイネルシーガル、クイーン・エリザベスⅡ世Cにはマツリダゴッホが出走した。

 まずチャンピオンズ・マイル(GⅠ・3歳以上、芝1600m、10頭)には、日本からマイネルシーガルが出走したがあえなく惨敗。出走馬10頭中、最下位の10着に終わった。結果は次の通りである。

 1着 Good Ba Ba 1分33秒5、2着 Armada 1馬身、3着 Bullish Luck 2馬身、4着 Joyfull Winner 3/4。

 勝ったGood Ba Baは、昨年の安田記念に出走していて、その時は7着。しかし、地元の香港に帰ってからは、その後にマイル戦を中心に使われていて、これで5連勝。通算成績が26戦13勝。

 一方、マイネルシーガルは昨年の皐月賞10着、重賞勝ちはマイルの富士Sのみで、先月の高松宮記念では18着の最下位。好調にはほど遠かったと思えるので、この着順も仕方が無いか・・・。

 Good Ba Baは、6歳のセン馬で、父はLear Fan(Hail to Reason系)、母はElle Meme(母の父Zilzal-----Northern Dancer系)という血統。

 次にクイーン・エリザベスⅡ世C(GⅠ・3歳以上、芝2000m、11頭)は、昨年の有馬記念を勝ったマツリダゴッホが出走した。でも積極的なレースを繰り広げたが、最後の詰めがあまく6着に終わった。

 1着 Archipenko 2分00秒8、2着 Balius 1馬身3/4、3着 Viva Pataca 1/4、4着 Packing Winner 3/4、5着 Quijano 1馬身。

 勝ったArchipenkoは4歳の牡馬で、昨年のイギリス・ダービーに出走しているが、17頭立ての17着といいところがなかったが、先月のドバイ・デューティー・フリーに出走した時は、3着と健闘し日本から参加したウオッカに先着している。だから中山でしか走らないマツリダゴッホでは、勝負になるだろうかとは思ったが・・・・・・やはり無理だった。マツリダゴッホは京都でも走らない馬である。東京でも実績がなく、中山のスペシャリストといったような馬である。コーナーの多いコースしか走らないのかもしれない???

 Archipenkoは父がKingmanboで、母がBound(母の父Nijinsky)という日本でも知れ渡った血統で、通算11戦4勝という成績である。
EDIT  |  20:10  |  競馬(海外レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.04.27 (Sun)

フローラS、アンタレスS

 今週の競馬は先週の皐月賞、来週の天皇賞の狭間で盛り上がりが足りないが、東京でオークス・トライアルのフローラS、京都ではダートのアンタレスSが行われた。

 ところで、東西の重賞の結果の前に昨日、福島で行われた重賞、福島牝馬S(GⅢ・4歳以上牝馬、芝1800m、16頭)の結果を記すとしよう。

 1着マイネカンナ 1分47秒1、2着ハロースピード ハナ、3着ザレマ 3/4、4着ヤマニンメルベイユ ハナ、5着タイキマドレーヌ クビ。

 それでは東京のフローラS(Jpn-Ⅱ・3歳牝馬、芝2000m、18頭)である。このレースは桜花賞に出ていないメンバーが集結してオークスを目指す。1番人気はレッドアゲート、2番人気はシングライクバード、3番人気はカイゼリン。でも一番注目されたのは真っ白けの白毛馬ユキチャンである。馬というのは一般的に芦毛馬が年齢を重ねて白くなっていくのであるが、3歳の春で真っ白というのは白毛馬ぐらいしかいない。長い競馬史においても数少ない白毛馬である。またそれが2勝して重賞に挑戦してくるのも前例がないから大いに注目された。レースは逃げたカレイジャスミンが逃げ粘るところを、5番手につけたレッドアゲートがあっさりとかわして完勝したのであるが、7番手あたりで追走したユキチャンも7着に沈んだとはいえ、よく頑張ったといえようる今後も注目したい1頭である。

 1着レッドアゲート 2分00秒5、2着カレイジャスミン 1馬身1/4、3着キュートエンブレム 1/2、4着メイショウベルーガ クビ、5着シングライクバード ハナ。

 京都ではダートの重賞、アンタレスS(GⅢ・4歳以上、ダート1800m、16頭)が行われ、1番人気のフィフティーワナーがつつかれながらも逃げ、それを好位置からワンダースピードが捉まえて抜け出して勝った。2着には差してきたドラゴンファイヤー、3着には追い込んだサンライズバッカスが入った。

 1着ワンダースピード 1分50秒5、2着ドラゴンファイヤー 1馬身1/4、3着サンライズバッカス 1/2、4着フィフティーワナー 1/2、5着チャンストウライ 1/2。

 2番人気のロングプライドは7着、3番人気のメイショウトウコンは14着だった。

 それはそうと先日、スプリンターズSを勝ったアストンマーチャンが急死した。残念なことである。また皐月賞を勝ったキャプテントゥーレも骨折が判明して、ダービーはおろか菊花賞も出られなくなったという。全治9ヶ月の重症である。競馬と付き合っていると、競争馬の不幸ほど残念なものはない。アストンマーチャンよ永遠に・・・・・、キャプテントゥーレも早く復帰をしてもらいたいと思う。

 さあ、今日はこの後、香港の国際レースに日本のマツリダゴッホとマイネルシーガルが出走するので気になるところである。結果は今日中か明日には載せられると思うので、この辺で失礼するとしよう。 
EDIT  |  16:43  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.04.26 (Sat)

北京オリンピック聖火リレーIN長野

 世界各地で騒動を巻き起こしている北京オリンピックの聖火リレーが、とうとう長野にやってきて、今日、その聖火リレーが約4時間に渡って行われた。道中、色々とあったが、物々しい警備の中、無事、目的地まで運ばれ、どうにか終わったようだ。

 スタート前から中国人留学生約3000人以人が長野に詰めかけ、聖火リレーの行われる道路わきに散らばって赤い五星紅旗を振りかざし、「中国バンザイ、北京オリンピック、バンザイ」を叫ぶかと思えば、かたやチベット人とチベット支援者がチベットの旗(雪山獅子旗)を降り、「チベット解放」と叫ぶ。お互いの怒号が飛び交う中、静かに聖火リレーが始まった。ただ聖火ランナーの周囲は二重三重の警備で、市民と距離を隔てて、淡々と行われていたように見えた。でも、途中、紙束が投げられたり、生卵が投げられたり、聖火のランナーの群れに乱入して取り押さえられる男。またトマトを投げて逮捕される男。中国人の集団とチベット支援者との小競り合いも起こり、怪我をして救急車で運ばれる者もいたという。これらのいざこざは聖火リレーの始まる前から予想されたとはいえ、警備は厳重で万全である。だが、日本でも静かに行事が運ばれるとはいかなかったようだ。また、それがまたオリンピックというものかもしれないが・・・・。

 よくオリンピックはスポーツの祭典で、政治とは切り離されるべきだというが、それは不可能である。そもそもオリンピックなんて、最初から政治ありきであって、国家がいつも前面に出てくるではないか。平和のためのオリンピックであるなんて、建前を言っても所詮、オリンピックを利用している政治家がいるから、政治とオリンピックを切り離して考えるなんて無理だろう。

 近代オリンピックが始まったのは1896年だから112年前のことになる。クーベルタン男爵の考案により、古代ギリシャで行われていたオリンピックを現代に甦らせたということになるのだろう。それはスポーツの祭典で、4年に1回、開催都市に世界中からアスリートが集まって、各競技で覇権を争うという。それはそれまでになかった試みで、20世紀の時代になり、世界中に広まったスポーツの向上に一役買ったことになる。だから4年に1回、世界各地から集まって競うということに意味があったのだ。だが、それは何時の間にか巨大イベント化し、政治が利用するのに好都合なスポーツの祭典となった。

 1936年には、かのナチス・ドイツがベルリン・オリンピックを開催した。ヒトラー総統率いるナチス・ドイツは、このオリンピックでナチス・ドイツの力を世界に見せ付けるのに大いに利用しようとしたのだ。実は聖火リレーは、このオリンピックで始まったものだけども、ギリシャのオリンピアで採火された聖火を、ランナーのリレーによって開催都市まで運ぶということをやり始めた。そして、このオリンピックのドキュメント映画を、当時の女優で映画監督のレニ・リーフェンシュタールに撮らせたのである。この映画は後年に上映され、オリンピックを記録した映画(民族の祭典、美の祭典の二部作)としては最高傑作とされている。ナチス・ドイツはドイツの力を見せんとばかり、金メダル至上主義を掲げ、米英打倒に躍起になった。陸上男子100mでは、アメリカの黒人ジェシー・オーエンスが圧勝したが、ヒトラーは気分を害し、さっさと競技場から姿を消したという。

 つまりこの頃からオリンピックというのは政治が介入し、平和の祭典といいながら、政治の目的手段として使われてきたのだ。だから今さら北京オリンピックが胡散臭いといったってはじまらない。北京がオリンピックを開催する目的も、国威発揚と決まっていて、北京市民の生活を蔑ろにしてまで開催を優先しているのだ。このような事態になることは、北京にオリンピック開催が決定した時から解っていたことだ。

 当時、IОC会長のサマランチと中国側は蜜月関係にあったとも言われ、2008年のオリンピックに北京が立候補したことで、すでに開催は決定していたとも考えられる。つまりオリンピックは最初に国家ありきなのである。ただ、ここでオリンピックのあるべき姿や存在価値をここで述べても仕方がないだろう。オリンピックは今や世界が注目する大イベントであり、儲かる祭典であり、街を大いにアピールする上でこれ以上のものはない機会なのである。だから世界のどこの街もオリンピックを招致して、開催権を獲得するのに大枚を叩くのである。たとえどんな汚い手を使ってもオリンピックを開催することで、街には箔がつくというものなので、ゴリ押しをしてまで開催しようとするのだ。

 だからオリンピックは、スポーツの祭典で平和の祭典で、政治とは無関係なんてことはけしてないのであって、各国とも金メダルを幾つ獲ったかなんてくだらないことを張り合っているのがオリンピックなのである。だから私はオリンピックは嫌いなのだ。

 でも、スポーツは好きなんだが、何故かオリンピックは嫌いなのである。それは、この時とばかり頭を擡げるナショナリズムが好きになれないからだ。日頃、鳴りを潜める日の丸が、テレビの画面で大写しになり、勝てば勝ったで君が代が斉唱される。それで日本人でよかったなんて妙に感動する。でも私は、このような現象に辟易してしまう。

 50年前ならいざ知らず、国際化社会になって地球がだんだんと狭くなっている時代に、国家を前面に押し立てて、あたかも代理戦争であるかのように、国を挙げて勝とうとする先に何があるのか・・・・。確かに平和のシンボルであり、平和であるがために行われる祭典であるが、国旗掲揚とか国歌斉唱とか、何かと国家、国家が謳歌されるオリンピック。時々、国家って言うのはそんなに大事なものなのかと問いたくなる。せめてオリンピックは個人やチームに対しての栄誉を称えるべきであろう。また、国家プロのような選手がいて、子供の頃から専門的に育成されて、金メダルを獲ることによって将来の生活までが保障されるという国が少なくない。

 もう21世紀になって8年目である。オリンピックの在り方もそろそろ変わって行かなくては、何時までも平和のスポーツ祭典でいられなくなるだろう。現代、ありとあらゆるスポーツで世界選手権やワールド・カップたるものがあって、それらは毎年のように開催されている。だから今さら、スポーツの百貨店のようなオリンピックを開いたからって、今の選手は40年も50年も前の選手とは違うだろう。昔は、それこそ頻繁に強豪同士が顔を合わして競うことはなかったから、オリンピックも価値があったのだ。でも今は、オリンピックの間には世界選手権もあるし、ワールド・カップやワールド・グランプリのような大会が頻繁にある。だからオリンピックを開いたからって、かつてのような意味合いがあるのかとさえ思ってしまう。

 ただオリンピックという冠を大会の頭にかぶせれば、莫大なテレビの放映料も入るし、世界中から大いに注目される。それに五輪旗が翻るだけで他の大会とは大きく区別される。それだけではないのか・・・・・・・・。

 たぶん私は北京オリンピックの中継は観ないだろう。もうクーベルタンが考案した当時のオリンピックではない。完全に五輪憲章から逸脱してしまい。超巨大な大国エゴに蝕まれた醜いスポーツ大会となってしまった。だから北京オリンピックの聖火リレーが妨害されようが、どうなろうが知ったことではない。もう興味が無いのだ・・・・・・・。それを言いたかっただけである。
EDIT  |  17:57  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.04.24 (Thu)

CCRを聴く

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 CCRというのは、ロックグループの名前である。ただし名前が長いから略してCCRと呼んでいただけであって、正式にはCreedence Clearwater Revivalという。でもクリーデンスと呼ぶ人もいた。長い名前だが、1960年代の古いロックに精通している人なら、必ず名前の聞くメジャーバンドなのである。ところが、なにしろ実働が5年程度と短かったので、リアルタイムで聴いた人は40代後半以上の人ということになる。

 アメリカ西海岸出身のバンドなのだが、やっている音楽は泥臭く、カントリーのようでありリズム&ブルースのようであり、アメリカ南部の音楽のようでもあったが、シンブルで覚え易いメロディが功を奏し、アメリカのみならずヨーロッパ、日本でも人気は絶大であった。メンバーはジョン・フォガティ(リード・ギター、ヴォーカル)、スチュワート・クック(ベース)、トム・フォガティ(リズム・ギター)、ダグラス・クリフォード(ドラムス)の4人である。結成は1950年代の末期であるが、正式なデビューは1967年であった。その時の名前はゴリウォッグスで、翌年の1968年にクリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァルとなった。

 CCRとしては1968年9月に最初のシングル盤『Suzie Q』をリリース。11月に『I Put A Spell On You』を出し、まずまずのヒット。そして三枚目のシングルで日本にも知れ渡る。それが『Proud Mary』である。その頃から、日本でもCCRの人気は不動のものになり、シングル、アルバム共に売れた。

 『Bad Moon Rising』『Green River』『Down On The Corner』『Travelin' Band』『Up Around The Bend』『Lookin' Out My Back Door』『Have You Ever Seen The Rain』・・・・・・と続々ヒット曲を出すが、1971年が明けて間もなく、ジョン・フォガティの兄トム・フォガティがグループから脱退する。これによりCCRはトリオとなり、翌年には来日コンサートも行った。でも1972年10月に解散してしまった。

 ジョンとトムは兄弟だが、実質上のリーダーは弟のジョンで、曲作りからアレンジ、プロデュース、すべてにおいてジョンに頼るところが多く、兄のトムにしては面白いはずがない。当然のように確執が起こり、トムはグループから脱退する。でも僅かな期間しか活躍しなかったが、その間に我々の心の隅に奥深く浸透してしまった曲も多く、ロック・ミュージックを語る上では、絶対に欠かせないグループであることは確かだ。たとえ、しわがれ声のジョン・フォガティのヴォーカルでも、忘れられないグループであった・・・・・・・・・・・。

 CCRには、こんな名曲もありましたが・・・・・・『雨を見たかい(Have You Ever Seen The Rain?)』

Some one told me long ago
There's a calm before the storm
I know it's been coming for some time

When it's over so they say
It'll rain on a sunny day
I know shinning down that water

I won't know
Have you ever seen the rain
I won't know
Have you ever seen the rain
Coming down on a sunny day

Yesterday and days before
Sun is cold and rain is hot
I know it had not paid
For all my time

You're forever home, and go
Through the circle of fast and slow
I know it can't stop I wonder

I won't know
Have you ever seen the rain
I won't know
Have you ever seen the rain
Coming down on a sunny day

 "Proud Mary" を唄うCCR


 『雨を見たかい(Have You Ever Siin The Rain)』のミュージック・ビデオ

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2008.04.22 (Tue)

アナトール・フランス『神々は渇く』を読む

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 1789年7月19日のバスティーユ牢獄の襲撃に端を発するフランス革命。これはヨーロッパそのものの社会を大きく揺るがす変革期であった。・・・・・・このアナトール・フランスが書いた『神々は渇く』は、フランス革命を通して純真な若者が、断罪する側から最後に、断罪される立場となり死んでいくという話である。

 時はフランス革命後、パリの市内ではジャコバン党の恐怖政治が続いていた。大画家ダヴィットの弟子であるエヴァリスト・ガムランは、純真で一途な青年画家だった。ガムランはセーヌ川に近い古いアパートに母と2人で住んでいた。でも古臭い彼の絵はさっぱり売れず、母子は毎日の食事も事欠いていた。フランス愛国者のガムランは、共和制の将来に期待しすぎるあまり、ロベスピエールやマラーを支持し、地区委員会に積極的に参加するのであった。一方、ガムランを密かに愛している版画商の娘エロディは、彼とどうにか恋愛関係を結ぶのに成功した。ところがマラーが暗殺され、ロベスピエールが台頭する。

 やがて熱狂的な革命家になっていたガムランは、革命裁判の陪審員に任命され、共和国を守るには恐怖政治が必要であると信じていて、革命に反対する分子を次から次へと断頭台へ送っていた。実の妹ジュリーの愛人も、同じ建物内に住み、懐疑派で元貴族のブロトも、情け容赦なく断頭台へ送るのであった。しかし、何時までもその体制が続く筈はなかった。1794年テルミドールの反動により、ロベスピエールが失脚する。ロベスピエールを熱烈に支持していたガムランも遂に逮捕され、今度は自らが断頭台にかけられてしまう。かつて恋愛関係にあったエロディは、ガムランの死後、ガムランの友人で反動派の画家を恋人にして幸せに暮らす・・・・・・・・。

 いわゆるフランス革命の真っ只中の話である。当時のアンシャン・レジームといわれる絶対君主の支配による社会体制からの反発により、第三身分といわれる平民が中心になって起こったフランス革命。革命はなされたが、その後に起こるジャコバン党の恐怖政治。その中心人物がロベスピエールであり、そのロベスピエールを熱狂的に支持していたガムランが、やがて対立する穏健派によって政権を掌握されることにより、処刑されるということである。

 この小説を読んで思うことがある。ガムランは非情で冷酷で、革命闘士といったタイプに感じるが、物語の始まりの頃は、「ミネルヴァの顔立ちに似た、峻厳でかつ女性的な美しさ」を備えていた。でもその端麗な容姿を鼻にかけたりもせず、自分が美しいことにも気づかず、エロディに誘われるまで女を知らなかったという初心な少年であった。それが基本的に正義を愛し、祖国愛に燃え、純朴で一途な思い込みから、祖国を裏切る腐敗階級に対して牙を剥いてしまうまでになるのだった。真摯で純粋すぎるが故、ゆとりのない偏狭な精神の持ち主に変ってしまったのである。革命が進行するにつけ、ガムランは端麗な外見から、表情も険しくなり、「陰鬱な眼差しと蒼白い頬は憂鬱なそして激しい精神を物語る」ようになってしまうのだった。革命が進むにつれ、温厚な人間の風貌が変わっていく様を如実に表した内容が書かれていたが、革命っていったい何なんだろうと思ってしまう。

 君臨する帝政を打倒し自らが権力行使の座についても、結局は同じことである。自由平等の社会を築くためにといった大義名分はあったものの、いったん自ら政権を握ってしまうと同様の帝政を布いてしまう。まさに人間の歴史は過ちの繰り返しかもしれないと思ってしまう。自由平等の社会なんて、所詮は夢物語なのだろうか・・・・・・。

 マルクス・レーニン主義から100年以上経つ・・・・・・・スターリン、毛沢東、金日成、チャウ/シェスク、ポル・ポト、カダフィ、アミン、マルコス、フセイン・・・・・・・戦後の実権者は、どれもこれも・・・・・もう、たくさんだ。
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2008.04.21 (Mon)

映画『ウエスト・サイド物語』を観る

 『ウェスト・サイド物語』1961年製作 アメリカ映画

 監督 ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス

 出演 ナタリー・ウッド
     リチャード・ベイマー
     ジョージ・チャキリス
     リタ・モレノ
     ラス・タンブリン
     タッカー・スミス

 【あらすじ】ニューヨークのウェスト・サイド地区。ここに対立している二つの少年少女グループがあった。白人グループのジェット団とプエルトリコ系のグループ、シャーク団である。彼らは日頃から仲が悪く、喧嘩も頻繁で警察沙汰が繰り返される。そんな或る日、ダンスパーティが開かれた。そこで元ジェット団のリーダーだったトニーは、マリアを一目見て恋をする。でもマリアはシャーク団のリーダー、ベルナルドの妹であった。またトニーもジェット団のリーダー、リフの親友であった。トニーはマリアのために両グループの間に入り、対立を解かせるために策を講じる。でもそれが逆効果となり、リフがベルナルドに刺し殺されてしまい、親友を殺されたトニーは逆上して、ベルナルドを刺し殺してしまう・・・・・・・。

 この映画は1957年に初演されたミュージカルの映画化である。そもそもシェークスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の悲恋話が、現在のニューヨークにも存在するとばかり、焼きなおされた物語である。モンタギュー家とキャビュレット家の対立の中で恋人同士となるロミオとジュリエットを、ニューヨークの対立するグループの狭間で恋するトニーとマリアの悲恋話に置き換えたといえばいいだろうか・・・。

 映画『ウェスト・サイド物語』は1961年に映画化され、同年のロードショーで私も観ている筈なのだが、幼かったので何一つ覚えてない。だが、小学校の高学年だった姉は、この映画が大変気に入ったのか、すぐにレコードを買って盛んに挿入曲『トゥナイト』や『マリア』を聴いていた。そういった経緯もあって、私の中では『トウナイト』という曲が、体にしっかりと染み込んでいたものだ。

 結局、私が『ウェスト・サイド物語』の真髄に触れるのは、それから10数年後のことで、私は大学生になっていた。確か京都の新京極の裏にあった美松劇場(今はない映画館)という汚い映画館で観たと思うのだが、この時はいきなり衝撃と戦慄が走り、あっという間に映画が終わったという印象がある。

 レナード・バーンスタインの音楽も素晴らしいのであったが、全編で踊るシーンがあり、彼等の見事なダイナミズムに触れ、私は心底、この映画が好きになり、この日は最終まで3回の上映を飯も食わず観ていたものだ。

 その後、私が社会に出てこの映画の話になった時、或る男が「あんなの、ロミオとジュリエットの真似や」と言った。それを聴いてカチンときたものだ。ミュージカルの脚本家が最初から『ロミオとジュリエット』の現代版だといっているのに、「真似や」はないだろう。ただの真似だけなら、このミュージカルがこんなにヒットして、映画の方もアカデミー賞の何部門かの賞を総なめにする筈もなかろう。この映画の良さは、脚本の出来栄えが良かったというのもあるが、音楽の素晴らしさと、その音楽とシンクロした歌とコーラスと踊りが巧く絡み合って、見事なまでに圧倒されてしまうのだ。ただ、この映画を「ロミオとジュリエットの真似や」で片付けた彼はには、つまらない映画であったようだが・・・・。

 そもそもミュージカルというものを見慣れてない人には、なんで突然踊りだしたり、歌いだしたりするのだと思われるかもしれない。でもそれがミュージカルなのであり、ある意味で、そのような演出は臭いといえるかもしれない。しかし、曲をよく知っていれば、映画も2倍、3倍楽しめる。それがミュージカルであり、そこへダンスが加わり、よりいっそう楽しめるのである。でも私が、この『ウェスト・サイド物語』の『トゥナイト』や『マリア』『アメリカ・アメリカ』『サムホエア』といった曲を、子供の頃から聴き馴染んでなかったとしたら、さほど面白い映画と思わなかったかもしれないし、これほど衝撃を受けることもなかったであろう。だからこのミュージカルの挿入曲を、レコードが磨り減るぐらい聴いていた姉に私は感謝しているのである。

  『ウェスト・サイド物語』のプロローグ。


 バルコニーでトニー(リチャード・ベイマー)とマリア(ナタリー・ウッド)が"Tonight"を歌う。


 "Somewhere"を歌うトニーとマリア。

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2008.04.20 (Sun)

第68回皐月賞

 3歳クラシックレースの3冠第一関門、皐月賞が行われた。

 今年の3歳馬は、昨年の夏の馬インフルエンザ騒ぎで、仕上がりが遅れ、さらに追い討ちをかけるように2月の大寒波がやってきた。これにより調教が思うように行かず、各馬の調整が例年以上に難しかったものと見え、どの馬も安定した成績を残せないでいた。だから重賞ごとに勝ち馬が代わり、唯一2勝したマイネルチャールズが皐月賞の本命に祭り上げられてしまったようなものだった。そんな中で今年の第68回皐月賞(Jpn-Ⅰ・3歳、芝2000m、18頭)が行われたのである。

 人気は予想通りマイネルチャールズが1番人気。でも3倍の配当がついているので、断トツの人気馬ではない。波乱要素は十分にある訳だ。2番人気はブラックシェル、3番人気はショナンウアルバ、4番人気はスマイルジャック・・・・・関東馬が1番人気になるのは何と18年ぶり(2004年の1番人気コスモバルクは道営馬)とかで、この間、関西馬の天下だったと言う見方も言出来るのだが、確かに今年の関西馬は近年になく弱い。結局、この現象が大混戦の要因になっているような気がする。今まで最も関西の3歳馬が弱かった年は1981年で、この年の関西馬は重賞ウイナーが全て故障してしまい、皐月賞に出走した関西馬は条件馬ばかりといった珍現象もあった。一方、最も関西馬が強かったのは、1972年の時で、この年はヒデハヤテ、ロングエース、タイテエム、ランドプリンス、アーチデューク、ランドジャガー、ハマノパレード、ユーモンド、マーチスセカンドといった強豪が犇めき合っていたことを思い出す。いずれにしても古い話で、こんな馬名を出しても解る人はかなりのオールドファンだろう。

 さあ、そんな状況の中で皐月賞が行われたのである。馬場は良発表ではあるが、昨日来の雨で悪化しているようだ。こうなると追い込み馬は辛いだろう。それで出走各馬の馬体重が発表されたとき、気になった馬がいる。キャプテントゥーレである。前走から-18kgで出てきた。これはマイナス材料にならないかと・・・・・・。

 さて、いよいよスタートである。ゲートが開くや川田騎手の芦毛馬キャプテントゥーレが懸命に押してハナを奪おうとしている。外のレッツゴーキリシマもダッシュがいい。ゴチャついているが1、2コーナーを回ってキャプテントゥーレが先頭に出た。2馬身のリードを奪う。2番手にレッツゴーキリシマ、3番手、内にサブジェクト、外にスマイルジャック、5番手ノットアローン、6番手にスズジュピター、7番手スマートファルコン、8番手フサイチアソート、そして1番人気のマイネルチャールズは9番手と真ん中の位置。これは前走よりは後ろ過ぎるが、京成杯の時もこの位置取りだったので心配ないだろう。マイネルチャールズの外にはドリームシグナル、その後に内からタケミカヅチ、外にブラックシェル、さらに後ろレインボーペガサス、ダンツウィニング、その外にショウナンアルバだが、ややかかり気味。後方集団はオリエンタルロック、フローテーションといて、最後方はベンチャーナイン。1000m通過は1分01秒4と遅い。これは前残りの展開である。こんなペースの遅い皐月賞は何時以来だろうか・・・・・。3コーナーにかかる辺り、たまらずショウナンアルバがクビを大きく振りながら上がっていく。一気に上がっていく。600mのハロン棒を通過、キャプテントゥーレは楽。その外にスマイルジャックが接近。4コーナーを回っていよいよ直線コース。先頭にキャプテントゥーレ、その後にレッツゴーキリシマ、スマイルジャックが続く。でもここでキャプテントゥーレは再びスパートする。2馬身、3馬身と差が開く。後続馬も一気に追い出しにかかる。2番手以下は大混戦。マイネルチャールズは5番手から6番手の位置。レッツゴーキリシマの内からタケミカヅチが伸びて来る。あと100m、キャプテントゥーレは捉まりそうもない。逃げ切り濃厚である。2番手争いは激しくなってきた。レッツゴーキリシマの内からタケミカヅチが出ようとするが、外からマイネルチャールズ、そしてブラックシェル、その間をレインボーペガサスが一番良い脚で迫る。2着争いは5頭が横に並んでいるが、1着は完全にキャプテントゥーレ。

 1着キャプテントゥーレ 2分01秒7、2着タケミカヅチ 2馬身1/2、3着マイネルチャールズ ハナ、4着レインボーペガサス クビ、5着レッツゴーキリシマ クビ。

 ブラックシェルは6着で、ショウナンアルバは14着だった。馬場の悪さを考慮しても勝ち時計は平凡で、レースとしての見応えがなかった。でもキャプテントゥーレは見事だった。バテるかと思ったが直線に入り逆に引き離した辺り、非凡なものを感じる。馬体重が-18kgだったので、気がかりだったのだが、なんのなんの鮮やかに勝ってしまった。ただこの馬が勝ったからといって、ダービーの本命かというと、ダービーはダービーで解らない。でもマイネルチャールズか底を見せてないことと、ショウナンアルバの気性難が解消されれば、まだまだ面白い今年の3歳路線。何が勝つか解らないから面白いのであって、ディープインパクトのように何馬身千切って勝つかといった面白味とは次元の違うものである。でもダービーも1番人気はマイネルチャールズになるだろう。
             
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2008.04.20 (Sun)

造幣局桜の通り抜け

 大阪の天満に造幣局がある。1871年に大蔵省造幣寮として創設され、1877年に造幣局と改称されているから歴史は130年以上と古い。そして、広島と東京にも造幣局があるが、こちらは何れも支局なので、本局である大阪の造幣局で日本の貨幣や記念コイン、記念メダル等の大半が造られていることになる。それで、この大阪の造幣局の側道に創設当初から桜の木が植えられていて、このほど花が満開になり見頃となったので、恒例の桜の通り抜けが始まった。そこで私は、大混雑も覚悟の上、人混みに紛れて写真を撮ってきたので、ここに掲載してみることにする。

 ここの桜は遅咲きの八重桜、山桜、里桜、豆桜が中心なので今が見頃となる。日頃、見慣れているソメイヨシノと違って色が濃く、満開になると幾重にも花びらが重なり合うのでそれは派手である。でも原種も入れると桜の種類というのは、こんなに多かったのかと感心させられる。

 造幣局の通り抜けは1883年(明治16年)から行われているというから、その歴史は古いことになるが、ここの桜を1967年(昭和42年)に広島支局へ移植して、1991年(平成3年)から広島でも同様の行事『花のまわりみち』が行われるようになった。

 造幣局の桜の通り抜けは南側から北への一方通行なので、通り抜けといわれるのであるが、120種、400本の桜が植えられていて、彩りも鮮やかである。

 下の写真は何れも造幣局の建物で、正門から撮った写真と、旧正門から撮った写真である。
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 とにかく御託を並べてもしょうがないので、写真をご覧ください。(写真をクリックすると拡大します)
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2008.04.19 (Sat)

中山グランドジャンプ、マイラーズC

 皐月賞を明日に控えた今日、中山で中山グランドジャンプ、阪神でマイラーズCが行われた。

 中山グランドジャンプ(J-GⅠ・4歳以上、芝4250m、10頭)は、日本最長距離のレース。フランスからアラームコール、アメリカからグライディングが参加しての障害レース。人気はエイシンニーザン、メルシーエイタイム、マルカラスカルの順である。

 スタートからまずフォレストダンスが行く。それをマルカラスカルが追う。3番手にオートゼウスで、その後ろは集団。先頭を行くフォレストダンスは、1周目の正面スタンド前あたりから、後続を引き離しにかかる。7馬身、8馬身・・・。2番手にマルカラスカル、3番手にオートゼウスと位置取りに変化はない。そして最初の難関、大竹柵だが全馬が無事に飛越を終える。逆周りに入りフォレストダンスが先頭をキープ。相変わらずリードは8馬身、また2番手のマルカラスカルも3番手に8馬身の差をつけている。3番手以降は、ほぼバラけてなく追走。次の難関は大生垣障害である。フォレストダンスが飛越するが、ここでマルカラスカルが先頭を奪う。また後続のオートゼウスが落馬。

 マルカラスカルが先頭に立って、2番手にいたフォレストダンスがスローダウン。いよいよ向こう正面から、3コーナーへかかってくる。先頭、マルカラスカル、2番手にメルシーエイタイムが上がる。3番手にテイエムエース、その後はフランスのアラームコール、マイネルオーパー、人気のエイシンニーザン、その後は差が開いてフォレストダンスが下がり気味。さらにバローネフォンテン、一番後ろにアメリカのグライディング。この馬はついていけないのか・・・・。

 4コーナーを回って最後の置き障害をマルカラスカルが飛越する。それから離れてメシルーエイタイム、3番手にテイエムエース、バラバラである。ここからマルカラスカルは2番手をさらに引き離して大楽勝。

 1着マルカラスカル 4分57秒七、2着メルシーエイタイム 大差、3着テイエムエース 1/2、4着マイネルオーパー 大差、5着エイシンニーザン。

 阪神のマイラーズC(GⅡ・4歳以上、芝1600m、15頭)は、カンパニー、ドリームジャーニー、エイシンドーバー、コンゴウリキシオーの順に単勝が支持されている。マイラーズCは、先週の桜花賞とスタート地点が同じところであるものの、先週のような華やかさはない。でも注目の一戦である。

 スタートが切られたが、2番人気のドリームジャーニーは出遅れた。もとから追い込み型の馬であるが、ペースの速くならない阪神のマイル戦だけに厳しい。ここで先頭を奪ったのはコンゴウリキシオーであった。2番手にショウワモダンがつける。3番手にマルカフェニックス、4番手にカンパニー、ダイナミックグロウが並んでいる。その後ろはキングストレイル、ハイアーゲーム、マイネルポライト、ニシノマナムスメ、その後は少し差があってゲイルスパーキー、エイシンドーバー、その後はナスノストローク、スターイレブン、オースミグラスワンがいて、ドリームジャーニーが最後方。

 800mを47秒2で通過。1000mを58秒8で通過・・・・。先週の桜花賞よりも遅いペースである。でもそこは古馬、ここからペースが速くなるのだ。コンゴウリキシオーがペースを11秒6、11秒2と上げていく。4コーナー回って直線に入る。外回りの長い直線コースだ。コンゴウリキシオー先頭。その内からショウワモダン、その外にマルカフェニックス。その後ろのインコースにカンパニーがいる。コンゴウリキシオーが先頭。でもカンパニーが外側に切れ込んで、コンゴウリキシオーに並びかけ先頭に出る。さらに外からキングストレイル、ニシノマナムスメも伸びて来る。先頭はここでカンパニー、カンパニー先頭、ニシノマナムスメが来る。さらに外からエイシンドーバーも襲い掛かってくる。でもカンパニーは粘りこんだ。

 1着カンパニー 1分33秒6、2着ニシノマナムスメ クビ、3着エイシンドーバー 1/2、4着ハイアーゲーム 1馬身、5着キングストレイル ハナ。

 さあ、明日の皐月賞はどうなるだろうか・・・・・。人気は今のところ予想通りマイネルチャールズが1番人気であるが・・・・・。
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2008.04.17 (Thu)

ベニー・グッドマンを聴く

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 数年前、『スウィングガールズ』という山形の女子高生ばかりで形成されているビッグバンドの成長を描いた映画があった。その中で彼女たちは『A列車で行こう』を盛んに演奏していたが、もう一つ映画の挿入曲として欠かせない曲があった。それは『シング・シング・シング』である。『シング・シング・シング(Sing Sing SIng)』は、スウィング・ジャズを代表する曲で、よく演奏されるが、女子高生が演奏する『シング・シング・シング』というのも珍しくて、映画のそのシーンを見とれていた覚えがある。

 ところでスウィング・ジャズの王様といわれる人物を知っているだろうか・・・・。その人はベニー・グッドマンという白人のクラリネット奏者である。ベニー・グッドマンは、1909年にシカゴの洋服の仕立て屋の家に生まれ、兄弟が多く暮らしも豊ではなかった。でも両親の理解と兄姉の援助もあって、早くからクラリネットを吹いていた。12歳ではミシガン湖遊覧船のバンドに加わっていたから、かなり早熟であったと思える。16歳では著名なバンドに入団し、19歳で独立しニューヨークで演奏活動を行なうようになり、25歳になると自分のバンド、ベニー・グッドマン楽団を結成するのである。そして、彼は次第にキング・オブ・スウィングと呼ばれるようになっていた。

 スウィングというのはジャズと同義語であるが、スウィングの王様なんていわれるまでベニー・グッドマンの名声は確立されるが、それまでは苦労の連続あった。ベニー・グッドマンは団員の給料、経営上のゴタゴタに辟易していたと見え、彼を支えている2人の後援者に愚痴をこぼす始末である。その頃、彼のバンドはホテルやダンスホールでのBGMとして演奏していたのだが、ロサンジェルスのパロマーで行った時の演奏が、新しいダンス音楽だとして絶賛され、突如としてベニー・グッドマン楽団のレコードが売れ出したのである。こうしてベニー・グッドマンは、1938年にジャズ・ミュージシャンとして初めてカーネギー・ホールでコンサートを開くまでになったのである。この時に、ジャズはようやく世間から認知されたといってもいい。

 ベニー・グッドマンは、全米の注目を浴びる中、『シング・シング・シング』を演奏する。この時の演奏がよほど人々の印象に残ったのか知らないが、『シング・シング・シング』はベニー・グッドマンの代表曲となってしまった。だから今では、『シング・シング・シング』というと、ベニー・グッドマン楽団だと思うようになったのである。でもこの曲は、1936年にルイ・プリマによって作曲された曲である。スウィングしなけりゃジャズじゃないとばかり、スウィングしまくる曲であるが、非常に軽快な曲でダンス音楽から発展したといわれるジャズも変革期にあったということだろう。そのような1930年代、ベニー・グッドマンがバンドリーダー兼クラリネット奏者として、知名度を上げていく頃、ジャズもようやくBGMから聴かせる音楽として確立されていくのであった。このようにベニー・グッドマンは、ただのクラリネット奏者ではなく、黒人を雇った最初のバンドとして賞賛されていく。つまりベニー・グッドマンは人間としての大きさも考慮され、彼をスウィングの王様と呼ぶ人がいたのだろう。彼はまた、交友関係も広く、バルトークと親交があり、クラシック音楽にも造詣が深く、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』を演奏した録音も残されている。また、1936年にはクァルテットも結成し、スモールコンボの先駆けをやっている。このようにベニー・グッドマンは、ジャズへ対する興味と探究心は絶え間なく続き、何時も新しいことへの取り組みを模索していた。・・・・・日本では、『シング・シング・シング』を演奏する時以外、あまり取りざたされないベニー・グッドマンであるが、やはりジャズの歴史に輝く巨人なのである。

 『シング・シング・シング』を演奏するベニー・グッドマン楽団。

 
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2008.04.16 (Wed)

『風月』のカップ焼きそばを食べる

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 大阪の鶴橋に風月というお好み焼きの店があるらしい。全国展開しているのでご存知の方も多いと思う。でも私は一度も行ったことがないが・・・・・・。

 この風月というお好み焼き屋は北海道から九州まで店舗を増やしているが、私の知人が、「この前、東京のヨドバシAKIBA店の風月でお好み焼きを食べたけど、いまいちやったで」という。それで私は「鶴橋の風月は美味しいのか?」と聞いてみた。すると「AKIBA店のものよりは美味い」と彼は返答した。

 彼が言うにはマニュアルというものがあって、食材にしても配合にしても同じだろうけども、鶴橋で食べたときと同じようなお好み焼きが再現されてないという。どこかふんわかとしてなくて、べとついているという。だから食べても胃にもたれて美味しくなかったという。

 彼の話を聞いて、そのようなことはよくあることだと私は思った。経営の拡大により、チェーン店化すると店舗によって美味い店、不味い店は必ず出てくるのは当然である。だからチェーン店の多い店は、私は日頃から行かないのだが・・・・・・・。最もマクドナルドぐらい大きくなると、何処で食べても余り差はないが・・・・。

 そういえば、私が良く食べ歩いた頃の話であるが、大阪には『風月』『ぼてじゅう』『千房』『ゆかり』等のお好み焼きチェーン店なるものがあって、互いに競うように各地に店舗を拡げている。でも、何処のチェーン店も格別美味しいと思わなかったので、今ではすっかり行かなくなってしまった。それで美味しい店というのは、決まって繁華街からそれたところにある店か、家族で細々とやっているような店であったりしたからだ。つまり、たかがお好み焼きといっても、水加減、混ぜ加減、焼き加減一つで美味しくなるか、不味くなるか、紙一重なのである。だからこの道何十年という職人芸に達した人の領域に、簡単に到達できるものでもない。だから拡大路線でチェーン化する店というのは、私は敬遠しているのである。そして、また同じチェーン店でも、焼いている人が違うと、美味しい店、不味い店がそれぞれ出てくるのも至極当然なのである。ところで今日は、お好み焼きの話をするのではなく、カップ焼きそばの話をするつもりだったのだ。

 鶴橋の風月がこのほど、日清食品と共同でカップ焼きそばを発売したから、さっそく買って食べてみたという訳で・・・・・・・。

 えー、カップの上蓋の部分を三分の二ほどはがし、中の物を取り出すと、かやくの袋が二つ、粉末ソース、液体ソースの袋が二つ、そして、真空パックに入った生麺。真空パックから生麺を取り出し、カップにかやくと共に放り込んでから熱湯を注ぐ。注いでから麺をほぐして上蓋を閉じる。数分してから水を捨てる。中にはほどよく茹で上がった麺が湯気をたてている。そこへ粉末ソースと液体ソースを入れ、麺と一緒に掻き混ぜて出来上がり。

 ・・・・・・・食べてみたが、以前からあるカップ焼きそばと大して違わない。ただ生麺というところだけが特徴で、やはり総体的に水臭い。これだと風月で食べる焼きそばが再現されているとは到底思えない。鶴橋の風月で焼きそばを食べたことのある前述の友人に話をすると、「そりゃ、カップ麺の焼きそばよりは、断然美味しいやろ」とのこと・・・・・・・・。私もそのように思うが、風月が鶴橋の何処にあるかも知らない。鶴橋というと焼肉屋の激戦区ではあるが・・・・・・・お好み焼きの店があったなんて・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
EDIT  |  20:22  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.04.15 (Tue)

道頓堀の看板を眺める

 赤い灯 青い灯 道頓堀の
 川面にあつまる恋の灯に
 なんでカフェーが忘らりょか

 昨日に続いて、また道頓堀の話しで恐縮であるが、上の詩は昭和3年(1928年)、京阪神にある松竹座で、映画の幕間劇として岡田嘉子一座の寸劇『道頓堀行進曲』が上演された際、その劇中で歌われた曲の歌詞である。この歌は暫くしてレコードとして発売され、全国的に知れ渡ることとなる。このように昭和3年で、すでに道頓堀というのはネオンサイン煌く賑やかな繁華街であったということが解る。でも有名なグリコのネオンサインというのは、初登場が昭和10年(1935年)なので、この歌が流行っていたころは、まだお目にかかれなかったのである。その当時は、どんなネオンサインが街を照らしていたのか知るはずもないが、さぞや派手だったのだろう。

 そんな道頓堀であるから、派手な看板が昔からあったのかどうか判らないが、現在の道頓堀は『くいだおれ太郎』がなくなるといっても、知らぬ間に見たことのない派手な看板が姿を現していたりして、それこそ目立ったもの勝ちといった様相である。或る店が派手な看板でアピールすると、一方の店はそれに対抗して、負けじと派手な看板を店頭に飾り付けるといった具合で、いたちごっこの有様である。それが互いにエスカレートして、現在のような派手な看板がいたるところで見受けられる道頓堀になってしまったのではないだろうか。それで今回、道頓堀界隈で特によく目立つ看板を写真で撮ってみたのでご紹介するとしよう。

 まずはお馴染みの『かに道楽』である。この『かに道楽』は、直轄店として関東や新潟、浜松、中国、四国に店舗があり、また系列店として北海道にも似たような店舗があって、この本店と同様の動く蟹の看板が飾ってあるので、さほど珍しいこともないが、ここの蟹は全国の支店の蟹よりも大きく、ちょうど戎橋商店街と道頓堀の商店街が交差するところにあるので、みんなが写真を撮っている。
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 こちらは『づぼらや』である。大きなふぐ提灯といったような看板だが、看板の形態どおり「ふぐ鍋、てっちり」等のふぐ料理専門店である。でもこの道頓堀店は支店である。本店は通天閣のある新世界。こちらの本店も当然のように、ふぐの巨大看板がある。
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 こちらは比較的に新しい看板。たこ焼きの『赤鬼』の看板である。美味しいのかどうか知らないけれど、とにかく何時も人が並んでいる。ここのたこ焼きと『大蛸』のたこ焼きは行列をなしている。行列しているから美味しいと思うのか、それとも観光ガイドに載せてあるのか知らないけれど・・・・・・。食べてみたいとは思わない。
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 これは『金龍ラーメン』の看板。豚骨風スープのラーメンである。すぐ近くの『神座』は、あちらこちらに支店を出したせいか味は落ちたという人は多い。こちらは今のところ、遠方に店舗を出す気はないらしい。
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 このタコの看板は見ての通りたこ焼きの『くくる』。たこ焼きと明石焼きの店で、ここも全国展開している関係から特徴のない味だという人もいる。
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 最後の看板は明治製菓の『カールおじさん』の看板。道頓堀では最も新しい巨大看板で、3月26日に設置された。毎時00分には、『カールおじさん』の帽子が上がり、中から『ケロ太くん』が姿を現す。また15時になると、ビジョンに和田アキ子が登場し、メッセージと共に時刻を知らせる。でも明治製菓といえば東京資本の会社である。何故、道頓堀に自社の製品の看板を設置したのかといえば、社内会議で、どうせなら大阪の道頓堀に掲げようと決まったらしい。つまり巨大な派手派手看板は、道頓堀ということになっているらしい。だから看板を設置する時に、道頓堀では大先輩にあたるグリコの本社(大阪市西淀川区)にまで行って挨拶したらしい。でもこの『カール』はうすあじで、関西限定販売とのこと。
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 さあ、何年かしたら道頓堀に新しい看板が設置されているかもしれない。10年後にはどうなっているやら・・・・・・。
                                                    
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2008.04.14 (Mon)

くいだおれ太郎は?

 7月で閉店が決まった食堂ビル『くいだおれ』。店の名物『くいだおれ太郎』の横には観光客が必ず並んで写真を撮っていく。
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 何時も何時も『くいだおれ太郎』の周辺は黒山の人盛り。
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 大阪の道頓堀にある総合食堂ビル『くいだおれ』が閉店することになった。創業は古く戦後の1949年6月にオープンしたという。当時は贅沢な食べ物がない時代で、さぞや繁昌したことであろう。その時から屋号は『くいだおれ』だったらしい。創業者の山田六郎という人は面白い人で、オープンしてからまもなく店の前に機械仕掛けの人形をおけば子供が喜ぶと思いつき、チンドン屋のような派手な格好をした人形を店頭に立たせた。それが『くいだおれ人形』である。赤と白の縦縞模様、ピクピクと動く眉毛、丸い黒縁眼鏡、尖り帽子、背中に大きなドラム、腰には小太鼓を携えている。そんな食堂とは何の因果関係もない動く人形が、一日中、店頭で愛想を振りまいている。

 このようにして『くいだおれ』の前に立つ、『くいだおれ人形』は誕生から58年が経過するというが、当初は知る人ぞ知る程度の知名度であった。それが何時の間にか大阪を代表する全国の顔になってしまった。でもとうとう7月で店が閉店するとなると、この人形も同様に姿を消すことになるのだろうか。

 思えば私が小学校に入った頃、今は亡き親父に道頓堀へ連れていってもらった頃から、すでにこの人形は存在した。なんかロイド眼鏡をかけた変な顔をした人形が太鼓を叩いているというぐらいの印象でしかなかった。親父に連れられて、確か何処かの芝居小屋で漫才を見たのだが、はっきり覚えていない。今と違って当時の道頓堀は、今のように観光客はあまりいなかった。道頓堀五座と言われるだけあって、芝居小屋が並んでいたものだ。だが現在、歌舞伎、演劇、寄席等の興行を行っているところは松竹座とB1角座のみである。

 昔は道頓堀というと浪花座、中座、角座、弁天座、朝日座と芝居小屋が並び、それこそ歌舞伎、人形浄瑠璃、芝居、仁輪加、浪曲、落語、漫才が毎日、各小屋で行われており、それらの人が集い、観劇の前や後で食事をする人を目当てに食堂が軒を連ねていたところなのである。

 戦後になって道頓堀も活況が続いていたが、テレビの時代になり、人の娯楽も多様化していき、芝居小屋がだんだんと閉鎖に追い込まれ、道頓堀も昔の光景とは一新してしまった。でも、そんな中で50年以上も道頓堀に立ち続けたのが『くいだおれ人形』である。街の歴史を見てきたのだろうか、すっかり様変わりしてしまった道頓堀。今はパチンコ屋、ゲームセンター、カラオケ店、レンタルビデオ屋、場外馬券・・・・・老舗の食堂は姿を消していき、後はファースト・フードのチェーン店、たこ焼き屋、ラーメン屋が多くなり、観劇に来る人は消えてしまい、訪れる人の大半は今や観光客である。

 つまり道頓堀は観光客相手の店舗が増え、昔ながらの店が消えていったのである。そんな中で『くいだおれ』は、総合食堂ビルということもあって、以前は物珍しさもあって人も入っただろうが、今は食通のグルメ気取りの人に受けなくなってしまったのだ。それに現在、道頓堀に居並ぶ店舗で、あまり美味しいと思える店はほとんどない。これは大阪の食通なら誰でも知っている事実だ。でも観光客が大勢来るので、黙っていても客は入った。でも最近の日本人は1億総グルメとかで、総合食堂ビルなんてものには行かないのだ。

 このあたり、店の方針が世間の流れにそぐわなくて、店舗閉鎖にまで追い込まれたのであろう。今や総合食堂なんて誰も行かなくなった。百貨店の大食堂で日の丸の旗が刺してあった『お子様ランチ』を食べて喜んでいた子供達など今は過去のこと。今の子供は小さい頃から回転寿司でトロを食べている。だから総合食堂なんて連れて行ってもらっても喜ばない。要するに子供でさえ食通を気取る時代である。とりたてて特別、美味しいわけでもない『くいだおれ』の料理(失礼!)・・・・・時代が変わってしまったといえばそれまでだが、店の閉鎖もやむを得ないか。

 とはいえ、『くいだおれ人形』が消えるのも寂しい気がする。この場所にあるのが当たり前のように思っていただけに、突然、いなくなるとどうなるのだろうか・・・・・・・。でも人形を譲ってくれという依頼は殺到しているという。いっそのこと、この店舗ごと買ってもらって、新たに違う商法で勝負して欲しいと思うけど・・・。『くいだおれ太郎』は道頓堀にいるから、価値があるのであって、それ以外のところに行ったからといって何の価値があるかと思うのだが・・・・・・・。
                                                           
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2008.04.13 (Sun)

第68回桜花賞

 3歳クラシック戦線第一弾の第68回桜花賞(Jpn-Ⅰ・3歳牝馬、芝1600m、17頭)が曇り空の阪神競馬場で行われた。いよいよ、このレースから本格的な競馬シーズンが始まれるといっても過言ではない。少なくともオールド競馬ファンは、そう思っている。
 
 花散らしの雨が先日に降ってから、桜は一気に散ってしまった。でも宝塚にある阪神競馬場の向こう正面は、まだ散り残った桜が残っていて葉桜とまでいってない。でも今年は乱戦模様の桜花賞になりそうで、天候もどんよりとしている。

 昨年から桜花賞は新コースになったので、過去の桜花賞のセオリーが通用しなくなり、昔のような乱ペースでなくゆったりとしたペースで展開するだろうと予想される。それで昨日になって、有力な先行馬のポルトフィーノが出走を見合わしたので、今年の桜花賞は混戦の上にスローペースで、上がりのレースになると思われた。そんな中で1番人気はトールポピー、2番人気はリトルアマポーラ、3番人気はオディールで、三つ巴の様相を呈しているが、今年に関しては何が勝つか正直解らない。

 さあ、いよいよスタートが切られる。ゲートが開くやそろっと各馬が飛び出した。でもリトルアマポーラが下がってしまった。またブラックエンブレム、シャランジュも後方から行くつもりであろうか・・・。先行争いは内の方からデヴェロッペ、エイムアットビップが行く。ハートオブクィーンとエアパスカルがその後につけ、さらにルルパンブルー、エーソングフォーがつづく、その後にエフティマイア、人気のオディールが何時もより前の位置で続き、マイネレーツェルがいて、その外にソーマジック、それからマダムルコント、その外にレジネッタ、内からブラックエンブレムが上がって行き、その後ろに1番人気のトールポピー。それをマークするのがリトルアマポーラ、その内にベストオブミー、一番後ろにシャランジュがいて淡々とした流れで3コーナーの一番奥深いところを各馬が通っている。800m通過は46秒4と意外にも速い。昨年の桜花賞は47秒8だったから、今年の方がペースは速いのである。

 だが、先団と後方集団との間に間隔があき、先頭と最後方までは縦長になっている。はたしてトールポピーもトリトルアマポーラも、あんなに後方で届くのか・・・・・・。私はここで桜花賞は大荒れになると感じた。

 あと600m、先頭と後方とは、まだ差が開いている。でも後方の各馬は徐々にではあるが、差を詰めてきている。そして、いよいよ直線コースに向く。内から外に馬群が大きく拡がった。ここから激しい追い比べが見られるのか。ここまで先頭はインコースのエイムアットビップだ。エアパスカルが2番手、トールポピーとリトルアマポーラは一番大外にいるが、まだ後ろの方である。あと200m、エイムアットビップ先頭、依然として先頭、あと100m、ハートオブクィーンがエイムアットビップを捉まえた。その外からエフティマイア、レジネッタが伸びて来る。外からソーマジツクも来る。大外からリトルアマポーラもようやく迫ってきた。でもここで先頭はレジネッタ、最後に抜け出したのはレジネッタ。2番手争いは混戦で、4頭、5頭やって来た。でも1着はレジネッタ。

 1着レジネッタ 1分34秒4、2着エフティマイア 1/2、3着ソーマジック クビ、4着ハートオブクィーン クビ、5着リトルアマポーラ ハナ。

 トールポピーは8着、ブラックエンブレムは10着、オディールは12着だった。三連単の配当が7002920円という超大穴馬券になってしまった。勝ったのが12番人気のレジネッタ、2着が15番人気のエフティマイアだからしょうがない。この結果はレース前から予想されたことだから、とはいうものの人気馬のトールポピー、リトルアマポーラの位置取りは後ろ過ぎなかっただろうか・・・・。こんなペースだと前が比較的楽をしているから、後方から行ったって届くはずがないだろう。

 それにしても今年は例年にない低レベルのような気がする。勝ち時計も平凡で、昨年のダイワスカーレットとウオッカが叩きあったレースよりも時計が0.7秒も遅い。途中ラップでは昨年よりも速かったのに、この時計である。それでいて差しきれないトールポピーもリトルアマポーラも頼りない人気馬である。昨年のダイワスカーレットの上がり時計は33秒6、2着のウオッカも33秒6である。今年は最速の上がりを計時したリトルアマポーラでも 34秒3とかかっている。去年と比較して馬場が悪いというのでもないだけに、今年の3歳馬のだらしなさは各所に見られる。

 もし33秒台の脚が使える馬がいたら、問題なく差し切っていることになる。今年の桜花賞は最後の1ハロンが12秒6と遅く、先行馬がバテきっている。だから後続馬が届かないといけないのであるが、レジネッタ以外はだらしがない。そういうレジネッタでも次走は勝てるかどうか解らない。

 ただレジネッタに騎乗した小牧太騎手にはおめでとうといいたい。さあ、来週は皐月賞である。またどうなることやら・・・・・・。
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2008.04.13 (Sun)

駄菓子を食べる

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 春眠不覚暁 処処聞啼鳥・・・・・・・・・・これは唐の詩人・孟浩然の『五言絶句』の『春眠』の詩の頭の部分である。この後も続くが、このPCでは、詩に出てくる漢字が変換できないのでここでやめる。この詩の意味は・・・・・最近は夜明けが早くなってしまい、起床のころには周囲が明るくて小鳥が囀っている。昨晩は雨風強く、せっかく花開いたもののすっかり落ちてしまった。

 こういった内容なのであるが、我々は春になるとよく「春眠暁を覚えず」といって、何時までも眠いことの例えのように言ってしまう。でも本来は上記のような意味なのである。だから春は何時も眠いというと、与謝蕪村の俳句の方がこのような状況にぴったりくるだろう。

 春の海 終日のたりのたり哉

 とにかく春は眠たい。とくに昼下がりになると何となく眠くなる。心地よい暖かさと気だるさが相まって目蓋がトロンとしてくるのである。私は睡眠時間は他人よりも短くて、平均で4時間から5時間なのであるが、そういったせいかもしれないが昼間に眠たくなるのは常日頃である。以前は、タバコを吸うと眼が覚めていたものであるが、タバコをきっぱりとやめて10年以上にはなる。タバコをやめるとこれが、けっこう手持ち無沙汰であって、やめたばかりの頃は口が寂しくて、家に居る間はガムを噛んだり、コーヒーを飲んだりしてまぎらわしていたものである。でも最近は何故か、駄菓子をよく食べるようになった。

 お茶菓子というべきなのか、お茶をよく飲むようになったから、ついでに何か食べたくなるのである。読書をしていてもすぐに眠くなるし、何故か腹が減ってくる。だからちょっと一服といったようなもので、急須で熱いお茶を入れて飲みながら駄菓子を食べるのである。駄菓子だから何でもいいのだが、チョコレートやキャラメル、ビスケット、クッキー、クラッカー、ケーキといった西洋のお菓子では駄目なのだ。日本茶だから昔からある日本伝統の駄菓子の方がいい。煎餅、おかき、あられ、饅頭、羊羹、外郎、草餅、餡餅、わらび餅、団子、ポン菓子・・・・・・・色々あるものだが、老舗店にあるような高級和菓子ではなく、何処にでもあるような駄菓子の方が良い。

 私が最近、よく食べる物に黒糖を原料にしている麩菓子がある。懐かしい味がするが緑茶と合うから時々、買ってしまうのだ。また『わさびせん』というのもよく食べる。馬鈴薯澱粉、エビ等の粉末に、植物油脂、食塩、調味料、香辛料で固めて味付けしてワサビ風味でとじてあるのだが、お茶との相性がいいから、これも時々買って食べている。

 その他では煎餅、おかき、あられの類が多いが、先ほどの『わさびせん』というのは、よくいう煎餅ではない。煎餅というのは『草加煎餅』のように、関東では昔から『うるち米』を原料として、醤油で味付けして焼いたものをいう。でも最近では、平べったい形状のお菓子を一般的に『せんべい』というようだ。

 また関西では醤油で味付けして焼いた物を煎餅と呼ばない場合が多く、関東で言う『煎餅』も関西では『おかき』と呼ぶ場合があるので、どれが『せんべい』で、どれが『おかき』だとかあまり区別していないようだ。でも小さい物は『あられ』というようであるが・・・・・。関西では昔から『うるち米』ではなく『もち米』で作って焼いた物が多く、それらを総称して『おかき』と呼んでいたようだ。だから『煎餅』でも『あられ』でも『おかき』という人が多い。でも、そんな蘊蓄はさておき、お茶を飲むと何故に駄菓子が欲しくなるのだろうか・・・・・・・。これこそ食べだしたら「やめられない、とまらない・・・・・・・○○○エビセン」
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2008.04.12 (Sat)

ニュージーランドT、阪神牝馬S

 桜花賞を前日に控えた今日、中山でニュージーランドT、阪神で阪神牝馬Sが行われた。

 ニュージーランドT(Jpn-Ⅱ・3歳、芝1600m、16頭)は、昨年の2歳チャンピオン、ゴスホークケンが久々に登場した。それで当然の1番人気。でも今年の3歳馬は安定感のある馬が少なく、久々だけに波乱の要素があった。

 スタートが切られたが、ゴスホークケンよりもダンツキッスイとスペシャルブレイドの方がダッシュよく飛び出した。でも1ハロンも行くとダンツキッスイが単騎先頭にたち、後続を引き離しにかかった。2番手を5馬身離して飛ばす。2番手にスペシャルブレイド、3番手にロードバリオス、4番手に朝日杯の覇者ゴスホークケン、5番手にサトノブログレス、その後にリーサムクラウン、さらにアロマキャンドル、アポロラムセス、タマモスクワート、エーシンフォワードと続き、2馬身おいてアサクサダンディ、レオマイスター、ホッカイカンティ、さらに遅れてメジロガストン、最後方にダノンゴーゴーといったところである。あと800m、ここでリーサムクラウンが故障発生、ズルズルと後退する。でもダンツキッスイはさらに飛ばし、3コーナーにかかる辺りで8馬身、9馬身と後続に差を拡げる。ハロン毎のラップタイムは12.5---11.0---11.0---11.4---11.8と1000m通過が57秒7、やや速めのペースで推移している。いよいよ直線に向くが、まだ2番手とは5馬身ほどの差がある。その後続の集団からはサトノブログレスが抜き出てきた。内からはレオマイスター、ロードバリオス、エーシンフォワードもやって来る。あと100m、ここでサトノブログレスが先頭にたつ。2着争いは4頭、5頭固まって叩き合う。先頭はサトノブログレス、2番手争いはエーシンフォワード、アサクサダンディか・・・・・・。

 1着サトノプログレス 1分35秒0、2着エーシンフォワード 3/4、3着アサクサダンディ アタマ、4着ホッカイカンティ クビ、5着レオマイスター ハナ。

 ゴスホークケンは良いところがなく12着。500万級の1200mダート戦を勝ったばかりの馬が、あっさりと重賞を勝ってしまうぐらい、今年の3歳馬はオープン馬の実力が低いのではないかと思える。これだと明日の桜花賞も何が勝つか、蓋を開けてみないと解らないなあ。

 阪神では古馬牝馬の阪神牝馬S(GⅡ・4歳以上、芝1400m、15頭)が行われた。1番人気は芝の1400mに実績のあるブルーメンブラット 、2番人気は阪神で好成績を残すジョリーダンス、3番人気は昨年のオークス馬ローブデコルテ、4番人気は一昨年の桜花賞馬キストゥヘヴン。

 スタートするやエイジアンウインズが先頭に出る。2番手にカタマチボタン、3番手にシールビーバック、ローブデコルテ、5番手にヘイローフジ、その後にジョリーダンス、アルーリングボイス、ピンクカメオ、さらにタニノハイクレア、ブルーメンブラット、パーフェクトジョイ、その後にはキッスアンドライド、キストゥヘヴン、ニホンピロブリュレ、ミルクトーレルが後方から追走する。平均ペースで各馬が差がなく、いよいよ4コーナーを回る。先頭はエイジアンウインズ、その外にカタマチボタンが並びかけようとする。その直後にローブデコルテもいる。しかし、エイジアンウインズは二の脚を使ってまた伸びようとする。あと200m。エイジアンウインズが差を拡げようとする。しかし、ブルーメンブラットは馬群を抜け出して、一気に襲い掛かってくる。エイジアンウインズに迫る迫る。でもエイジアンウインズは逃げ切った。

 1着エイジアンウインズ 1分21秒4、2着ブルーメンブラット クビ、3着パーフェクトジョイ 3馬身、4着キストゥヘヴン ハナ、5着ジョリーダンス クビ。
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2008.04.11 (Fri)

ただいまスキャン中

 毎週、金曜日の夜になると、当パソコンは自動的にウイルススキャンされます。だから、この間の2時間ほどは何もできません。そういうことで、これから金曜日は記事を書く時間が取れそうもなく、更新できるかどうか解りません。なので今日は、とりあえずブログ更新をお休みにします。

 べつだん大して期待されているわけでもないし、読んでる人もあまりいない、小さな小さなブログなので、これから更新頻度も落として、月に10回程度の更新に減らそうかと考えています。
EDIT  |  20:40  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.04.10 (Thu)

サイヤーライン(父系)から見た桜花賞

 今週の日曜日、いよいよ3歳クラシックレース第一弾の桜花賞が行われる。今年は昨年のウオッカ、ダイワスカーレットのような2強ではなく、絶対的な本命馬のいない混戦桜花賞だといわれている。それで予想ではないが、出走馬の父系から見た桜花賞というものを検討してみたいと思う。

 ところで何故、こんなことをやってみるのかというと、競馬はブラッドスポーツなのである。血統が大事であって、やはり二線級の種牡馬よりも一流の種牡馬の方が良い子を輩出する確率が高いということを考えてもらいたいからである。私はサラブレッドの血統の面白味に目覚めて、はや30年以上になる。最近はテレビゲーム『ダービー・スタリオン』『ダービー馬をつくろう』等で、サラブレッドの血統に興味を持った人も多いだろうと思う。でも私は、そんなゲームが世の中に出てくる遥か前からサラブレッドの血統に興味を持っていた。その頃の主流の種牡馬はヒンドスタンであったが、その後にチャイナロック、ネヴァービート、テスコボーイ、パーソロン、ノーザンテースト、トニービン、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスと時代が変遷してきたのを見てきている。それで、何れもが一時代を築いた種牡馬であり、それぞれが他の同時期の種牡馬よりも優秀な子を大勢出したからに他ならない。それならレースごとに、その種牡馬がどのレースに向いているかという傾向が読み取れるのではないかと思った次第である。だから今回、桜花賞と種牡馬の相性、またサイヤーラインの流行り廃りというものがあるとするならば、何かしら桜花賞の検討をする上でヒントになるものが隠されているのではないかと考えたまでである。

 それでは、まずは過去10年間の桜花賞1、2着馬の名前と父親(父系)を記すとする。

ファレノプシス     ブライアンズタイム(ハイルトゥリーズン系)
ロンドンブリッジ    ドクターデヴィアス(ジェベル系)
プリモディーネ     アフリート(ミスタープロスペクター系)
フサイチエアデール  サンデーサイレンス(ハイルトゥリーズン系)
チアズグレイス     サンデーサイレンス(ハイルトゥリーズン系)
マヤノメイビー      ミスワキ(ミスタープロスペクター系)
テイエムオーシャン  ダンシングブレーヴ(ノーザンダンサー系)
ムーンライトタンゴ   ダンスインザダーク(ハイルトゥリーズン系)
アローキャリー     ラストタイクーン(ノーザンダンサー系)
ブルーリッジリバー  フジキセキ(ハイルトゥリーズン系)
スティルインラブ    サンデーサイレンス(ハイルトゥリーズン系)
シーイズトウショウ   サクラバクシンオー(プリンスリーギフト系)
ダンスインザムード   サンデーサイレンス(ハイルトゥリーズン系)
アズマサンダース   サンデーサイレンス(ハイルトゥリーズン系)
ラインクラフト      エンドスウィープ(ミスタープロスペクター系)
シーザリオ       スペシャルウィーク(ハイルトゥリーズン系)
キストゥヘヴン     アドマイヤベガ(ハイルトゥリーズン系)
アドマイヤキッス    サンデーサイレンス(ハイルトゥリーズン系)
ダイワスカーレット   アグネスタキオン(ハイルトゥリーズン系)
ウオッカ         タニノギムレット(ハイルトゥリーズン系)

 上記の馬名の羅列を見てもらえば一目瞭然、何とハイルトゥリーズンの系統の馬が13頭もいる。これはサンデーサイレンスとブライアンズタイムという種牡馬が共にハイルトゥリーズンの系統なので、このような結果になっているのだが、サンデーサイレンスの子供であるダンスインザダーク、フジキセキ、スペシャルウィーク、アドマイヤベガ、アグネスタキオン・・・・それにブライアンズタイムの子供であるタニノギムレット辺りも産駒が桜花賞で1、2着に入線しているから、ハイルトゥリーズン系の独壇場となっているのだ。

 その他の系統ではミスタープロスペクター系が3頭、ノーザンダンサー系が2頭、珍しいところではジェベル系、プリンスリーギフト系といった20年以上前は、日本で栄えた系統からも、それぞれ1頭ずつ桜花賞で連対をはたしている。

 それでは、今年の出走馬をサイヤーラインの系統ごとに分けてみるとする。 【桜花賞出走馬名と父親名(父系)】

 デヴェロッペ-----ボストンハーバー(ボールドルーラー系)、エーソングフォー-----モアザンレディ(ハイルトゥリーズン系)、エイムアットビップ-----アグネスデジタル(ミスタープロスペクター系)、マイネレーツェル-----ステイゴールド(ハイルトゥリーズン系)、オディール-----クロフネ(ノーザンダンサー系)、マダムルコント-----メジロライアン(ノーザンダンサー系)、ポルトフィーノ-----クロフネ(ノーザンダンサー系)、ハートオブクィーン-----ジョリーズヘイロー(ハイルトゥリーズン系)、リトルアマポーラ-----アグネスタキオン(ハイルトゥリーズン系)、トールポピー-----ジャングルポケット(グレイソヴリン系)、エアパスカル-----ウォーエンブレム(ミスタープロスペクター系)、ベストオブミー-----ブライアンズタイム(ハイルトゥリーズン系)、ソーマジック-----シンボリクリスエス(ハイルトゥリーズン系)、ルルパンブルー-----ジャングルポケット(グレイソヴリン系)、レジネッタ-----フレンチデピュティ(ノーザンダンサー系)、ブラックエンブレム-----ウォーエンブレム(ミスタープロスペクター系)、シャランジュ-----テンビー(ノーザンダンサー系)、エフティマイア-----フジキセキ(ハイルトゥリーズン系)

 やはりハイルトゥリーズン系の馬が多い。18頭中7頭を占める。でも意外とノーザンダンサー系が5頭も出走してきた。ノーザンダンサー系は今でもヨーロッパの主流サイヤーラインなのであるが、日本のような軽い馬場だと、最近はハイルトゥリーズン系に押されている。またアメリカで強いミスタープロスペクター系の馬も3頭いるので無視できない。あとはグレイソヴリン系のジャングルポケット産駒が2頭出てきている。またボールドルーラー系の種牡馬ボストンハーバーの産駒もいるではないか・・・。ボールドルーラー系なんて、1960年代から1970年代まではアメリカの主流血脈だったのに、最近はミスタープロスペクターに押され気味で、巻き返しがなるかどうかというところである。

 それで私は何から買うかって・・・・・・・・馬券を買うとなると難しい。でもハイルトゥリーズン系の馬を中心に買うことになるだろう。一応、頭はリトルアマポーラ・・・・・・・・??

 いや競馬を当てるほど難しいものはない・・・・・・・・。
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2008.04.09 (Wed)

カール・パーキンスを聴く

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 カール・パーキンスなんて今時、知っている人などいるのだろうか・・・・・。亡くなって10年経過している。もし仮に今、生きていたとしても、1932年の4月9日生まれだから、今日でちょうど76歳となる。

 でもカール・パーキンスの名を知らなくても『ブルー・スウェード・シューズ』というロックンロールの曲を知っている人は少なくないだろう。ところが、この曲はエルヴィス・プレスリーがオリジナルだと思っている人は多い。実はオリジナルは、このカール・パーキンスなのである。

 そもそもロックンロールというものが、この世に現れてポピュラー・ミュージックが様変わりした。それらの激しいリズムを持つ音楽に若者が飛びついた。1955年に大ヒットしたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの『ロック・アラウンド・ザ・ロック』をロックンロールの最初の曲だとする人は多い。また、その頃、多くのロックンローラーが時を同じくして出現した。リトル・リチャード、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、ジェリー・リー・ルイス、エディ・コクラン、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント・・・・・・そして、エルヴィス・プレスリーもいたしカール・パーキンスもいた。

 ロカビリーともいわれるロックンロールが登場したのが、この1950年代半ばであるが、これらの音楽は黒人音楽のリズム&ブルース、白人音楽のカントリー、その他、ジャズやダンス・ミュージック・・これらが融合して、出来上がった音楽でもあるが、強烈なパンチのある曲が多く、電気ギターといわれたエレキギターを使っていることが特徴で、これらが発展していき現在のロック音楽に繋がっていくのだが、これらの黎明期にカール・パーキンスがいて、彼がその後に与えた影響というのは少なくない。一般的にロックンロールといえばプレスリー。アイドル的な人気があり、大スターでもあった。また黒人のチャック・ベリーは『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ジョニー・B・グッド』『ロックン・ロール・ミュージック』が余りにも有名である。

 彼らと比べると知名度では遥かに劣るが、カール・パーキンスも後のアーティストに少なからず支持されている。彼は1932年にテネシー州で生まれ、カントリーを聴いて育ち、一方でゴスペルやブルースもよく聴いたという。やがてカールは、テネシーの農園で働く黒人からギターを教わり、何時の間にやカントリーのビートでブルースを弾くようになった。後にカール・パーキンスは、兄と弟と共にパーキンス・ブラザース・バンドを結成し、アマチュア・コンサートに出場したりした。それから数年後には地元のラジオ局でレギュラー番組を持ち、彼等のバンドが演奏する曲は電波で飛ばされるのであった。

 そんな頃、カール・パーキンスはエルヴィス・プレスリーの曲をラジオで聴くこととなる。彼は衝撃を受け、さっそくメンフィスにあるサン・レコードを訪れて、レコード・デビューの夢を果たすのである。1955年2月にカール・パーキンスは『ムービー・マッグ』でデビューする。この曲はカントリー曲で、当初、カール・パーキンスはロックンロールを唄ってなかった。それが1956年1月『ハニー・ドント』『ブルー・スウェード・シューズ』のカップリングで出されたシングル盤は、瞬く間に200万枚以上売れたという。そして、プレスリーはカール・パーキンスの『ブルー・スウェード・シューズ』をカバーすることとなる。だが、後年はプレスリーの唄う『ブルー・スウェード・シューズ』の方が有名になってしまったのである。

 ところで、私がカール・パーキンスの名を何で知ったかというと、ビートルズがカール・パーキンスの曲をよくカバーしていたからである。『みんないい娘(Everbody's Tryin' To Be My Baby )』『ハニー・ドント』『マッチボックス』等の曲はすっかりビートルズで馴染んでいる。このようにビートルズはカール・パーキンスの曲をカバーして、初期のアルバムに入れているぐらいだから、カール・パーキンスから得るところは大きかったというところである。なのに今ではカール・パーキンスの名を知る人も激減した。とはいえ、その後、多くの人のカバーによって彼の書いた曲は何時までも残っているのである。

 『ブルー・スウェード・シューズ(Blue Suede Shoes)』を唄うカール・パーキンス。


 『マッチボックス(Matchbox)』を唄うカール・パーキンス。

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2008.04.08 (Tue)

2008グランド・ナショナル

 先日の5日、イギリス伝統の競馬の障害レースであるグランド・ナショナルが行われたので、その結果を記すとする。1836年に始まったとされる世界一過酷な競馬の障害レース、グランド・ナショナル・ハンディキャップ・チェースが4月5日、イギリスはリヴァプール郊外のエイントリー競馬場で行われた。

 第161回目となる今年のグランド・ナショナルは、40頭の出走があり、30障害の関門をクリアーしてゴールしたのは15頭。約7242mの距離を克服して勝ったのはコンプライオアダイ(Comply or Die)という9歳のセン馬で、勝ち時計は9分16秒6、2着のキングジョンズキャッスル(KIng Johns Castle)に4馬身の差をつけて勝った。このレースは6歳以上の馬しか出走ができず、過酷すぎるということでGⅢの格付けしかされてないのである。

 障害は全部で30ある。.この中にはビーチャーズ・ブルック(6番目、22番目の障害)という踏み切り点よりも着地点の方が低い障害や、フォイナヴォン(7番目、23番目の障害)というカーブしながら飛越する障害や、キャナルターン(8番目、24番目の障害)という飛越してすぐに左へ曲がらなければならない障害や、バレンタインズ・ブルック(9番目、25番目の障害)や、ザ・チェアー(15番目の障害)という飛越側に乾壕のある障害が待ち受けている。

 とにかくグランド・ナショナルは、動物愛護団体がやり玉にあげるぐらい過酷で厳しい障害レースなのである。毎年、40頭ぐらいの出走がありながら、完走するのが毎年10頭前後という凄まじさである。かつてミステリー作家のディック・フランシスは、騎手時代にデヴォンロックという馬でグランド・ナショナルに出走し、最終障害を飛越して先頭にたった。そして、最後の直線コースで後続を引き離して優勝かと誰もが思った途端、馬が突然のように飛びあがって四つんばいになってしまったことがある。この時、デヴォンロックは披露困憊で幻の障害を見たのか、それとも・・・・・騎乗していたディック・フランシスは狐につままれた様に下馬したが、デヴォンロックは何事もなかったように立ち上がったという。

 こんな風に何かとエピソードには事欠かないグランド・ナショナルである。このレースのことををよく知りたい人は、エリザベス・テイラーが主演した映画『緑園の天使』をご覧になってもらえば解ると思う。とにかくイギリスでは、ダービー以上に人気のある競馬レースなのである。それでは、今年のグランド・ナショナルのレース模様をご覧ください。

ディック・フランシス騎乗のデヴォンロック(Devon Loch)が優勝目前で・・・・・・何があったのか(1956年のグランド・ナショナル)。


 今年のグランド・ナショナル。最後の叩き合いで決まった。

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2008.04.07 (Mon)

チャールトン・ヘストン死去

 チャールトン・ヘストンが亡くなった。84歳だった。その昔、私が子供の頃、京都高島屋の裏にあった映画館のワイドスクリーンで観た『ベン・ハー』を忘れない。その時は、役者の名前も知らず、ただ偉丈夫で頑健な体つきをしていた主人公のベン・ハーに畏敬の念を持っていた。また『十戒』でモーゼに扮していた彼にも、超人的な人物像を思い描いていた。また、それ以外だと『華麗なる激情』のミケランジェロ、『エル・シド』のエル・シド、『ジュリアス・シーザー』のアントニウス、『偉大な生涯の物語』のヨハネ・・・・・・・・・・。このようにチャールトン・ヘストンの演じた役というのは、歴史的な偉人、超人、英雄といったものが多く、私の少年時代にある彼は、人間離れしたスーパースターであった。

 これはチャールトン・ヘストンが、ウィリアム・ワイラー、セシル・B・デミル、キャルロ・リードといった巨匠といわれる監督に気に入られたからでもあるのだが、いわば強いアメリカの代名詞的な役者であったから、こういった役柄が回ってきたものと思える。

 チャールトン・ヘストンというのは、アメリカ全盛期の1950年代に役者として頂点に登りつめた。第二次世界大戦では爆撃機に搭乗し、戦後は役者として銀幕に登場するようになる。セシル・B・デミル監督の大作『地上最大のショウ』(1952年)に出演し、その時の演技を認められ、次の同監督作品『十戒』(1956年)でモーゼの役に挑戦し、チャールトン・ヘストンの名を高めることとなる。そして、映画史に残る歴史大作『ベン・ハー』(1959年)で、数奇な運命を辿るユダヤ人青年ジュダ=ベン・ハーを見事に演じて、チャールトン・ヘストンは、強いアメリカを代表する一流俳優として名を轟かせることになる。だからチャールトン・ヘストンは、堂々たる立派な体格と、如何にもアングロ・サクソン系の顔立ちで、保守的なアメリカ人から支持を受けたのだろう。役柄は常にヒーローであり、この頃の彼には性格的な役やひ弱な役、性格の曲がった役、病的な役とは無縁で、絶えず英雄、超人、偉人に扮し、常にハリウッドの最前列に立つ本格的役者であった。

 それが突然、チャールトン・ヘストンが『猿の惑星』という奇妙な映画に出演してきた時は驚いたものである。それは今までの固定概念を崩すものであり、彼としては汚れ役に近かったであろう。でも、当時の私は、チャールトン・ヘストンに対しては超人的な人間像を持っていて、それが『猿の惑星』により見事に崩され、この時から彼を等身大の人間として見るようになったものである。そして、これ以降のチャールトン・ヘストンは過去のように、英雄的な役をあまり演じなくなった。それは何故だか解らないが、アメリカという国の在りかたが変化してきたからだろうと思う。

 チャールトン・ヘストンが『十戒』『ベン・ハー』に出ていた頃は、繁栄の象徴のアメリカという国だった。それが繁栄を謳歌していた時代から崩れ去り、アメリカが腐敗しきった現実を世界に曝け出した1960年代・・・・公民権運動に参加していたチャールトン・ヘストンがいる。彼は実像とは違うリベラルな一面を持っていたのである。当時の強いアメリカの顔的チャールトン・ヘストンであるが、現実では人種差別に反対する革新派であったかもしれないのだ。・・・それともアメリカの悩める問題に眼を背けられなくなり、デモに参加してみたりしている間に、それまでの英雄的役柄を演じるのが馬鹿らしくなったのかもしれない。でもよく考えてみると、チャールトン・ヘストン以前から存在する強いアメリカを代表する役者はジョン・ウェインであった。

 ジョン・ウェインは西部劇に数多く出演し、ヒーローを演じてきた強いアメリカを代表する俳優である。でも保守的思想を持ち、アメリカ愛国者でもあった。一方、チャールトン・ヘストンは役柄とは違ってリベラルな面を持っていたという。だからチャールトン・ヘストンが、1990年代になって保守的なアメリカ人として、「全米ライフル協会」の会長に就任した時は驚いたものである。いったいチャールトン・ヘストンは保守派なのかリベラル派のか?

 若い頃はリベラルで、年齢を重ねて保守派に寝返ったのか・・・・・。何年か前に、アメリカのコロラド州コロンバイン高校で起こった銃乱射事件に関するドキュメンタリー映画を撮ったマイケル・ムーア監督のインタビューに答えたチャールトン・ヘストンが、立場上もあるが銃規制に対して反対の意を示していたのには呆れてしまった。結局、チャールトン・ヘストンは2002年の夏、自らアルツハイマー病に罹っていることを公表し、全米ライフル協会会長を辞任したが、チャールトン・ヘストンの真実はリベラル派なのか保守派なのか、解らずじまいである。

 若い頃、ヒーローを演じ、年齢を重ねてからは役柄も変わってきたが、実生活ではリベラル派から保守的に変わっていったとしたら、これほど滑稽なことはない。やはり役者はスクリーン上でヒーローであっても、所詮は一般の人と同じ、ただの人間なんだということなんだろうか・・・・。

映画『十戒』のTrailer 


映画『ベン・ハー』のチャリオット・レース

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2008.04.06 (Sun)

ダービー卿CT、サンケイ大阪杯

 絶好の行楽日和となった今日、中山でダービー卿チャレンジ・トロフィー、阪神でサンケイ大阪杯が行われた。

 中山のダービー卿CT(GⅢ・4歳以上、芝1600m、16頭)であるが、マイル戦の多頭数。このレースは伝統的に荒れるので有名だが当たり前だ。中山のマイル戦で多頭数出てきたら、まともなレースにならない。ただでさえ最後の直線が短くて、中山の外回りのマイルコースは、ほとんどコーナーという厳しいコースなので後方から行くとほとんど勝てない。だから先手必勝なのである。今回も人気はマルカシェンク、オーシャンエイプス、どちらも末脚を得意とする馬で、危険な人気馬といってよいだろう。もっともマルカシェンクは1月の中山マイル戦で逃げ切っているが、今回は逃げられるだろうか・・・・。

 スタートが切られたが、マルカシェンクはダッシュが悪く後手に回ってしまった。この展開だと厳しいだろう。早くも波乱の要素が・・・・。それで先手をとったのはカンファーベストとドラゴンウェルズだが、激しい競馬である。中山の外回りの最深部を通って、3コーナーにかかるまでの間に、大外のサイレントプライドが先頭に踊り出ていた。2番手にはダンスフォーウィン、3番手にグレイトフルタイム、ドラゴンウェルズ、そしてカンファーベスト、ショウワモダン、シンボリグラン、キングストレイル、その後にリザーブカード、テンイムホウ、ピンクカメオ、チョウサンと続き、ナスノストローク、ニシノナースコールといて、ようやく大外からオーシャンエイプス、さらに最後方がマルカシェンクである。何と人気馬2頭が最後方と後ろから2番目である。これで勝てという方が無理だろう。さあ、4コーナーを回る。内から外に7、8頭が並んで直線に入る。内からサイレントプライド、ダンスフォーウィン、その外にドラゴンウェルズ、カンファーベスト、グレイトフルタイム、テンイムホウ、さらに大外がオーシャンエイプスである。直線に入り、最内のサイレントプライドがコーナーワークで先頭に立った。インコースが有利なのは明白である。懸命に逃げ込もうとする。先頭にサイレントプライド、2番手にダンスフォーウィン、3番手にドラゴンウェルズ、後続も追いすがるが前の3頭で決まりそうだ。先頭はサイレントプライド、ダンスフォーウィンと外のドラゴンウェルズが追うが、先頭のサイレントプライドが勝った。

 1着サイレントプライド 1分34秒2、2着ドラゴンウェルズ クビ、ダンスフォーウィン 3/4、4着リザーブカード 1/2、5着カンファーベスト クビ。

 1番人気のマルカシェンクはメンバー中、最速の上がりタイム33秒6で追い込んだが8着。2番人気のオーシャンエイプスも2番目に速い上がりタイム33秒8で追い込んだが7着。共に道中の位置が後ろ過ぎたということである。中山のコースは先行するかせめて中団につけて、3コーナーで好位置にいない馬だと勝つのは難しいということである。

 桜満開の阪神競馬場は来週の桜花賞まで桜は持ちそうもない。今週、桜花賞の方が季節感があったのにと思うが都合よくいかないものだ。

 そんな阪神で豪華メンバーによるサンケイ大阪杯(GⅡ・4歳以上、芝2000m、11頭)が行われた。出走馬は、クラシック2冠馬で天皇賞を連勝中のメイショウサムソン、昨年の桜花賞と秋華賞、エリザベス女王杯を勝っている女傑ダイワスカーレット、菊花賞馬でダービー2着のアサクサキングス、皐月賞馬のヴィクトリー、一昨年の皐月賞2着、ダービー3着、菊花賞2着、ジャパンC2着のドリームパスポート、同じく一昨年のダービー2着、菊花賞3着のアドマイヤメイン、3年前のダービー2着インティライミ等・・・・豪華絢爛で、もしかして天皇賞よりもメンバーが揃っているのではないかとさえ思える。そんな中で1番人気は、2000mという距離が合っていると思われたのか牝馬のダイワスカーレットだった。2番人気にメイショウサムソン、3番人気にドリームパスポートが支持された。

 スタートからエイシンデピュティとダイワスカーレットがハナを争うが、1コーナーでダイワスカーレットが先手を奪った。2番手にエイシンデピュティとアサクサキングスが併走。その後にヴィクトリー、メイショウサムソン、さらにブライトトゥモロー、サンライズマックスがいて、その外にアドマイヤメイン、その後方にドリームパスポート、外にインティライミ、最後方は4馬身ほど離れてダイナミッククロウという展開。1000m通過が59秒6で通過したダイワスカーレット。スローペースでいて末脚が切れるだけに、逃がしてはならぬと後続馬も仕掛けに入り、第4コーナーで馬群が固まってくる。

 スカーレットの外にアサクサキングスとメイショウサムソンが並びかけようとする。直線に向いてダイワスカーレットが先頭。そしてアサクサキングスが接近しようとする。その外にメイショウサムソンだが行きっぷりが悪い。さらに内からエイシンデピュティの伸びが良い。その後ろからはドリームパスポートも伸びて来る。でもここからダイワスカーレットが二の脚を使って再度スパートした。最後は1馬身近く引き離してゴールイン。

 1着ダイワスカーレット 1分58秒7、2着エイシンデピュティ 3/4、3着アサクサキングス 1/2、4着ドリームパスポート アタマ、5着ブライトトゥモロー クビ。

 メイショウサムソンは6着だった。やや馬体が重いのか、動きが鈍かった。でもダイワスカーレットも馬体重が随分と増えていたのに動きは素早く、今年も順調な出足となった。

 さあ。来週は桜花賞。いよいよクラッシックレースの開幕だ。
                                                            
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2008.04.06 (Sun)

京都の桜も満開です②

 琵琶湖疎水縁の桜並木を歩いていると岡崎公園に到着した。この付近には京都会館、国立近代美術館、京都市美術館、細身美術館、京都市勧業館、京都府立図書館、京都市動物園、平安神宮がある。その琵琶湖疎水は、さらに上流に繋がっていて蹴上のインクラインへと続くのである。 

 1番左の写真は京都会館の前の疎水である。左から2番目と3番めは平安神宮の境内にある左近の桜である。下段の2枚の写真。左は京都国立近代美術館と桜、右は京都市美術館と桜である。(写真をクリックすると拡大します)
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 岡崎公園から神宮通を南へ歩くと巨大な知恩院の三門が見えてくる。久しぶりに石段を上って三門をくぐり本堂まで行ってきた。(写真をクリックすると拡大します)
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 知恩院の南側には円山公園が拡がっている。そして、公園の中央には枝垂桜があるが、最近はカラスにつつかれて哀れな姿を留めている。でも周辺は物凄い人盛りで、みんな枝垂桜の写真を撮っている。・・・・・・何れにとても円山公園は人、人、人でごった返し身動きが取れない。(写真をクリックすると拡大します)
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 円山公園から清水寺へ抜ける「ねねの道」は、人混みで思うように進まない。東京や大阪の繁華街なみである。(写真をクリックすると拡大します)
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 八坂の塔の前から脇へそれて、四条木屋町までやって来た。ここは京都の歓楽街なのであるが、高瀬川が流れる淵には、ご覧のように桜が植えられてある。京都有数の歓楽街も、ネオンに混じって桜が彩りを加えるのである。(写真をクリックすると拡大します)
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2008.04.06 (Sun)

京都の桜も満開です①

 このところの陽春に誘われて京都の桜も満開になったようである。そんな折、ふらりと桜の見学がてらに出かけてみた。何処に行こうかと悩んだが、とりあえず思いついたのが嵐電に乗ることだった。嵐電というのは、京都市内を走っているローカル鉄道のことで、正式には京福電気鉄道のことである。路線は嵐山本線と北野線の2路線。総延長でも僅か11㎞というコンパクトな鉄道である。起点は四条大宮で、ここから終点の嵐山までが嵐山本線、そして途中に帷子ノ辻(かたびらのつじ)という駅があって、ここから北野白梅町へ行く北野線が分かれている。最近は京都の人だけでなく、レトロブームとかで京都を訪れた観光客にも人気があり、このノロノロと走る2両連結の電車は春秋の観光シーズンには、何時も満員となっている。とにかく何処まで乗っても200円の均一料金なので、けっこう使い勝手が良い。

 それでこの北野線には桜のトンネルとして人気のあるスポットがあり、桜が咲くシーズンになると鉄道マニアが写真を撮りに来るので知れ渡っている。それは北野線の鳴滝~宇多野の間で、この単線区間は桜が線路の両サイドに植えられていて、満開になると電車が桜並木をくぐるように走り抜けて行く。

 そして、私も一度、写真を撮ってみたいと思い、わざわざ出かけてきた。鳴滝には嵐電で何度か通過しているが、桜の咲く季節には乗ったことはない。それで鳴滝で降りて、現場まで行ってみた。すると線路を見下ろす位置に10数人カメラを構えたマニアがいた。さっそく私もポイントにカメラを向けた。それが下の画像である。
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 線路を見下ろすところで写真を撮った後、今度は桜並木の線路脇まで下りて行った。下の写真は何れも、鳴滝~宇多野間で撮った写真である。(写真をクリックすると拡大します) 
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 せっかく鳴滝周辺まで来たのだから、周辺を少し歩いて見ることにした。すると、暫く歩くと仁和寺の五重塔が見えてきた。それでついでだから入ってみたが、ここの遅咲きの御室桜は、ようやく蕾になりかけている。

 五重塔とソメイヨシノだが、桜に迫力がない。
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 左は御室桜の樹木。右は中門から双ヶ丘方面を眺めたもの。(写真をクリックすると拡大します)
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 北野白梅町まで嵐電に乗り、そこから京都御苑まで延々と歩き、蛤御門から御苑内に入る。明治維新までは、天皇の住居である御所を囲む公家の屋敷が並んでいた所である。今は緑地帯で市民の憩いの場である。だが、相変わらずだだ広い。学生の頃はそれこそ頻繁に来たものであるが今回、久しぶりに訪れて見た。

 御所を取り囲む土塀付近は閑散としている。それでも御苑内は桜の木が所々に見かけられ
花見客も多い。(写真をクリックすると拡大します)
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 御苑を出て鴨川までやって来た。荒神橋から丸太町橋までの間の桜は、もう一つだが、この付近も両岸に桜の並木が連なっていて、花見客が大勢いて賑わっていた。(写真をクリックすると拡大します)
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 鴨川沿いを下流に向って歩いて行くと、疎水縁の桜並木に遭遇する。ここは昔から知る人ぞ知る桜の名所。あまり観光客も来ないので、ゆっくりと見学できる。冷泉通の側を流れる疎水の淵に桜が植わってあり、ここの桜は見事である。・・・・・この疎水と覆いかぶさる桜の木が岡崎公園まで続いている。(写真をクリックすると拡大します)
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 次回に続く。
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2008.04.05 (Sat)

カラヤン生誕100年

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 今日、4月5日はヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕100年にあたる日である。生誕100年といっても、当の本人は1989年に亡くなっているから生きている訳ではない。でも20世紀のカリスマ指揮者として帝王として、未だに圧倒的な人気を誇る指揮者であるだけに、カラヤン生誕100年だとか何とかいってクラシック音楽界は姦しい。

 ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年4月5日、オーストリア=ハンガリー帝国のザルツブルクで生まれた。ザルツブルクというとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも生まれた所だけに、音楽は盛んである。カラヤンはそんなザルツブルクの貴族の一家に生まれたのである。ギリシャ系とかアルメニア系だとか色々いわれているが詳細は解らない。地元のモーツァルテウム音楽院で学び、若くしてオペラ指揮者としてデビューし、1934年にアーヘン市立歌劇場の音楽監督に就任する。1938年にはベルリンに進出し、翌年にはベルリン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座でオペラの指揮者として活躍。1946年にはナチスの党員であったため、一時期、公開演奏停止処分を受けた。だが1948年にはウィーン交響楽団の首席指揮者。1949年にはウィーン楽友協会の音楽監督に就任。この頃は、イギリスのフィルハーモニア管弦楽団とレコード録音を盛んに行い、カラヤンの知名度は格段に拡がっていく。そして、1955年には急逝したヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、音楽監督の座を射止め、この年から亡くなるまでクラシック音楽界の帝王として、その地位に留まることとなる。

 以上、カラヤンの簡単な略歴を追ってみたが、私がクラシック音楽に興味を持ち出した頃には、すでにカラヤンの名は轟きわたっていた。帝王、カリスマ、君主・・・・色々といわれ、とにかく妥協を許さないほどオーケストラ団員への要求は厳しかったという。そもそもカラヤンが世界最高峰のベルリン・フィルの首席指揮者の地位を得るまで、ベルリン・フィル内では一悶着あったという。

 1955年、フルトヴェングラーとベルリン・フィルによるアメリカ演奏旅行が決まっていた。ところが1954年にフルトヴェングラーが逝去した。ベルリン・フィル側は後継者を急いで探さねば成らなかった。候補としてはカール・ベーム、セルジウ・チェリビダッケ、ヨーゼフ・カイルベルト、オイゲン・ヨッフム・・・・・。そんな中で人気急上昇中のカラヤンの名前も当然のようにあった。団員の多くもカラヤンが後継者として引き継いでくれれば満足だった。だが、カラヤンは終身首席指揮者の地位に拘った。前任のフルトヴェングラーの亡霊があったのかもしれない。ましてやナチス党員だったカラヤンは、アメリカ演奏旅行は危険な賭けであった。元ナチス党員という色眼鏡で見られやしないか、フルトヴェングラーと比較されないか、それによりベルリン・フィルの首席指揮者の地位から転落という結果も有り得るのを危惧したのである。つまり終身ベルリン・フィルの首席指揮者である保証が欲しかったのである。結局、ベルリン・フィル側は、カラヤンの要求を呑むしかなく、アメリカ演奏旅行に旅立ったのである。

 アメリカ演奏旅行は成功したが、一部の人の反感を買い、ニューヨークのカーネギー・ホールの前では、抗議の行進も行われた。600万人のユダヤ人死者を祈念する横断幕も張られたという。でもコンサートは大成功で、アメリカの聴衆はカラヤンとベルリン・フィルに大讃辞を送ったのである。これによりカラヤンはベルリンの音楽界に帝王として君臨し続けるのである。

 カラヤンの音楽作りは徹底していて、団員に過酷な要求をつきつけた。オーケストラの団員に合奏の正確さを求め、音を徹底的に磨き上げ、洗練された音色を目指すのだった。レガートの使用により流麗で典雅な輝かしい音質を追求することにより、艶やかな色彩感あふれる音色を生み出したといわれる。確かにフルトヴェングラー時代のベルリン・フィルよりも音色が鮮やかになった。そして、レパートリーが広く、ドイツ、オーストリアの伝統音楽からチャイコフスキー、ドヴォルザーク、またはシベリウス、グリーグ等の北欧音楽、ヴェルディ、プッチーニのイタリア音楽、シェーンベルク、ウェーベルン等の新ウィーン楽派まで演奏するというから驚く。それは、かつてのフルトヴェングラーが、独墺系音楽を中心に演奏していたのとは違い、ベルリン・フィルにとって大きな変革となった。

 またカラヤンの指揮は、ある意味で格好が良かった。最初から観られることを意識してタクトを振っていたのかもしれない。目を閉じ背筋を伸ばし、棒を正面に向けず大きく振り下ろしをする。この独自のスタイルが人気を呼び、カラヤンの指揮を真似しようとする指揮者志望の青年も世界中にいたぐらいだ(小澤征爾など多数)。・・・・彼はナルシストだったのだろう。写真を片側からしか撮らせず、横顔には自信を持っていたという。自分の指揮に陶酔しているのかもしれない。

 ここまでは一般的なカラヤン論だが、私もカラヤン指揮の演奏を相当数聴いてきた。私が感じるところでは、カラヤンは駄作がないというが、つまらない演奏もある。彼のベートーヴェン演奏はあまり好きにはなれない。それはブラームス、シューマンにも言えることであるが、重厚さが足りなく即物的である。やはりカラヤンよりはフルトヴェングラーの方が私の好みに合っている。でもチャイコフスキー、ドヴォルザークは好きだ。チャイコフスキーの『4番』『5番』『悲愴』『弦楽セレナード』、ドヴォルザーク『新世界』、このような色彩の溢れる曲はカラヤンは巧だ。それにワルツやポルカ、オペラ、軽い曲はそつなくこなす。このように、ありとあらゆる曲に対応できる数少ない指揮者の1人であり、その何れもが水準以上であることは認めざるを得ない。

 中でも私が素晴らしいと思うのはリヒャルト・シュトラウスの演奏である。どのCDを聴いても、カラヤンの指揮するリヒャルト・シュトラウスは見事である。スケールが大きく細部にわたってまで配慮がなされていて聴き惚れてしまう。『アルプス交響曲』『ドン・ファン』『死と変容』『ドン・キホーテ』『ツァラトゥストラはかく語りき』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』・・・・・どれも良いが、最も素晴らしいのは『英雄の生涯』ではないだろうか・・・・。一般的に85年にベルリン・フィルの演奏で録音された『英雄の生涯』の評判が高いが、私は1974年にベルリン・フィルと録音した『英雄の生涯』の演奏の方が好きである。全体的なスケールは85年版に譲るが、肌理の細かさで緩やかな弦楽器が冴え渡っている74年版の方に軍配を上げたい。さて、あなたはカラヤンの録音された曲では、どの曲がお好みですか?

 リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』の冒頭 リハーサル風景のカラヤン


 チャイコフスキー『交響曲第5番~第4楽章』


 ドヴォルザーク『新世界より~第4楽章』


 
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2008.04.03 (Thu)

桜も咲きました

 関西もようやく桜が咲き揃ってきた。花見の季節であるが、夜桜を見学すると風をひきそうなほど肌寒い。今年の桜は例年に比べるとどうなんだろうか・・・・・。

 ところで、この染井吉野という桜は、今や桜の代名詞のようなものであるけれども、この世に登場したのが、江戸時代末期と比較的、桜の中では新参者なのである。江戸時代末期、江戸の染井村の職人達によって育成されたからソメイヨシノと呼ばれるようになったのであるが、葉よりも花の方が先に開花することで人気を博し、その後、日本中に植えられるようになり、今では桜といえばソメイヨシノと連想されるほどにまで広まった。でも色は淡く八重桜のように鮮やかさはないし、樹齢は60年ぐらい(中には樹齢100年以上のものもある)と短いなど欠点もある。

 えーさてー、関西の桜の名所といえば、まず第一に奈良県の吉野があげられるが、ここの桜は山桜で、まだ咲いてない。それで近場で咲いているところはないかと考えてみる。それで思いつくのが京都の嵐山である。子供の頃は、花見というと嵐山に行ったものである。でも京都の桜の名所は到る所にあるので、何を今さらという気がしないでもない。それで大阪ではどこかと思いを巡らすと、大阪城公園の桜が有名である。でも人が多すぎて、酒臭い連中がウヨウヨいそうだ。それでもっと近場にないかと考えてみると、桜ノ宮が思いついた。桜ノ宮というだけに桜の名所である。

 大阪に毛馬というところがあり、そこから旧淀川と新淀川に川が分かれるのであるが、旧淀川は今では大川といい、その両岸は桜の名所になっている。特に上流の毛馬橋から下流の天満橋までの間は、桜の木が植えられていて、今頃ともなるとソメイヨシノが見事に花を咲かせるのである。

 帝国ホテルと桜。
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 大川を挟んで対岸を望む。大阪ビジネス・パークが近くに見える。
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 桜の木々の向こうにはOAPと大阪城が小さく見える。
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 大川を遊覧船が・・・・
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 向こうに見える二段の橋は天満橋。あの橋を潜ると中之島である。
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2008.04.02 (Wed)

ピーター・ポール&マリーを聴く

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 PPMというグループを知っている人というのは、間違いなく50歳以上であろう。PPMだからといって、濃度が100万分のいくらかを示す単位のパーツ・パー・ミリオンという名前ではなく、ピーター・ポール&マリーの略であることをお忘れなく。

 そんなの知らないという人も多いだろう。でもPPMは、1960年代に一世を風靡したフォーク・グループなのである。メンバーはピーター・ヤーロウ(ヴォーカル、ギター)、ノエル・ポール・ストゥーキー(ヴォーカル、ギター)、メアリー・トラヴァース(ヴォーカル)。つまり男2人、女1人のグループなのである。

 1960年代中頃、日本では大学生を中心にフォーク・ソング・ブームが吹き荒れた。その後、日本語の和製フォークなるものが世に出てくるようになるが、それ以前のカレッジ・フォークというのは、アメリカのフォーク・ソングのカバーが主流だったのである。

 フォーク・ソングというのは、ギター一つでメッセージ性のある唄を唄えるので、当時の血気盛んな若者に迎合され、一躍フォーク・ソング・ブームとなった。でも、まだオリジナルの日本語フォークは出現してなくて、その多くはボブ・ディラン、ピート・シーガー、ウッディ・ガスリー、キングストン・トリオ、ジョーン・バエズ、ブラザーズ・フォア、ハイウェイメン等のカバーが主流で、それらの唄を唄おうとする若者が日本の到る所に出現し、多くののアマチュア・グループが結成された。それで日本のフォーク・グループの多くが、最も手本にしたのがピーター・ポール&マリーではないだろうか。それは他のアメリカのフォーク・シンガー、フォーク・グループを通してみても、PPMが最も癖がなかったからで、ハーモニーも美しく、日本人に受けたからだろうと思える。

 PPMは1961年に登場し1970年に解散している。だから実質、1960年代に活躍期が限定されるグループである。それにも拘らず、その間、日本の若者に唄われた曲は何曲あるのだろうか・・・・。『レモン・トゥリー』『500マイルも離れて』『パフ』『風に吹かれて』『花はどこへ行った』『天使のハンマー』『くよくよするな』『悲惨な戦争』『わが祖国』『虹と共に消えた恋』『悲しみのジェット・プレーン』等・・・・この中で『花はどこへ行った』『天使のハンマー』はピート・シーガーの曲であるし、『風に吹かれて』『くよくよするな』はボブ・ディランの曲である。『わが祖国』はウッディ・ガスリーの曲で、『500マイルも離れて』はヘディ・ウェストの曲である。でも、これらの曲の多くがピーター・ポール&マリーの歌声によって、日本に紹介されたというべきではないだろうか。

 それほど当時の日本のアマチュア・フォーク・グループに影響を与えたグループが、ピーター・ポール&マリーといっても過言ではない。それは『風に吹かれて』をオリジナルのボブ・ディランとピーター・ポール&マリー・バージョンで聴き比べてみるとよく解ると思うが、ボブ・ディランは、とにかく灰汁の強さがあり、万人に受け入れられるか疑問符がつく。それに比較するとピーター・ポール&マリーが唄うと、ストレートに入ってくる。とにかくソフトで灰汁がなくハーモニーを重視した爽やかさが伝わってくる。このようにして、日本の多くのアマチュア・フォーク・グループがピーター・ポール&マリーをカバーした。そして、彼らのように唄った。やがて、日本語フォーク・ソングなるものが登場し、日本の音楽シーンは大きく変化していった。フォーク・ソングはやがてニューミュージックなんて、呼び方に変わってしまい・・・・・時代は進んでいった。今となってはPPMなんて、40年前に流行っていたアメリカのフォーク・グループだったというぐらいの認識でしかないだろう。でも、現在の日本で脈々と受け継がれているアコースティックサウンドの源流には、必ずPPMがあるといっても言い過ぎではないだろう。それほど40年前の若者の多くは、ピーター・ポール&マリーのようなフォーク・グループを目指したものである。

 『500マイル』


 『天使のハンマー』


 『風に吹かれて』


 『パフ』ちょっと3人とも、歳をとっているけれど・・・・・

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